09/01/13 23:01:04
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▲小説武寧王
古代にも韓流スターがいた。古代の韓日関係は主に百済と大和政権との交流によると考えてよい。
古代の韓流スター武寧王はとてもハンサムだったと伝えられる。背も高くて顔つきが秀麗で、民がよく
従ったと伝わる。すなわち、「三国史記」によれば、「武寧王は背が8尺、目つきが絵のようで善良で慈
しみ深く、寛大で民心が従った」と評しているほどだ。21世紀の韓流スターである俳優のペ・ヨンジュン
やチャン・ドンゴン程ハンサムだったようだ。おかげで日本列島でも人気を呼び、百済本国の王に即位
後も徳治を開いて、より安定した国を導いた原動力だっただろうか。
(中略)
斯麻王(武寧王)が幼い頃、日本列島に渡って百済の移住民を治めた「倭王武」という学説の根拠は、
彼が中国に送った上表文にある。(中略=上表文引用)ここで倭王武は死んだ自分の父を済だ明ら
かにしている。(「臣亡考濟」、ソ・ジンチョル教授は[亡びた百済を思えば]と主張)一方、突然父と兄を
失ったという「奄喪父兄」と言う言葉が、即ち倭王武が幼い頃の百済分国王武寧王という根拠だ。何
故ならば、倭王武=雄略天皇(正確には雄略大王)という日本側主張は全く当たらないからだ。
日本四書の記録を見ても上記上表文は雄略と父兄の血縁関係で見る時、全く該当がない。もちろん
彼の父親と兄が一緒に死んだという記録もない。「日本書紀」の記録を見れば、彼の父親と兄の死亡
年代は数十年の差がある。同時に倭王武が中国に私信を送った記録は502年にも見えるのに、「日
本書紀」の記録どおりなら同じ人物という雄略はすでに479年に死んでいたはず。だから日本側が主
張する倭王武=雄略説は一つの減らず口主張に他ならない。
一方、開路王が北魏に送った上表文と倭王武が宋の皇帝に送った上表文はよほど似ている。一人の
人物が百済と倭国を行き交って上表文を書いたようだ。開路王の上表文中の「当率所統」と倭王武の
「駆率所統」がほとんど同じ意味であり、また空の神さまと地の神さまが手伝ってくれるという意味の
「神祇垂感」と「覆載」と言う単語使用がほとんど同じだ。だからこの二つの外交文書の作成者が同一
の可能性が大きいという証拠であると同時に開路王と倭王武との緊密な関係一緒に読める。
彼が倭の五王の中で、最も有名で立派だった「倭王武」だった。倭王武から「武」の字を取って、百済
王在任時、中国から叙勲を受けた「寧東大将軍」から「寧」を取って「武寧王」と言う諡号を使うように
なったというソ・ジンチョル教授の主張が一番説得力がある。
(中略)
このように日本の飛鳥文化は古代の韓流スターである武寧王から文化の乳をすって発展の力を育て
た後、その息子聖王によって仏教文化まで受けて急成長した。それゆえに韓日友好の象徴的人物で
ある武寧王こそ、その子孫を両国にもつ古代のハンサムな韓流スターに違いない。武寧王という傑出
した古代の韓流スターが韓日両国で受けたその熱気が、今も歓声でありありと聞こえるようだ。
チャン・パルヒョン博士
ソース:ニュースタウン(韓国語) 古代の韓流スター武寧王!日本飛鳥文化の源流!(抄訳)
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