09/01/11 19:29:19
「最も大きい理由のひとつとしては、体格、骨格の違いですね。今でこそ日本人と韓国人との体格差は
それほどでもなくなりましたけれど、昭和40年代ぐらいまでは明らかに体格の違いがありました。
スポーツにおいて体が大きいというのは、非常に有利です。そもそも、その差がどこから出てきたかといえば、
やはり食文化でしょう。朝鮮半島ではずっと肉食をしていましたが、日本には伝統的に肉食習慣は
ありませんでしたからね。それが究極的にはスポーツ選手のフィジカルの差になって表れたといえるでしょう」(前出・康氏)
そしてもうひとつの大きな理由は、差別によって日本社会の一員となれなかったことが大きいという。
「私自身も小さい頃から、『在日は日本の会社に就職できないから、大人になったら自分の力でどうにかするべきだ』と、
年中親に言われていました。つまり、差別が今よりも明確にあった時代は、在日の進むべき道がなかったんです。
しかし、なんとかして生きていかなくちゃならない。そんな時代背景の下、在日が仕事にありつける場所といえば、
芸能界、スポーツが主だったんです」
かつての日本社会に横たわっていた根強い差別意識の影響もあり、
在日は己の力だけでのし上がれる世界しか進むことができなかったのだ。
これまでに挙げた在日選手はいずれもプロスポーツの選手だが、今度は在日のアマチュアスポーツに目を向けてみよう。
60年代、「日本最強のサッカークラブ」と呼び声が高かった在日朝鮮蹴球団という在日選手のみで結成された
サッカークラブがあった。このチームを通して日本の戦後史を描いた『チュックダン!』というルポルタージュがある。
蹴球団は61年に在日本朝鮮人総聯合会の支援を受けて結成された。
しかし、日本サッカー協会の規定によって公式戦への参加を認められなかったため、
当時のトップリーグだった日本リーグに所属するチームや各県の国体選抜チームを相手に
非公式戦という形で挑み続け、連戦連勝を重ねた。蹴球団の勝利が、差別や貧困に苦しむ
在日同胞に、朝鮮人としての誇りを与えたのだ。だが、時代の流れとともに、
在日の立場や生活水準が向上するにつれ、「在日のために戦う」というモチベーションを
前面に出す必要がなくなり、チームの存在意義も揺らぎ始める。そして99年に活動を休止し、
現在は関東社会人2部リーグに登録されているFCコリアがその意志を継いでいる。
高校生スポーツでは、朝鮮高校(同校をめぐる歴史や当時の状況を知るには、映画『パッチギ!』が最適)が
全国高校総体(インターハイ)に出場するという険しい道のりを描いた、『在日挑戦』という作品が興味深い。
在日の通う朝鮮学校が94年にインターハイ参加を認められるまでの経緯、インターハイの頂点を目指す
ボクシング部の生徒たちの奮闘ぶりを、記者が現場に直接赴いて取材をしている。
今では大阪朝鮮高校サッカー部が全国高校サッカー選手権大会に出場し、
日本の高校と肩を並べるようになったが、本書は高校スポーツ界における
在日の歴史を知る貴重な一冊となっている。
(文=金明昱/「サイゾー」1月号より)
URLリンク(www.cyzo.com)
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