08/11/14 23:29:25
(>>1の続き)
◆国際報道専門記者を無くす?
11月はじめに北京に調査旅行に出た際、他社の記者から小耳に挟んだ話では、朝日は海外報道を主管し、固定した専門的な部署
であった「国際部」を廃止し、政治部や経済部、社会部の記者が一時期海外報道に携わり、海外支局から帰任する記者はまた元の
部署に戻るという方式に改めるという。これがもう一つの朝日の変化を示す出来事である。
すでに朝日新聞社では、一連の不祥事から社内の体制を一新し、「部」という呼称を止めている。したがって、政治部、経済部という
私の言い方も正確ではないのだが、呼称は変えても実際には、そういう組織がまだ残っている。
だが、今回「国際部」を廃止するという考えはどうやら名称の変更の問題だけではないようだ。国際報道と国内報道の垣根を無くし、
国際報道専門の記者を無くすということらしい。「かつての中国の専門記者の領域から、様々な分野の記者が巨大な隣国を直接取材
対象とする時代を迎える」とする局長補佐の文章からもその意図が読み取れる。
最近、ある会合で出会った元国際部の記者の名詞には「東京本社外交・国際グループ」という組織名があった。国際より外交が先に
おかれるあたり、国際化より国益、国籍を意識する外交を優先する時代逆行の発想が垣間見られる。
中国のような特殊な国を専門とする記者は、往々にしてその国に取り込まれてしまう傾向がある。「媚中派」「親中派」というわけである。
それを無くすために専門記者を廃止する。朝日に限らず、こういう発想が多くの新聞社にある。新聞社だけでない。商社にも銀行にもある。
外務省で一時期「チャイナスクール」が問題になったことがあったが、それもこの流れであろう。中国部門をどう改革するか、他のメディア
にも見られる問題であり、またこの件に関して朝日新聞社に直接インタビューしたわけでもないので、以下は一般論として、私の見解を
述べたい。
もちろん弊害も数々あるだろうが、その廃止には様々な疑問が浮かぶ。そもそも政治部の記者や経済部の記者には、取材先に
「取り込まれる」ことはないのか。新聞社、テレビ局の過去を振り返ると、政治家や大企業に取り込まれてしまった記者は数多くいた。
そもそも新聞社の大幹部はそのような人ばかりではなかったか。
逆に専門家の存在にいい点はないのか。あったとしたら、その長所は新体制の中で、どう補われるのか。とくに国際報道の場合、
国際社会全体、あるいは取材対象となる国に対する専門的な知識も、長期的な、マクロな視点が求められる。国際性に乏しい日本国内
の政府や企業取り込まれてしまった記者たちに、この複雑極まりない中国を取材する力があるのだろうか。専門記者でさえ完全に掌握
しきれない対象であり、素人記者はなおさらで、より低いレベルで安易に中国を切って捨てるような報道になりかねない。自国の問題を
棚に挙げ、中国を発展段階の低い国と見立て、あるいは歴史、文化、生活習慣の違いを「異様な国」「特異な国」と決めつける一人善がり
な報道はすでに散見される。
私が9月に指摘したように、海外に拠点をおく反体制派の一方的な情報のみを鵜呑みにして書くような報道に陥ってしまわないのか、
甚だ疑問が残る。冒頭紹介した「私たちの国もそうした経過を経てきたことを考え合わせ、中国の人々に真摯な態度で提言、問題提起
するという姿勢の報道であってほしかった」というモニターの声が生かされるのだろうか。アメリカの価値観を振り回し、第3世界を切り刻む
ことで、失敗を犯してこなかったのか? イラク戦争を引き起こしたブッシュ政権の末路に、メディアとして反省するところはないのか?
私は新聞社の中に、ジェネラリストとスペシャリストが共存し、いつも議論をし合いながら紙面を作っていくのがベターだと考えている。
1人の記者に両方を兼ね備えることを要求するのは難しい。私の疑問が杞憂かどうか、朝日の中国報道とその報道体制の成り行きを、
さらに見守っていきたい。
(終わり)