08/11/07 08:51:33 kXhoHMBu
マンガンぱらだいす の部隊だわな
田中うー がまともに取材していたころの作品
野中の暗部を描いたので発禁になったけれど
95.10.15 東京読売朝刊9頁 書評面(全950字)
おもしろかったのは、著者が手の内を正直にみせながら書き進めているのと、
もう一つは、著者にまつわりついていた通念のようなものをつぎつぎと振り払っていくことである。
入品に押され昭和四十年代には閉山したが、昭和の初めからここで働いてきた人のほとんどは、
出稼ぎに来たりそのまま住み着いたりした朝鮮人たちだという。
差別され酷使された彼らの話を集め、加害者としての日本人の立場を問いなおそう―
著者は張りきって取材をはじめたのに、ふさわしい話はさっぱりみつからず行きづまってしまう。
「朝鮮人=強制連行=悲惨」とか「朝鮮人=日本人への恨み」といった式が思うように成りたたないのである。
取材を重ねると、「戦中の朝鮮人=苦労ばかり」という「常識」もまた覆る。
死に等しい炭鉱への徴用から逃れるため、まだましなマンガン掘りをした時代もあったし、
日本の小役人を接待してうまくやった人もいた。
●産経新聞の書評
(95年11月9日の全国版。
マンガン坑夫だった李貞鎬(イ・ジョンホ)さんが、自分の人生を残そうと、平成元年に設立した。
戦前、戦中にかけて、丹波のマンガン鉱山では、大勢の朝鮮人坑夫が働いていた。
当時の日本人の横暴な朝鮮人支配を描くのに格好のモチーフであり、記念館はその入口になる。
大手通信社の京都支局員だった著者は、マスコミの定石通りそう考え、取材を始めた。が、やがて行き詰まってしまう。
戦後は戦後で、すさまじい秘話も飛びだしてくる。丹波マンガンの集散地だった
町に北朝鮮系の団体の支部が生まれ、日本共産党と組んで鉄道の爆破テロを計画。
鉱山のダイナマイトが用意されたが、実行寸前で中止になった……云々。
>「京都府の丹波町の下山と、日吉町の胡麻に、山陰線の高い鉄橋がある。
あれを爆破しに行くことを計画して爆弾も用意した。
だが、どういう理由か忘れてしまったが、結局やめることになった。
本当にやっとったら皆、死刑じゃ。
自民党の国会議員のNも当時はバリバリの共産主義者だった。
彼は園部の細胞(組織)のキャップをしていたので、
一緒に細胞会議をしたこともある。今じゃバリバリの自民党だもんね。」