08/10/04 11:07:54 LxDWltV/
>>600
百済人難民が日本に渡ってきたのは事実のようだ。その名残は八丁味噌、浜納豆などに見られるし
静岡沿岸から、神奈川沿岸の遺跡からもその頃の文化を偲ばせる遺物がでる。
それに百済の民族は日本の海洋民族と縁があったらしく、日本百済連合軍という離れ業もやっていた。
ごく近しい民族で言葉が同じ、もしくは一方言のような状態でなければ出来ないだろう。負けたけど・・・
でそのころ聖徳太子が現れるわけで、難民受け入れで国内が荒れたことは確かだろう。
それを収めるために、「和をもって尊しと成せ」とかいう概念が出来たのではないかと言われている。
だから、百済の人々は大和朝廷に組みすることで同化したと考えられその後に平仮名、カタカナなどが
できて日本語というのが確立していったからその頃の言語は塗りつぶされたと見る方が自然かと
方言にその名残はあるのかも知れないが・・・
ただ、新羅(日本読みでしらぎ)が来てたというのはよく分かっていない。
そもそも、防人制度が出来たのは新羅警戒のためですよ。