【歴史】旧満州・ハルビンから連れ去られシベリア抑留、モスクワで銃殺…父の埋葬地を探し続けてきた娘、63年ぶりに父と無言の対面[9/27]at NEWS4PLUS
【歴史】旧満州・ハルビンから連れ去られシベリア抑留、モスクワで銃殺…父の埋葬地を探し続けてきた娘、63年ぶりに父と無言の対面[9/27] - 暇つぶし2ch1:諸君、帰ってきたで?φ ★
08/09/27 19:50:50
 反ソ連情報活動に従事したとして旧満州から連れ去られ、銃殺刑に処された父親の埋葬地を探し続けてきた娘が今月25日、
モスクワで63年もの歳月を経て父親と無言の対面を果たした。しかし、ソ連によるシベリア抑留で死亡した日本人5万3000人
のうち3万6000人の遺骨は現在も発見されていない。遺骨を持ち帰って埋葬したいと願う遺族も高齢化が進んでおり、一刻も
早いロシア側の情報提供が待たれる。

 モスクワを訪れたのは、満州電信電話会社政治部長だった宇山禄郎さん=当時(34)=の長女、冬実さん(63)=静岡県
掛川市。25日、モスクワのドンスコイ墓地にある「圧政犠牲者追悼の地」を訪れ、「日本人埋葬碑」の前で、冬実さんは日本から
持ってきた酒と花を手向けて禄郎さんの冥福(めいふく)を祈った。平成13年に死去した母、代志枝さんから、「お父さんはお酒
が強く、同僚を自宅に呼んではお酒を酌み交わしていた」と聞かされていた。

 冬実さんは「ロシアのどこで眠っていようが、『お父さん、やっと来られましたよ』と手を合わせて話しかけられただけでもよかった。
母が生きている間に連れて来られなかったのは残念だけれど、これで私にとっての戦後がやっと終わった」と涙をぬぐった。

 冬実さんが代志枝さんや親類などから聞いた話では、禄郎さんは終戦直後の昭和20年9月、ハルビンの自宅からソ連当局者
に連行された。ロシア語が堪能だった禄郎さんは対ソ情報収集に従事していたとみられたためだ。禄郎さんは、冬実さんと一緒に
写真に収まるのを避けていたほか、住所は親族にも知らせていなかった。当時、生後8カ月だった冬実さんには父親に関する記憶
はない。

 禄郎さんと生き別れた代志枝さんは乳飲み子の冬実さんを抱え、1年間にわたって引き揚げ待機者の収容所などを転々とした
後で帰国した。禄郎さんが帰ってくるのでは、と期待しながら引き揚げ者が到着する舞鶴港に何度か通ったが、昭和30年に
「ハバロフスクで戦病死した」との死亡公報を受け取り、がっくりと肩を落としたという。

 ところが、平成12年7月、シベリア抑留時に銃殺された日本人15人のリストがロシア側に存在することを産経新聞が報道。
その中に「ウヤマ・ロクロウ」の名前があり、モスクワで処刑された可能性があることが判明した。その後、日本側がロシア側から
入手した資料から、禄郎さんは「日本のために反ソ諜報(ちようほう)活動を行った」として逮捕され、昭和22年4月にモスクワ市内
で銃殺されたことが確認され、冬実さんは他の抑留犠牲者の遺族らと連絡を取り、禄郎さんのモスクワ周辺での足取りを追跡
してきた。

 その結果、独裁者スターリンの大粛清などの犠牲者が7000人以上、埋葬されているモスクワのドンスコイ墓地内の外国人を
含む犠牲者リストに「ウヤマ・R」(原文はロシア語)という禄郎さんらしき人物の名前が掲載されていることが新たに判明。死後
61年目にして墓参が実現した。

 ただ、埋葬地や遺骨の所在地は不明のままだ。厚生労働省はこの情報を基に禄郎さんの埋葬先の特定作業を進める方針だが、
墓地の荒廃や消滅などで調査は年々、困難になっている。

 冬実さんは「日本政府は埋葬地の特定や遺骨収集のために、もっとロシア側に情報公開するよう迫るべきだ。北方領土問題や
北朝鮮による日本人拉致事件でもそうだが、政府の姿勢を疑問に思う」と話した。

  ■シベリア抑留 昭和20年8月、日ソ中立条約を破り対日参戦したソ連軍が、満州などで日本軍将兵や軍属、一般邦人ら
約57万5000人をシベリアやモンゴルなどの収容所に抑留した。抑留者は2-11年間にわたり森林伐採などの重労働を
強いられ、約5万5000人が寒さや飢え、強制労働による衰弱、病気などで死亡した。厚生労働省によると、ソ連国内で死亡した
約5万3000人のうち約3万6000人の遺骨は依然見つかっておらず、ロシア側は現在も抑留死亡者1万2000人分の情報を
公表していない。

ソース(MSN産経ニュース) URLリンク(sankei.jp.msn.com)


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