10/01/30 22:06:49
まぁ、百済の場合、中国の各王朝における歴史書によって建国伝説が
若干異なりますが、基本的には、扶餘王族であった兄弟は母親の再婚
により高句麗へと移り、再婚相手(高句麗王)と母親との間に出来た
子(異父兄弟)との関係により、南へと逃亡し、その際に当地の住民
を引き連れ、更に南下し、最終的に楽浪郡周辺に行き着き建国する、
という物ですね。
なお、百済国の文化・民俗・風習としましては、大まかに楽浪ら漢の要
素とともに、高句麗の要素があったとされ、これらは建国地にかつて
存在した秦漢の郡とその遺民の存在と、建国の際にともに南下した高
句麗に在住していた民の存在による物と考えられます。
まぁ、これらの点は出土遺物より漢や高句麗との関連性が認められる
など裏づけがあり、この様な点より、百済と高句麗は民族的に非常に
近いという点が挙げられます。
因みに、百済では王族と一般民衆が違う民族であったとされ、これに
関しましても、歴史書等に記載がありますが、建国の過程を考えれば
王族は扶餘系、国民は高句麗・漢ら雑多の混成、というのは納得でき
るものかと思いますね。
なお、個人的には、日本と朝鮮が同じ民族とは考えてないですね。
まぁ、当然ながら、日本列島内においてサルがヒトへ進化したと考え
てはおりませんから、大陸からの流入によって成り立ったものと考え
ますが、個人的には国家が建国される程度の時期に下った頃には、民
俗的にも民族的にも、夫々の地域における変化・固有化が既におこって
おり別の民族になっていたと思います。