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「王者(チャンピオン)」の名前を掲げながら、「週刊少年チャンピオン」は1969年の創刊当時、
少年マンガ誌の中で圧倒的に“弱者”だった。
「週刊少年サンデー」の小学館、「週刊少年マガジン」の講談社に比べ、出版元の秋田書店は
マンガ専門の弱小出版社。「サンデー」8代目編集長の井上敬三(73)は、「うちや講談社の
ような大手の雑誌には、科学やスポーツの読み物もあったが、秋田さんの誌面はほとんどマンガ。
完全に見下していた」と語る。
だが、井上が「サンデー」編集長になって4か月後の72年4月、「チャンピオン」2代目編集長に、
「まんが王」編集長だった38歳の壁村耐三が就任する。当時の部数39万部を、6年後には
250万部以上にまで押し上げた“伝説”の編集者だ。
岡山県出身。秋田書店創業者と同郷のよしみで入社、トイレ掃除から雑用まで何でもこなし、
エリート育ちとは対極にあった壁村は、思い切った策を連発した。
まず、ほとんどの連載を1話完結・読み切り形式にした。
副編集長として壁村に仕えた神永悦也編集局長(65)が言う。
「いつ、どこから読んでも楽しめるスピード感で、読者をグッと引きつけた。画期的でした」
次に壁村がもくろんだのは、巨匠・手塚治虫の“再生”だった。70年代前半の手塚は自身の
アニメ会社・虫プロの倒産で多大な借金を背負った上、マンガ家としても時代から取り残され
つつあった。「原稿料が高いわりに人気が出ない」と、雑誌の連載もほとんどなく、
ヒーローものテレビ企画にも手を出していた。
壁村は手塚から、「医者が主人公のマンガを描きたい」と持ちかけられた。
当時、手塚のマネジャーだった松谷孝征・手塚プロ社長(64)は「医者が主人公の少年マンガ
なんて当時はなく、人気の面で不安はあった」という。だが壁村は、「面白い」と決断した。
そこで手塚が創造したのが、黒ずくめの天才外科医「ブラック・ジャック」。
折しも、医療費値上げで健康保険の赤字が拡大し、医療とカネの問題がクローズアップ
されているころで、高額でどんな手術も請け負うモグリの医師という主人公は強烈だった。
連載は10年間に及び、手塚の後期の代表作となった。
180センチと長身の壁村は、気性も激しかった。古武士のような風貌で、袖を通さずコートを
羽織り、誰かれ構わずどなりつけた。
壁村の妻・美津子は、壁村が家の電話で怒り狂っているのを見たことがある。
「刺すぞ!」。相手は締め切りに遅れた手塚だった。(本文抜粋)
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