09/10/15 19:42:55
罪悪こそは悲哀の核だ。辛苦の核であり、悲哀の核でもある。
その罪悪に、自己責任によってでまで携わっている連中こそは、本当に哀れだ。
多少携わらされているにしても、あくまで被害者として嫌々仕方なく
携わらされているだけの被害者などよりも、自ら好き好んで罪悪の辛苦に
溺れている加害者のほうが、遥かに哀れだ。
その哀れさこそを好き好んでいる、十字架にかけられて苦悶する寓像こそを
好き好んでいる、真性のマゾヒストであるということは確かにいえるだろう。
ただ、それにしたって、哀れな罪悪を自ら好き好んでいる人間こそは哀れだ。
あくまで罪悪の辛苦を忌避し、なるべく減滅しようと心がける人間と比べ、
あえて好き好んで罪悪の辛苦を増大させようとすらしている連中こそは、
罪悪の辛苦により近い所にいて、故にこそ哀れだ。そいつらこそが。
罪悪の辛苦を好き好まず、いつでもそれらが存在しない世界で生きていくことを
想定している被害者のほうは、それらが消えた途端にすぐ普通の生活に戻れる。
でも、自ら好き好んで罪悪の辛苦に溺れてしまっている人間のほうは、
逮捕などによって罪悪の積重が禁止されようとも、中毒状態にあるせいで
容易にはまともな生活に戻ることができない。長い長い治療や服役を必要とする。
そういう実質的な面においても、罪悪の辛苦を好き好んでいる加害者こそは哀れだ。
いま哀れであるということもいえるし、将来の展望においても哀れであるといえる、
これまでにも8年間も哀れな人間であり続けてきたストーカー加害者。
あくまで長期の治療や服役の後にしか、本当の精神的解放も待っていない。
初めから手を付けずにいればよかった罪悪への中毒。今さら後悔してももう遅い。