10/05/18 07:12:33 YGBZyL6/
■一橋大学を語る~戦前のよもやまばなし~■
むかし朝日新聞に「青春風土記」という連載があって、主に旧制高校の人物誌や歴史が紹介されてました。
その中に旧制専門学校もいくつか混じってました。それが北大予科、東京商大予科、神戸高商、小樽高商、
長崎高商、横浜高商、大阪外語でした。それによると今より交通機関の発達してない時代に、東京の人が
横浜高商を蹴ってわざわざ就職、進学の良い小樽高商に行ってたらしい。
一橋が伸びきれなかった理由は、入試に商業学校では習わない幾何を課したせいで、商業学校での秀才は
実質一橋を受験できなかったそうだ。
そこに目をつけたのが神戸の校長で、商業学校出に門戸を開放して全国の商業学校首席をほぼ独占的に集め、
幾何など足りない分は入学後に教えたそうだ(神戸だけ4年制)。
また、1920年代に一橋大は神田一ツ橋から当時として途方もないド田舎(多摩郡 谷保[やぼ]村 )に移転したため、
都内の学生(東大、早稲田、慶應義塾、明治、中央、日大などの旧制大)や女学生からもバカにされていたそうです。
「ひと気の無いあんな芋畑の真ん中でどうやって商売人を養成するんでしょうね(笑)」
「神田一ツ橋から何でも…やぼ村というところに移ったそうな。。。野暮なことしたね(笑)」
「いやきっと、これから農学部を作って大日本帝国の食料増産を考えているんだよ」
「中央線の上りで帰ってくる一橋生にはカメムシが付いてるからお気をつけて」(都内女学生)
ホントか嘘かは知らないが、野暮だね、とカメムシの話はまことしやかに喧伝されている。
数年後、南武鉄道(当時は私鉄)に「谷保駅」が出来たのだが、一橋の学生の運動によって
「やぼ」→「やほ」と清音に読み方が変えられるに至った。(野暮と言われていたのは本当だろう)
この移転計画は西武グループ総裁の堤康次郎(早大政経卒、衆議院議員・議長)の画策によるものであった。
当初は西武沿線の大泉学園付近を予定して大造成をしていたが、政敵に利益誘導だと非難され、
中央線に近い谷保村に落ち着いた。しかし、事業主はやはり既に買収していた現在のコクドであった。
キャパスが手狭だったとはいえ、まだ都心に近い場所はいくらでもあったはずだが、如何せん一橋大には
政治力が無かった。