10/03/15 01:20:14 I0gRVkHD
そのときも私はいつものように、人の考える私の行動をとっていました。相手
を拒まず、優しく受け入れ、喜ばせる態度でした。しかし、その人は気づきま
した。私の本当にやりたいことは何なのか、と聞いてきたのです。私はハッと
して、情けないような、もう隠れだてはできない、この人には虚像は通用しな
いのだと思いました。その人は真っ直ぐに私の顔を見ていました。
このことがあって以来、私は悩むようになりました。自分は本当は何をしたい
のか。今働いていることの延長にある生活が望みなのか。今関係のある人達の
およその私への希望はそうでしょう。では、私自身の希望は同じであるのか。
どうも整合していないのです。長い間の習慣というものはおそろしいもので、
一体自分が何が好きで、何が嫌いなのか曖昧として、選ばれなくなるのです。
選択の基準は他人の考える私の像がやりそうなこと、似合いそうなこと、なん
となく得意なことでした。芯のない虚像の生き方です。
そういう迷いが今までになかったのかといえば、そうでもありません。通勤
途中に見かける空港行きの快速。出口へ向かって走るそれを見て、この通勤列
車から乗り換えればどうなるのか、勤め先や家族や友人が心配するだろう、な
どと考えはしたのです。行ってしまえば取り戻せない信頼もあるだろう、出口
と思っているだけで、その先にも同じような世界があるだけかもしれない、恐
い。そんなことを考えて、はあ、と溜息をついてそのまま勤め先に向かうので
した。
夢とはなんでしょうか。自ら命を絶つ人の考えは、そういうものなのでしょう
か。がむしゃらに働きゆく人、趣味に熱を上げて仕事を疎かにする人、愛に生き
る人、そういう人は強くて羨ましい。何かに向かって突き進むこともできない
、だからといって何も考えないということはできない。私は臆病で弱い人間な
のです。
すっかり人間失格の模倣になってしまいましたが、本当のことです。もう少し
私が何かに突き進むだけの決断心があれば、葉蔵のようになってゆくのかもし
れません。また逆にこのままの生き方を続ければ、見かけ上普通の人間になっ
てゆくでしょう。私にはそのどちらもおそろしいのです。