08/05/31 18:28:03
なんか静かになっちゃったので、ネタ振りを兼ねて>>175の続き。
人間という生き物は、他の動植物を捕食(≒殺し)しないと死んでしまう。
ならば食事が罪だとして、その罪を償う方法はあるのか。
死んで詫びるか?それでは生きるための食事が無意味になる。本末転倒だ。
服役するか?労働奉仕するか?罰金を払うか?どれも現実的ではない。
当然ながら、豚の遺族である親や子の豚に金銭を払っても何も解決しない。
罪を償うために神や仏に仕えるなり、解脱するなりの方法もあるだろうが
現代は、神頼みをしなくとも暗闇や疫病などの恐怖から逃れる事のできる時代だ。
特に現代日本では、信憑性に欠ける神仏に救いの道を求める者は少ない。
ではどうなるか。
とりあえず、殺して食う行為を続けるしかないのだろう。
勝手に殺して食って、後でごめんなさいをするしかないのだろう。
もしも、ニンジンやダイコンや虫や魚や豚が、精霊なりお化けになって出てきて
恨みつらみを言ったとしても、食事やめます、とは言えるわけがない。
この後ろめたい気持ち、申し訳ない気持ちを表す的確な言葉が無いので
とりあえず『感謝』と言っているのではないだろうか。
昔の人間は、災害や飢饉や疫病から逃れる術を持たず、
死への恐怖、極楽浄土への憧れを身近に感じながら暮らしていた。
そこへ暗闇への恐怖やら道徳観やら、ごちゃごちゃしたものが混じって
神やら仏やらができあがった。
その中に、生き物を殺して食う事への後ろめたさなども混じって
食物に感謝しようという風習が産まれた。
そして、神仏を拝まずとも死の危険から回避される時代になった今、
後ろめたさ以外の問題があらかたクリアされ、名残として『感謝』の言葉が残った。
『感謝』とは、『おはよう』や『ちーっす』などと同様、
語源と若干ずれた意味を持つ、現代語の一種とも言えるのではないだろうか。