【話題/歴史】白虎隊士の孫、山口を訪問し長州に礼尽くす。at FEMNEWSPLUS
【話題/歴史】白虎隊士の孫、山口を訪問し長州に礼尽くす。 - 暇つぶし2ch1: ◆YKPE/zzQbM @ゆきぺφ ★
10/03/19 23:45:46
戊辰戦争で新政府軍と戦い、集団自刃した会津藩の白虎隊士でただ一人、命を取り留めた飯沼貞吉
(1854~1931年)の孫で、東京都の会社社長飯沼一元さん(67)=仙台市出身=が20日、かつての
宿敵・長州(山口県)を訪れる。山口には、貞吉が戊辰戦争後の一時期、長州藩士の屋敷で過ごしたとの
説が残る。一元さんは自らの調査などで「長州滞在」がほぼ確実だったと考えており、現地の人たちに感謝の
気持ちを伝える。

飯盛山(福島県会津若松市)で白虎隊の隊士が自決したのは、1868(慶応4)年10月。生き残った貞吉は
戦争後、新政府軍によって東京に送られたらしい。

1872(明治5)年に当時の逓信省の技師になり、下関を振り出しに神戸、東京などで勤務。日清戦争に
従軍後、仙台逓信管理局の工務部長を務めた。長く仙台で暮らしたが、会津にはあまり戻らなかったとされる。

一元さんによると、逓信省に勤めるまで数年間の足跡は明確になっていないが、意外にも、今の山口県美祢市で
過ごした可能性が高いという。

戊辰戦争で会津に攻め込んだ長州藩士楢崎頼三(1845~75年)が、貞吉を会津から東京に護送し、さらに
山口県まで連れて行って自分の家で養育したとされ、楢崎家で働いていた女性の話として地元に伝えられている。
事実だとすれば、貞吉の「長州滞在」は1869年前後の約1年半とみられる。

会津では、あまり知られておらず、地元研究者の間では「証拠がない」などと否定する意見も少なくない。

一元さんも以前は「敵の本拠地に行って、世話になることなどあり得ない」と思っていた。2年前に現地で語り継が
れている内容を聞いたり、自らも調査したりした結果、今ではほぼ間違いない事実とみている。

一元さんは「貞吉が逓信省に入るまでには、(一人だけ生き残ったという)絶望の淵から立ち直るきっかけが必要
だったはず。美祢では勉強の機会も与えられたようだ」と話す。

一元さんは20日から山口県を訪れる。郷土史家らとの公開座談会に参加して会津と長州の歴史などを語り合う。
楢崎家の墓参りもするほか、ゆかりの地を訪ねて祖父の足跡をたどる予定だ。


[白虎隊]会津藩が1868(慶応4)年、朱雀、青龍、玄武とともに設けた部隊。武家の16、17歳の
男子約300人で構成。本来は予備隊だったが、戊辰戦争で戦った。各隊は身分によって、さらに士中、
寄合、足軽に区別された。飯盛山での自決の悲劇として知られるのは士中二番隊。

◎画像
URLリンク(www.kahoku.co.jp)
自決の場の飯盛山から、ただ1人生還した元白虎隊隊士の飯沼貞吉。

URLリンク(www.kahoku.co.jp)
飯沼 一元さん。

◎ソース:河北新報
URLリンク(www.kahoku.co.jp)

2:やまとななしこ
10/03/19 23:46:34 bfoTY7B+
白虎隊はゆとり

3:やまとななしこ
10/03/19 23:53:05 tuhQFRd7
>>2
そしてあなたは半島人

4:やまとななしこ
10/03/20 00:01:15 CtUZWCJs
戊辰戦争を戦った世代の孫世代はいまだに健在なんだな。

5:來林檎
10/03/20 00:11:31 YvNiHAfF
戦雲暗く陽は落ちて 孤城に月の影かなし 誰が吹く笛か知らねども 今宵名残りの白虎隊

紅顔可憐の少年が 死をもて護るこの砦 滝沢村の血の雨に 濡らす白刃の白虎隊

詩吟
南鶴ケ城を望めば砲煙あがる 痛哭涙をのんで且彷徨す 宗社亡びぬ我が事おわる 十有九士腹を屠って斃る

飯盛山の頂きに 秋吹く風は寒けれど 忠烈今も香に残す 花も会津の白虎隊 花も会津の白虎隊

6:やまとななしこ
10/03/20 00:16:53 YNEYiLRD
勝てば官軍とは良く言ったもんだorz

7:やまとななしこ
10/03/20 00:20:27 E2forHM9
会津藩はテロ集団

8:やまとななしこ
10/03/20 00:23:54 7at0NTUq
孫で67歳って…
えらい晩婚家系なんだな

9:やまとななしこ
10/03/20 00:32:14 8Db/N2tG
未成年虐待火病を美化する会津人

10:やまとななしこ
10/03/20 00:47:32 0+F2Mwat
明治維新は朝鮮系のテロだったんですよ。長州・薩摩こそ売国奴。彼らが朝鮮系
だったなんて、ネット時代になって初めてしりました。
URLリンク(harunoshin.exblog.jp)

明治天皇がすり替えられたのは本当でした。

11:やまとななしこ
10/03/20 00:53:49 I9WLDvZ5
>4

俺の親父ピンピンしとるが、親父のじいちゃん安政元年生まれだぞ。

12:やまとななしこ
10/03/20 02:25:24 viRxTNuL
>>11

それは曾孫だなぁ…。

13:やまとななしこ
10/03/20 02:48:40 fNTk7jhF
>>10
とっとと半島に帰ろうな?

14:やまとななしこ
10/03/20 05:28:50 1dCSeoVk
>>10
電波ゆんゆんサイトだなw

15:やまとななしこ
10/03/20 08:06:02 dTSE5UiZ
こういうヒゲ、若い奴らの間で流行らないかな

16:やまとななしこ
10/03/20 09:05:40 RzLZ0LcS
曾孫の間違いじゃないの?
どう考えても爺さんも親父も40過ぎてから子供作ってないと年齢あわん。


17:やまとななしこ
10/03/20 09:06:28 lIjkB9uM
会津って戦局定まった後なのに何のために抵抗したんだっけ?
空気読めてなかっただけ?

18:やまとななしこ
10/03/20 09:07:59 RzLZ0LcS
理論上、戊辰戦争時に16歳だった奴が80歳くらいで子供作れば、
それがいまだに生きていても可笑しくはない。

19:やまとななしこ
10/03/20 09:28:36 hOLhSJ8f
>>17
会津はねえ・・・。幕末京都で尊攘派弾圧の責任者出してたから、恨まれて
たからねえ。

20:やまとななしこ
10/03/20 09:56:18 guO8hqCf
戦局が定まっても、義というものがある。
負けるとわかっている戦にも意味はある。


21:やまとななしこ
10/03/20 10:04:25 mhi1SSES
ただの政府側の戦争利権で起こされた争いを、後世の人は精神論を持ち出して「義がある」とか評価してくれるんだもんな。

軍部の暴走でも政府の傲慢でもなく、三菱が利益のために起こした日中戦争もどんどん美化されてくし。

22:やまとななしこ
10/03/20 10:14:31 W62gWV6V
>>21
ドイツやソビエトの軍事顧問が起こした日中戦争を美化してるのは
中国のアホどもですよ?
武器はほとんど第一次大戦で生産過剰となったしろもの。
あるいはレプリカあるいは試作品。
自分たちの存在の正当化だけのためにやっていることです。
本来は存在さえ許されないようなクズどもですから。

23:やまとななしこ
10/03/20 10:28:25 ADDItr1e
>>1
くそスレたてるな カスニート
死ね アホ

24:やまとななしこ
10/03/20 11:07:57 oebwe6tm

殺魔人は殺人魔

25:やまとななしこ
10/03/20 11:39:22 l1GFqxuM
>>17
何にしても薩長は会津を攻める気まんまんだったし。

26:やまとななしこ
10/03/20 11:43:56 4khQf30J
昔、探偵ナイトスクープで
「会津のお年寄りは(当時で)いまだに鹿児島(薩摩)の人間を嫌ってる」
という回があったな。

実際、鹿児島出身の大学生が自己紹介するとお年寄り達は急に
話を打ち切っていた。


27:やまとななしこ
10/03/20 12:17:22 fNTk7jhF
鹿児島、山口出身っていっても明治維新後の結構ごだごだあったから
子孫あんまり残ってないと思うんだよね

萩の武家屋敷まわり出身だけど、まわりの連中にそんなの居なかったな
あの辺の成功した連中は上京して、東京に定住したような

28:やまとななしこ
10/03/20 12:23:50 yX8el6tU
>>7
天誅!

29:やまとななしこ
10/03/20 12:30:37 h5IaQURs
まあ、薩摩は嫌われてもしょうがない。

徳川慶喜も「長州は、最初から正々堂々幕府の敵であったからよい。
だが、味方の振りをして裏切った薩摩だけは許せない」と怒っている。

また、薩摩は士農工商の身分差別がひどく、農民は過酷な税で
苦しんできた国。
同じ士分の(降伏後の)敵にはやさしく礼儀を付くすが、農民・町民は
人間として扱わず、会津城下でも略奪・暴行・強姦しまくった。
逆に、早くから身分差別から脱却した長州は民衆にやさしく、官軍として
占領した地域においても長州軍の民政は各地で評判が良かった。

長州が会津と敵対しつづけたせいで、会津城下で乱暴を働いたのも
長州のように勘違いしている人が多いが、当時の長州系の官軍は
越後長岡方面で河井継之助たちと戦っており、会津を侵略したのは
薩摩系の官軍で、長州人はほんのわずかしか加わってなかったんだよね。



30:やまとななしこ
10/03/20 14:12:03 opXlawhl
会津人の遺体をよく見える場所に放置し、野犬や鳥のなすがままにし、腐臭が
ひどいので埋葬させてくれと言った人を賊軍の加担者として処罰しようしたの
は長州人だったのでは…

31:やまとななしこ
10/03/20 14:12:25 idAkYDzf
>>15
戦後左巻きの気違いが軍国主義の象徴って事で日本の髭の文化は終了しました



32:やまとななしこ
10/03/20 17:07:01 9sWPmlGe
>>25違うよ。徳川が降伏したのに
「今に会津が江戸になる」と高揚して戦争したんだよ。
ちなみに会津戦争は薩摩・土佐です。
指揮者は土佐藩の板垣。


33:やまとななしこ
10/03/20 17:15:07 9sWPmlGe
>>30それは会津観光史学。
会津若松もそんな事実は無いとしてるし
2008年に会津藩の伴百悦が
新政府に金を貰い、遺体を埋葬したとする
一次史料が福島で出土してる。
死体埋葬禁止の札なんてない。
あるのは死体に群がる落ち武者狩りの
会津領民に対して「誰彼死体に触れるな」との札だけ。
誰彼とは会津軍と新政府軍の戦死者の遺体を指す。
それを会津が悲劇として利用しただけ。
だから会津史(会津観光史学)は学会でも相手にしてもらえない。

34:やまとななしこ
10/03/20 17:19:04 9sWPmlGe
慶応4年(1868年)2月27日、松平容保(34歳)は会津藩士に徹底抗戦を通告。
西郷頼母は恭順を勧めるが、容保はじめ藩士たちから猛反発され徹底抗戦へ。

慶応4年(1868年)5月1日、白河城陥落。西郷頼母は再び恭順を勧めるが
会津藩士の多くが聞き入れず徹底抗戦を主張。頼母は登城差し止めとなる。

慶応4年(1868年)8月26日、西郷頼母は西軍と砲火を交えている評議中
「この窮地に陥ったのは余の献策をいれないためだ」と厳しく批判。
そのため「西郷斬るべし」の声が起こり容保の命で伝令され
息子吉十郎と共に城を出る。その後は榎本武揚の軍に投じて函館で戦った。

その上、戦争中会津領民は畳を持たされ、戦地に弾よけとして配置された。
また、会津藩士は篭城陥落後郡山や東北各地で略奪・放火など蛮行している。
( 2004 郡山市勢要覧 市制施行80周年・合併40年記念号などに記載)

また、歴史小説では会津藩士は強制的に斗南に移されたと書かれているが
藩士たちは地元の猪苗代か青森の斗南を選択する権利を与えられていた。
しかし、敗戦後は会津藩政に不満を持っていた地元領民に世直し一揆を起こされ
(明治1年(1868年)10月3日、ヤーヤー一揆)藩士自らの選択で斗南へ移った。

その後、会津藩主の嫡男・容大が家名存続を許されて華族へ。
容保は明治13年(1880年)日光東照宮司となり正三位を叙任。

35:やまとななしこ
10/03/20 17:20:36 9sWPmlGe
会津藩や東北諸藩は理由なしにボコボコにされたのではありません。
特に現在の会津史(観光史学)は歴史小説という虚偽の上に成立しているので
歴史として正式な学会などに、全く認められていません。
会津の悲劇、会津VS薩長を本気で思いこんでいる人々は
正しい史実を知らず、歴史小説に感化された人々だといえる。

Wikipediaの会津戦争についても、歴史小説が参考文献になっているので
「この記事の正確さについては疑問が提出されているか、あるいは議論中です」
という警告が出されています。Wikipediaは学術的には参考文献にはなりません。
また、悪意を持って誤った事項を書き込む人もいるので、注意が必要です。

徳川慶喜の恭順謹慎。勝海舟による江戸城明け渡しと
軍艦武器の引渡しにより、江戸は戦火を免れた。
しかし、会津藩は、表向きは官軍に恭順すると言いながら
裏では外国から武器を購入し戦闘準備を行っていた。
このことが官軍に筒抜けだったため、東北各所における戦いが始まった。
奥羽越列藩同盟政府は開戦初期、会津に東国諸藩の人兵を集結させた。

会津城下では、以下のようなざれ歌が領民に広まっていたことからも
恭順どころか、戦意鼓舞、大きな野心があった様子がみてとれる。
「都見たくばここまでござれ いまに会津が江戸になる」

36:やまとななしこ
10/03/20 17:39:06 9sWPmlGe
次に、飯沼が自刃の地にいた証拠は一切なく
飯沼証言を裏付ける史料もないのて信憑性に欠けている。
また、死ぬ気で喉を2回も突き刺したと言うが
死ぬ気で2回も喉も刺したら絶命必至でしょ。
飯沼の喉の傷を見たものはいない。
長州は会津観光史学の積極的なシンポジウムや
小説、ドラマ、小説家の自称研究本で残虐非道に描かれてるが
これは大東亜戦争に詳しい者なら、大戦中に共産社会主義国家が犯した
戦争犯罪と酷似だと気づくはず。
実際の長州藩は木戸や広沢が会津藩の処遇軽減を朝廷に訴えたり
前原や奥平が中心になって会津の戦死者の家族や
敗残兵を保護し、東京等に住めるように工面していた。
だから長州士族が萩で乱を起こした時に
会津士族がこの乱に応え、思案橋事件が起きたんだよ。
会津藩の封じは2年で終わったのも
松平家が2年で名誉回復し、華族になったのも
長州藩を中心にした明治政府の温情だよ。
飯沼を保護してた長州士族は、飯沼が
日清戦争に行くのを止めていた。行かせたくないとね。
本当に長州が会津憎しで戊辰を戦っていたら
北越なんかに行かず、何がなんでも会津に行き
保護も温情措置めとらず、会津人は斗南に行けず、猪苗代で一揆の被害を受け
松平家め永遠に賊だったろうよ。

37:最後にコピペをどうぞ
10/03/20 17:47:32 9sWPmlGe
関西出身の30歳代関東在住者です。転勤で会津に数年いました。
私も以前は若い殿様を擁した純朴で不器用な会津藩に好感をもっていましたが
実際住んでみてその思いは変わりました。いまだに、会津は鹿児島・山口だけではなく
高知・佐賀・水戸にも戊辰の恨みをぶつけています。また、私が関西出身だと知ると
「西の奴は信用できない」と宴席上であからさまに言われました。旧官軍地区だけではなく 西日本全体に差別感があるようです。薩長差別は地元民が単なる噂やネタとして語っているのではなく
市政、観光業界、商工会、東北のケネディと自称している政治家や、地元議員もHPでこのように述べています。
URLリンク(www.akina.ne.jp)
1、 戊辰戦争で卑劣な行為をした。2、戦死者の死体埋葬を禁止した 3、斗南藩に強制的に移された。
という事で今でも恨みに思っているようです。しかし以上の3点は、会津系作家と呼ばれる 早乙女貢・星亮一・宮崎十三八各氏などの創作小説上の話で、全く真実性はありません。
URLリンク(detail.chiebukuro.yahoo.co.jp)

薩長=悪という定義がはびこり、それが歴史を詳しく知らない観光客にも広まっていることを、非常に遺憾に思います。
また、会津の方は田舎特有の封建的で頑固、陰湿、粘着質な気風があるのに加えて、教育水準の低から歴史的事実を知らず
会津系作家の捏造小説を鵜呑みにしているようです。そういう方々の大部分は会津藩士の末裔ではありませんでした。
このように、会津は薩長に対する怨念を普及させて、小説や観光業でお金を稼いでいます。
上記3点が小説家の捏造であることを示すものはたくさんあります。いくつか挙げておきます。
「1、戊辰戦争で卑劣な行為をした」
薩長が城中で乱暴狼藉を尽くしたという事実はありません。
東北各地で略奪、強姦、放火などを行ったとのは会津藩です。
2004 郡山市勢要覧 市制施行80周年・合併40年記念号
URLリンク(www.city.koriyama.fukushima.jp)

他にも会津戦争年表では会津兵による略奪や放火
新潟市史には会津兵による蛮行が記載されていおり
栃木の歴史ある旅館では、会津兵による放火の様子や
菊の門に×印を入れさせるなどの蛮行が印されています。

会津って某国人や在日某国人と変わりない事でお金儲けをしてる
日本唯一の恨文化繁栄地域ですよ。
こんな武士道がありますか?

38:やまとななしこ
10/03/20 18:26:46 l1GFqxuM
変なのが湧いてきたな。
やはり地域分断スレと化すのか。

39:やまとななしこ
10/03/20 20:40:41 5xN9sPkQ
>>37
大阪民国出身ならしょうがない。

40:やまとななしこ
10/03/21 09:39:35 ZX2szLJt
>>38会津観光史学洗脳者乙


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