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忘却のヒバクシャ:/5 申請のため命懸けの来日
◇なぜ海外はだめなのか
韓国・京畿道平沢市は、工場などが並ぶ中心街を外れると、
のどかな農村風景が広がる。そこに李相〓(イサンヨプ)さん(83)の家があった。
長男蓬煕(ボンヒ)さん(56)の案内で居間に通されると、
右半身が不自由な李さんが、はいながら姿を現した。
両足はやせ細り、目はうつろに宙をさまよっている。
強制連行された広島で被爆。そして昨年、不自由な体で、
命の危険を冒して60年ぶりに来日した。
そうしなければならない理由があった。
□
1944年8月、小作農だった李さんは、結婚直後に強制連行され、
広島市の三菱重工広島機械製作所(当時)で働かされた。
45年8月6日。爆心地から3・5キロの食堂で朝食を済ませて外に出ようとした瞬間、強烈な光が目を突き刺し、突風に吹き飛ばされた。
死体の焼却を手伝うなどした後、同月下旬に故郷に戻った。
農業で生計を立て、2男2女をもうけた。
被爆の影響はなく平穏な日々が続いた。しかし、02年に脳内出血で倒れる。
被爆者援護法や被爆者健康手帳の交付を受けると医療費が無料になる制度が日本にあることを知らず、
手術代約60万円は自己負担した。
03年、韓国原爆被害者協会(ソウル)から手帳申請を勧める連絡を受け、
初めて知った。右半身不随になった李さんに代わり、
蓬煕さんが広島県に申請したが、海外在住を理由に申請は却下された。
手帳の交付申請は来日が前提だからだ。
李さんは昨年6月、海外申請を理由に県が手帳交付申請を却下したのは違法として、
処分取り消しなどを求めて広島地裁に提訴。
だが蓬煕さんは、李さんを連れて来日することを決意する。
「父の余命はわずか。訴訟が長期化し、訴えが認められる可能性は低いと思った」
と打ち明ける。
9月下旬、車いすに李さんを乗せて長崎空港に降り立った。
李さんを抱きかかえて歩き、長崎市役所に行くと、
拍子抜けするほど簡単に手帳が交付された。
「アボジ(お父さん)、やっともらえたよ」。
薄いピンクの手帳を見せても、李さんに反応はなかった。
□
「海外在住でも手帳を交付する手続きをなぜ作らないのか。日本人は補償を受けているのに、同じ被爆者の父には補償もなかった」
李さんの手を握り、蓬煕さんは語気を強めた。
李さんが、2度の来日を強いられたことへの思いを語ることは、もうない。【近藤修史】=つづく
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