08/09/17 20:18:07 0
( ´・ω・`)<原爆投下まで甘受して護持した国体だから、英霊も皇族自らが皇統断絶するならしょうがないと納得するよね?
『情報天皇に達せず』…。…皇室の人々は全貌を知っていたのである。…木戸幸一の『日記』…。
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『昭和天皇独白録』…小森陽一の『天皇の玉音放送』である。(2003年五月書房刊)…
ヒロヒトが「聖断」を下したのは、本土決戦になれば「神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない」からなのだ。
広島、長崎への原爆投下の後も、ヒロヒトの頭の中に変化は起こらなかったのである。
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1945年…8月6日…広島市へ…8月9日…長崎市へ原子爆弾投下
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小森陽一は東京大学教授…ポツダム宣言受諾をめぐって、原爆投下を誘引してまでも引き延ばしをはかった…。…
『昭和天皇独白録』…8月…12日…国体護持が出来なければ、戦争を継続するか(と)質問したから、私は勿論だと答えた。
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久間の前に昭和天皇も「原爆はしょうがない」って言ってる件
YouTube-1975 昭和天皇初訪米&初公式記者会見URLリンク(www.youtube.com)
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女系天皇は即位しても神武天皇以来の皇統に属さず日本史上初の王朝交代
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三島は自決の直前に撒いた檄文にこう書いている。「あと二年の内に自主性を回復せねば、
左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであらう」
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天皇は、三島由紀夫の名を公には、生涯口にすることはなかった。その沈黙こそが、天皇の三島事件についての拒絶の強さを物語っていた
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昭和60年11月8日(火)第103回国会 衆議院外務委員会 第1号
…小和田政府委員とは皇太子の后である雅子様の父君の事ですが、…
土井たか子議員の質問に答えて、極東軍事裁判を日本政府は受諾したと何回も答弁…。…
「judgements」が「裁判」と訳すか「判決」と訳すかで大きく東京裁判の日本政府の受け止め方が違ってくる…。
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