09/08/12 03:29:13
クラシックって、大昔の作曲家の楽譜を今の奏者が割と幅広く解釈できるんですね。
もちろん原曲をカヴァーするっていう時のアレンジも広い意味で新解釈の提示でしょうし、
作者自身が演奏したって、原理的にはそのたびごとに微妙に新しい解釈へ推移してるんでしょうけど、
原曲が録音されずに、ただ楽譜だけ後世に残ってるっていうのがクラシックの面白さかなと。
場合によっては作曲者自身が思い描いてた演奏以上にヒトを深く感動させる解釈とかもありそうですし。
逆に解釈に僅かなブレもあってはならない表現、
誰がどこで何度再演しようと、ただ一つの完璧な姿が寸分違わず立ち現れる作品、
そんなものがあるとすれば、正に数学のような人類共有の構築物って言えるんじゃないでしょうか。
ピアニストが楽譜を解釈してある美しい音の流れをイメージすることと、
詩や文学の読者が言葉を解釈してある美しい情景をイメージすることが、
ヒトの営みとしては類比的と考えてみれば、
自然を解釈することである美しい数理の姿をココロに描くことも同じだと思うんです。
そしてその解釈には決して幅がない、誰にとっても唯一無二のモノと信じられている、と。
ただし、たった一つの真正な解釈しか許さない数学の楽譜のようなモノ、
つまり完全なテクストとしての形式的な公理系は決して作ることができないという。
音楽の楽譜、詩のコトバ、宗教の聖典、数学の形式的体系・・・、
どんなテクストに対してもヒトの解釈は多様化していくよう宿命づけられていて、
そこがまた、創造性という希望でもあり、万物流転の儚さでもあり、、
と、クラシックの話から連想がどんどんインフレ起こしてきたのでこの辺にして寝ます。。