09/02/21 17:13:06
魔王と魔王スレに関わった全ての者に捧ぐ。
前スレ(「魔王=Kのフクハン総覧」他、主要資料を掲載)
スレリンク(denpa板)
2:名無しちゃん…電波届いた?
09/02/21 17:32:09
あんたのコピペなげーよ。
3:「魔王スレ総括」実行委員会
09/02/21 18:30:36
***
前スレ 「とんがり」所収
スレリンク(denpa板:427-435番)nf
≪魔王論≫(前編)より
***
≪魔王論≫(後編)
【魔王と浅田彰】
本人が再三強調するように、魔王は最終的にポスト・モダンを乗り越えた地点を目指していたとはいえ、
さしあたり、現況への特効薬として、『構造と力』が未だ新しさを失っていないことは認めていよう。
現に、魔王の5年間に渡るフクハン活動を通じた人生論的思索や人間関係の実践は、
一見すればその約90%が浅田彰の教えに愚直なまでに従っものと解釈できるのである。
更に言えば、初期の魔王というフクハンは、『人格改造マニュアル』を著した鶴見済に似た思考を呈しており、
そして魔王自身が鶴見済を「ポスト・モダンを臨床に接続した」と幾度も評してきたことは周知の通りである。
「自己の狭隘な一貫性などにこだわっていないで、あらゆる方向に自己を開き炸裂させること。」 ※浅田彰『構造と力』20頁より抜粋
この一文において既に、まさに「狭隘な一貫性への拘りを捨てた、あらゆる方向への自己の開放と炸裂」こそが、
魔王においては先に見た多彩なキャラクターを横断したフクハン活動として実践に移されていたことが伺える。
「せっかく受験勉強というインスタント公害食品から開放されたのだ、知のジャングルをさまよって、
毒でも薬でもどんどんツマミ食いしてみればいい。『ジャングルでは学問なんてできませんから』(京大前総長)
という横槍には、『ジャングルでないと学問なんてできませんから』と応じておくことにする。
実際、そうしてツマミ食いされたものが、いつか突然、古典や教科書と連結されることは、決して珍しくない。
了解を真に豊かなものとするのは、常にそうした異種交配でありキアズマであると、断言しておく。
とりあえず『文化』という名で呼ばれる錯綜体は、まさにそうやって自らを肥沃化してきたのであり、
従って、まことに破廉恥にも無節操な構造を備えたものだということは、
すぐれた『文化人』たちのなりふり構わぬ雑食ぶりを見てすぐに察しがつこうというものである。」 ※同書21頁より抜粋
もはや縷言は要しまいが、ここまでに見た通り、魔王の「知」に向き合う姿勢、学問に対する「雑食ぶり」が、
まさに浅田彰の提示した大学生活における理想的な知的態度をモデルとしていることは一見して明らかである。
けだし、金融屋が魔王を「遅れてきたスキゾキッド」と評した所以でもあろう。
金融屋自身、浅田彰が非常に噛み砕いて現代思想の流れを解説した『逃走論』を時折推薦図書として挙げているが、
『構造と力』にあっても、第1章から第5章が一定の学問的素養を前提としなければ聊か難解であるとはいえ、
「序に代えて」と「第6章」に関しては比較的平明に書かれており、またこれだけで十二分に浅田彰の意想は了解できる。
「ここで『評論家』になってしまうのはいただけない。<中略>
自らは安全な『大所高所』に身を置いて、酒の肴に下界の事どもをあげつらうという態度には、
知のダイナミズムなど求むべくもない。要は、自ら『濁れる世』の只中をうろつき、危険に身をさらしつつ、
しかも、批判的な姿勢を崩さぬことである。対象と深くかかわり全面的に没入すると同時に、対象を容赦なく突き放し切って捨てること。
同化と異化のこの鋭い緊張こそ、真に知と呼ぶに値するすぐれてクリティカルな体験の境位であることは、いまさら言うまでもない。
簡単に言ってしまえば、シラケつつノリ、ノリつつシラケること、これである。」 ※同書5~6頁より抜粋
「ただ、ソフィストの評論家ぶりは避けねばならない。諸諸の知の形態を一様にドクサとして相対化し、
夜店の色メガネの屋台のように陳列してみても、通りすがりの興味をひくのがせいぜいだろう。
ドクサとはいえ、それに深くかかわることによってはじめて、ドクサを強引に横へズラせる運動、
あのパラドクサの運動が、真にクリティカルな出来事として炸裂しうるのではなかったか。」 ※同書7頁より抜粋
これが、かの「よろず駆け込み寺」において「クレーム」が行った「立花隆」に対する致命的な批判であり、
その不備を克服すべく人生板に誕生したスレこそ魔王スレであったという解釈は、
前スレ スレリンク(denpa板:228-231番)nf において既に示した。
そしてまた、立花隆のサブカル版、その縮小コピーとでも言うべき「評論家」金融屋と魔王との決定的な相違でもあろう。
4:「魔王スレ総括」実行委員会
09/02/21 18:32:23
「あくまでも広い視野を求め、枠組を外へ外へと開いていくこと。<中略>
さて、このような『視座の多様化・相対化』論は、二通りの根拠から説かれうる。とりあえず、
一方のキーワードをセルフ・インテグレーション、他方のそれをセルフ・エクスプロージョンとでもしておこう。
前者によれば、教養課程では自由な考え方と広い視野を養い、多様な知識をまんべんなく吸収して
『智、徳、体のバランスのとれた人間形成』をとげ、専門研究に入るための豊かな土壌を準備すべきだということになる。
<中略>しかし、一見ヒロイックなこの万能人間も、いまとなってみると、自らの貧しいアイデンティティにしがみつきながら
諸々の分野からかじり取ってきた知識のカケラを大切そうに懐にしまいこむミジメな吝嗇家にすぎないのだ、
というあのスキャンダルは、知らぬ者とてない。<中略>
相手かまわず連結し、また切断し、それを際限なく繰り返すその無節操ぶりの方が、
やせ細ったアイデンティティなどよりはるかに生産的だということは、強調しておいてよい。」同書19~20頁より抜粋
金融屋と魔王が共に浅田彰に対して一定の評価を与えていたことは言外にも示されていたと言えるが、
「徳、体」を抜きにし、また「智」についても古典的教養を除いたサブカルチャー中心の多様性に限定することとして、
「万能人間」と呼べる金融屋と、「無節操」な魔王のどちらがより浅田彰の思想に忠実であったかは明らかであろう。
即ち、少なくとも魔王はそのフクハン活動開始時において、浅田彰と「連結」していたことは紛れもない事実である。
しかしまた、魔王には元来、現代思想の旗手たる浅田彰とは別の思想的基盤、<魔王>に導かれた独自の歩みがあった。
そしてそのフクハン活動が「迷える仔猫」に至ったところで、明確に浅田彰への決別、つまりは「切断」が宣言される。
今一度、魔王のフクハン総覧の要所とも言える、
前スレ スレリンク(denpa板:350-359番)nf の「迷える仔猫」の項を参照されたい。
「目的としての知か手段としての知か」という二者択一にいかに応じるべきか、と浅田彰は借問した。
「目的としての知」とは即ち、魔王が最も深い造詣を示す自然科学・人文科学が代表する虚学、ロマン主義としての知である。
「手段としての知」とは、以下のようなやり取りに象徴的に示される社会科学に代表される実学、現実主義としての知である。
882 名前: ☆ ◆MooncgsQ 投稿日: 02/04/23 21:33 ID:nhboLfGQ ※「魔王の相談室*31 ~超天才、金龍編~」より抜粋
>>880
金龍(本物)は人文科学と自然科学の一部についてはソコソコ語れるようだが、
社会科学に関してはからっきしのようだからな、そのうち気が向いたらヴァカを晒してやるさ(嗤
883 名前: マジレスさん 投稿日: 02/04/23 22:42 ID:wKaqhCjM
>>882
そうですよね。これから社会に出る身としては、社会科学系が一番身に付けたいところだから
それについて金龍の天才トークが聞けないのは残念です・・・
浅田彰の答えは、この二者択一そのものには決してまともに答えず、問いそのものをズラせということであった。
「醒めた目で知を単なる手段とみなすことは、まず退けられる。そもそも、あなたは目的そのものにシラケているはずだ。
かといって、知を目的として偶像化するほど熱くなることもない。
そこで、あなたは『どうせ何にもならないだろうけれど』と言いつつ知と戯れることができる。
そして、逆説的にも、そのことこそが知との真に深いかかわりあいを可能にする条件なのだ。」 ※同書6頁より抜粋
しかし浅田彰のこの提案は、結局のところ知に熱を上げる自己へと向けられる冷たい視線に対する予防線を張りつつ、
その無意味さを自覚しながら敢えて没入しては切り捨てる身軽な遊戯者を気取るという「目的としての知」の亜種であり、
我々の見るところ、真にこの二者択一から逃れ得たとは言い難い。魔王の答えは至ってシンプルである。
「知とはそれ自体が目的でもなければ個別的な目的のための手段でもなく、ただ人生に益するための知である」と。
日本語の構文上、「~のための知」という形をとるとはいえ、「人生」とは人間の全営為の包括であり、
その目的は進学・進級・卒業・就職・昇進、即ち経済的・社会的成功といった、明確な形をとったものとは本質的に異なり、
浅田彰曰くその先に「たかだか『スプーン一杯』程度」しかなかった「幸せ」自体の抜本的な改善・増進を意味している。
この浅田彰に欠けた視座こそ、2ちゃんねる人生相談板という場を活動の拠点に選定した魔王の究極的な革新性であろう。
5:「魔王スレ総括」実行委員会
09/02/21 18:35:18
「近代に入って絶対的な中心Sがひきずりおろされるとき、<中略>インフィニティが口を開く。
けれども、それは一方向にキャナライズされたインフィニティでしかなく、システムを放り出されたものたちは、
この無限のコースに沿って、休む間もなく走り続けねばならない。しかも、よく見ると、このコースのまわりには、
エディプス的家族を典型とする三角関係の閉域、ジェラシーとルサンチマンの膿に満たされた小胞が
びっしりと無数にはりついていて、キャナライザー兼モーターとして機能しているのだ。
それらを突き破り、外へ逃れ出ること。それによって流れをコースからそらせ、多数多様に散乱させること。
いま走っているのが、いわば無数の小さな沼におおわれた湿地帯だとするなら、
目指すべきは、サラサラと砂が舞いおどる広大な砂漠だ!
むろん、それは最終的な到達点といったものではない。腰を落ち着けたが最後、そこは新たな《内部》となってしまうだろう。
常に外へ出続けるというプロセス。それこそが重要なのである。憑かれたように一方向に邁進し続ける近代の運動過程が
パラノイアックな競走であるのに対し、そのようなプロセスはスキゾフレニックな逃走であると言うことができるだろう。
このスキゾ・プロセスの中ではじめて、差異は運動エネルギーの源泉として利用されることをやめ、
差異として肯定され享受されることになる。そして、言うまでもなく、差異を差異として肯定し享受することこそが、
真の意味における遊戯にほかならないのだ。第二の教室にいる子供たちが目指すべきは、決して第一の教室ではなく、
スキゾ・キッズのプレイグラウンドとしての、動く砂の王国なのである。」同書226~227頁より抜粋
一旦は浅田彰と「連結」しつつも、周到にそのポスト・モダンを乗り越える地点を見据え、「切断」の機会を伺っていた魔王、
「ジェラシーとルサンチマンの膿」に塗れ、浅田彰の言葉を借りれば未だモダンの地点に留まっている「評論家」たる金融屋、
この、浅田彰を中心点にとって図式化した「金融屋(モダン)―浅田彰(ポスト・モダン)―魔王(???)」という対比は、
「無数の小さな沼におおわれた湿地帯」を奔走する金融屋に対し「サラサラと砂が舞いおどる広大な砂漠」で遊戯する浅田彰、
してみると、魔王の目指した人生の理想とは一体如何なる比喩が相応しい世界だったのか、という問いへと必然的に帰着する。
その答えを、我々の口から述べることなどは到底できない。しかしその答えこそが「魔王スレの総括」に他ならないのである。
そしてこの最終的な答案を持ち合わせている人物、それを表現する権利を継承した唯一の末裔こそ、東海ガールなのであった。
6:「魔王スレ総括」実行委員会
09/02/21 18:38:29
【魔王と東海ガール】
ここまでの考察を踏まえたうえで、改めて魔王と東海ガールとの関係についての検討を行うこととしたい。
さしあたり、両者の活動の軌跡を整理した前スレ所収の年表に若干の修訂を加えたものを次に再掲する。
2001年 1月 魔王スレ始動
2005年 1月 魔王スレ完結
2005年 9月 雑談スレに第一期東海ガール登場
2005年12月 魔王再登場、東海ガールと共演、魔法スレ始動
2006年 5月 魔法スレに魔王最後の登場
2007年 1月 雑談スレに魔王最後の登場
2007年 8月 雑談スレに第二期東海ガール登場
2009年 2月 雑談スレに第二期東海ガール出没中
我々にとり、魔王と東海ガールが同一人か否かという事実問題がさほどの意義を有さないことは改めて言うまでもない。
しかしながら、一旦東海ガールを魔王の一つのフクハンと見なすことで、その興味深い特異性を抽出することができる。
以下にこの点を列記してみよう。
a.東海ガールはごく限られた第一期の活動(2005年12月)を除き、魔王=Kと同時に人生板に登場していない。
b.第二期の活動に限ったとしても、一フクハンが単独でネタバラシをしないまま1年半もの長期間活動を続けている。
c.その属性が、魔王のフクハンとして確認されている中では「キスミ」というただ1ケースしかない「女性」である。
d.その素性に関する言及の中で、魔王=Kとはリアルの大学生活を通じた面識のある者であることが明かされている。
e.人生論や学理的な話題よりは日常の出来事をありのまま報告し、雑談のネタとすることを基本スタンスとしている。
f.雑談スレ等における活動を通じて得た情報を即座に現実の行動に反映させられる高い可変性・受容性を備えている。
g.そうした活動を総合して浮かび上がる人物像が、これまでの魔王に比して異様に富裕・有閑な超俗的自由人である。
h.なおかつ、一時は自らデジカメで撮影した写真をアップロードすることにより、その生活の現実性を証明している。
①魔王 ②神 ③芥川龍之介 ④猫 ⑤第一期薔薇 ⑥メオ・ディプト ⑦K ⑧コテハン裁定者
⑨めーすけ ⑩金龍 ⑪キスミ ⑫迷える仔猫 ⑬まもー ⑭第二期薔薇 ⑮学部長 ⑯うゆー ⑰序王
a.b.の通り、これ程の数にのぼるフクハンが2001年初頭から2005年末までの約5年間の内に創作され続け、
ほぼ魔王=Kとも平行した活動を行ってきたことまでを勘案すると、東海ガールの単独での活動期間はあまりにも長い。
魔王スレ住人に最大の衝撃を与えた「芥川龍之介」のネタバラシですら、その登場時から約2ヶ月半後に為されており、
まして、本体たる魔王が不在とされたまま、ただの一フクハンが1年半にも渡り代理の座を独占する事態は異状である。
またc.の通り、仮に、魔王がもはや人生板における活動に熱意を失い、単に惰性で残存している状態であるにしても、
それが素の「K」や雑談向きの「うゆー」などではなく、自然体とは懸け離れた東海ガールである点は不可解であろう。
d.e.に基づき対比すると、他のフクハンが魔王自身の日常生活からは遊離した「幻影の宴」の住人であったならば、
東海ガールの存在は魔王のリアルに接しているとともに、その活動は日常における時間や出来事の経過に照応している。
そしておピンクに淡路島南端の小島を紹介されれば直ちに赴き、高知の魅力を耳にすれば辺境の漁港町までを踏査する。
f.に示した通り、雑談スレ等における他の住人との対話と、そのリアルの行動との響応性はとりわけ特異な点である。
これが、北海道から九州までを叉に掛けた魔王の「無節操」なオフ会への参加活動に通じるとの見方も可能ではあるが、
魔王のそれがおよそ大学生の特権ともいえる有り余る時間にモノを言わせた、まだしも通俗的な行動と呼べるのに対し、
自活する社会人でありながらの「遊び人」を自称する東海ガールの遊興のスケールは超俗的と呼べるまでに破格である。
春には花見、秋には紅葉狩りのためと幾度も東京―京都を往復し、各界の大物が密かに遊ぶ祇園の隠れ家に足繁く通い、
とりわけ「食」に関しては辺鄙な地方都市のラーメン屋からサミットの晩餐を担当した最高峰の料亭まで無差別に巡る。
魔王と同一人と見る限り、非現実的な飛躍を呈しながら、これに裏付けが与えられた経緯はg.h.に示す通りである。
7:「魔王スレ総括」実行委員会
09/02/21 18:42:07
さしあたり東海ガールが魔王の第18フクハンであるか否かという未決問題を残しつつも、その関係を解釈するならば、
イ 「知」の領域にとどまっていた魔王の「遊戯」をその実生活全域にまで拡張した存在、それが東海ガールである。
ロ 既に生活の重心を人生相談板から他へ移している魔王が、簡略化して残している板の動向監視用アンテナである。
ハ 魔王スレ時代に比して大幅に変遷した人生板の現状に適応しつつ、尚も新たな価値の吸収を試みる探査船である。
といったことを考えることができようが、我々はその真の存在意義を「魔王スレの総括の時期を伺っていた者」と見る。
よって、この次の東海ガールの1レスをもって、我々としては「魔王スレの総括」が成ったものと見なすこととしたい。
それがいかなる形で為されようとも、そこには真に「魔王スレの総括」たりうる本質的要素が含有されている筈である。
これをもって、我々の使命は果たされた。後はただ、東海ガールのその1レスを見届けることで、この活動は終結する。
部外者としての我々に為しうる魔王スレの総括は、以下においてその限界を極めており、その賛否は読者に委ねたい。
スレリンク(denpa板:426番)nf
最後に一言しておこう。
「魔王スレの総括」は、その幕引きであると同時に、新たな何事かの始まりに他ならない、と。
8:名無しちゃん…電波届いた?
09/02/22 16:53:29
東海の遊興スケールってグルメ旅行好きなら珍しくないよ。
東京と京都なんてのぞみで2時間ちょいだし
名古屋にいる時ならもっと近いだろうし。国内だけだしなー。
あんまり旅行しない人にとってはすごい行動的に映るかも。
自分は数メートル先のトイレに行くのもめんどくさい。
学生のときは鈍行、バス。社会人になったらお金にものを言わせて
新幹線or飛行機で移動時間短縮させるもんだろうし。
だからといって魔王と同一人物と指摘してるつもりはないよ。
実行委員会がしみったれた生活してるからこそ感じることだわね・・とちう
感想のつもりだよ。