09/04/29 21:18:57
その日、『麗しいぶどう畑』、これについて歌え。
わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、
だれも、それをそこなわないように、夜も昼もそれを見守っている。
わたしはもう怒らない。もしも、『いばら』とおどろが、
わたしと『戦えば』、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。
この節を読まれて驚嘆されない方は一人もおられないであろう。
この一連の節はまさしく「酒鬼薔薇」の怨念の呪文(歌)と言ってよい。
『麗しいぶどう畑』のオリジナル読みは「泡立つぶどう酒」であり、
神学的な解釈では神に祝福されしイスラエルの十二部族である。
これを「酒」に見立てることに何人も異論はないだろう。
「いばらとおどろ(いばらの一種)」とは同じ解釈でぶどう
(イスラエル十二部族)の成長(支配)を妨害するもので、
正に「鬼薔薇」(いばら)と読み替えることが出来る。
第二の挑戦状で「鬼薔薇」と呼ばれた「酒鬼薔薇」が激怒したのも
うなずけるであろう。「麗しいぶどう畑」を「そこなわれないように」
とあるように己の「本名」は「酒」であると主張したかったのだ。
第二の挑戦状の文言「今後一度でもぼくの名を読み違え…」れば
「…一週間に三つの野菜を壊します」と
第一の文言の「汚い野菜どもに死の制裁を」は、
そのまま「もしもいばらとおどろがわたしと戦えば、
わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う」にかかってくる。
これは凄まじいまでの怨念である。
さらに第二の文言「透明な存在」とは、「わたし」(=「主」)であり、
それは同時に「酒」でもある「酒鬼薔薇」自身の暗示に他ならない。
つまり『酒鬼薔薇聖斗』とは、「わたし」=「主」であり『酒』でもある
三位一体の「酒鬼薔薇」の野菜潰し、すなわちレビヤタン狩り(日本人殺し)
を妨害(「いばら」=『鬼薔薇』)するものはすべて「踏みつぶし、それをみな焼き払う」
(=『聖斗』)という恐るべき怨念の呪文であったと言える。
つまり我々を含む一億二千万日本人根絶(宗教用語では聖絶)の呪いを秘めた
宣戦布告状と言えるものだったのだ。
日本の一中学生が全日本人に宣戦布告?矛盾は明々白々であろう。
この「悪鬼」の悪魔的な呪いをさらに増幅させるのがイザヤ書5章である。