10/07/04 10:51:59 b3gCnypc
芸術とは私にとつて私の自我の他者である。私は人の噂をするやうに芸術の名を呼ぶ。
それといふのも、人が自分を語らうとして嘘の泥沼に踏込んでゆき、人の噂や悪口を
いふはづみに却つて赤裸々な自己を露呈することのあるあの精神の逆作用を逆用して、
自我を語らんがために他者としての芸術の名を呼びつづけるのだ。
これは、西洋中世のお伽噺で、魔法使を射殺するには彼自身の姿を狙つては甲斐なく、
彼より二三歩離れた林檎の樹を狙ふとき必ず彼の体に矢を射込むことができるといふ秘伝の
模倣でもあるのである。―端的に言へば、私はかう考へる。(きはめて素朴に考へたい。)
生活よりも高次なものとして考へられた文学のみが、生活の真の意味を明かにしてくれるのだ、と。
三島由紀夫「重症者の兇器」より
601:大人の名無しさん
10/07/04 10:55:32 b3gCnypc
世の中には完全に誤解されてゐながら、絶対に誤解されてゐないといふふうに世間に
思はれてゐる人もたくさんゐる。
三島由紀夫「作家と結婚」より
602:大人の名無しさん
10/07/04 10:55:55 b3gCnypc
人間は精神だけがあるのではなくて、肉体がなぜあるのかといふと、神様が人間はなかば
シャイネン(ふりをする)の存在だとしてゐるといふことを暗示してゐると思ふ。
ザイン(存在)だけのものになつたら、シャイネンがほんたうに要らない人間になる。
それならもう社会生活も放棄し、人間生活も放棄したはうがいい。どんなに誠実さうな
人間でも、シャイネンの世界に生きてゐる。だから僕が一番嫌ひなのは、芸術家らしく
見えるといふことだ。芸術家といふものは、本来シャイネンの世界の人間ぢやないのだから。
芸術家らしいシャイネンといふものは意味がない。それは贋物の芸術家にきまつてゐる。
芸術家らしいシャイネンといへば、頭髪を肩まで伸ばして、コール天の背広を着て歩いてゐる
といふのだらうが、そんなのは贋物の絵描きにきまつてゐる。
三島由紀夫「作家と結婚」より
603:大人の名無しさん
10/07/05 10:18:39 Ei/RfNdZ
少年の最初の時期は、異性愛的なものと同性愛的なものが、非常に混在してをります。
私にもごたぶんに漏れず赤紙が来ましたが、即日帰郷になつて帰つて以来、ぱつたり
忘れたやうに、もう二度と来ませんでした。
…それはいつまで待つても来ない恋文のやうなもので、しかしいつ訪れるかわからないのでした。
来るのをおそれながら、みな何となくその赤紙を待つような気持ちにもなつてゐました。
三島由紀夫「わが思春期」より
604:大人の名無しさん
10/07/05 10:18:58 Ei/RfNdZ
窓の外の雨にぬれた田園の景色をながめながら、何もかも見おさめだといふ気がしてゐました。
あんな不思議な感情は、今の若い人は知るまいと思ひます。もう負けるにきまつてゐる
この戦争は、おそらく日本国民の全滅をもつて終るだらうし、目の前にあるものは
惨たんたる破局だけ、要するに死だけでありました。ですから何を見るにも見おさめ
といふ気がしたし、ある楽しみを味はつても、それは最後の味だと思ふのでした。
ですから感覚は生き生きとし、つまらない事物にも、それを見ることに喜びを感じ、
ちやうど雨季に入りかけた木々の緑のしたたりも、実に新鮮に目に映るのでした。
三島由紀夫「わが思春期」より
605:大人の名無しさん
10/07/05 10:19:18 Ei/RfNdZ
新人の辛さは、「待たされる」辛さである。
青春の特権といへば、一言を以てすれば、無知の特権であらう。
どんな人間にもおのおののドラマがあり、人に言へぬ秘密があり、それぞれの特殊事情がある、
と大人は考へるが、青年は自分の特殊事情を世界における唯一例のやうに考へる。
三島由紀夫「私の遍歴時代」より
606:大人の名無しさん
10/07/05 10:19:36 Ei/RfNdZ
小説は書いたところで完結して、それきり自分の手を離れてしまふが、芝居は書き了へた
ところからはじまるのである。
芝居の仕事の悲劇は、この世でもつとも清純なけがれのない心が、一度芝居の理想へ
向けられると、必ずひどい目に会ふのがオチだといふことである。
芝居の世界は実に魅力があるけれど、一方、おそろしい毒素を持つてゐる。
三島由紀夫「私の遍歴時代」より
607:大人の名無しさん
10/07/05 10:19:55 Ei/RfNdZ
大体私は「興ひたれば忽ち成る」といふやうなタイプの小説家ではないのである。
いつもさはぎが大きいから派手に見えるかもしれないが、私は大体、銀行家タイプの
小説家である。このごろの銀行が、派手なショウ・ウィンドウをくつつけたりしてゐる姿を、
想像してもらつたらよからう。
忘却の早さと、何ごとも重大視しない情感の浅さこそ、人間の最初の老ひの兆(きざし)だ。
文学では、(日本の芸能の多くがさうであるやうに)、肉体が老ひ朽ちてから、芸術の
青春がはじまるといふ恵みがある。
三島由紀夫「私の遍歴時代」より
608:大人の名無しさん
10/07/06 11:37:31 6VmwnrUU
知的なものと感性的なもの、ニイチェの言つてゐるアポロン的なものとディオニソス的なものの
どちらを欠いても理想的な芸術ではない。
三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より
金のためだつて! そんな美しい目的のためには文学なんて勿体ない。
私たちは原稿の代償として金を受取るとき、いつも不当な好遇と敬意とを居心地わるく
感じなければならないのです。蹴飛ばされる覚悟でゐたのがやさしく撫でられた狂犬のやうにして。
三島由紀夫「反時代的な芸術家」より
609:大人の名無しさん
10/07/06 11:38:51 6VmwnrUU
政治問題に関する言論を規制しようとする動きがあるときには、必ず、これを
カムフラージュするために、道徳的偽装がとられ、あはせてエロティシズムや風俗一般に
対する規制が行はれるのが通例である。
三島由紀夫「危険な芸術家」より
610:大人の名無しさん
10/07/06 11:39:30 6VmwnrUU
エレキは有害で、青少年に対して危険であり、ベートーヴェンは有益で、何ら危険がないのみか
人間性を高めるといふ考へは、近代的な文化主義の影響を受けた考へであつて、
ベートーヴェンのベの字もわからない俗物でも、かういふ議論は鵜呑みにするし、
現代の政府の文化政策もこの線を基本的に離れえないことは明白である。
しかし毒であり危険なのは音楽自体であつて、高尚なものほど毒も危険度も高いといふ考へは、
ほとんど理解されなくなつてゐる。政治と芸術の真の対立状況は実はそこにしかないのである。
してみると日本には、真の危険な芸術家は一人もゐないといふことになり、政府も
そんなに心配する必要はなし、万事めでたしめでたし。
三島由紀夫「危険な芸術家」より
611:大人の名無しさん
10/07/06 11:40:00 6VmwnrUU
現代はいかなる時代かといふのに、優雅は影も形もない。それから、血みどろな人間の
実相は、時たま起る酸鼻な事件を除いては、一般の目から隠されてゐる。病気や死は、
病院や葬儀屋の手で、手際よく片附けられる。宗教にいたつては、息もたえだえである。
……芸術のドラマは、三者の完全な欠如によつて、煙のやうに消えてしまふ。
…現代の問題は、芸術の成立の困難にはなくて、そのふしぎな容易さにあることは、
周知のとほりである。それは軽つぽい抒情やエロティシズムが優雅にとつて代はり、
人間の死と腐敗の実相は、赤い血のりをふんだんに使つたインチキの残酷さでごまかされ、
さらに宗教の代りに似非論理の未来信仰があり、といふ具合に、三者の代理の贋物が、
対立し激突するどころか、仲好く手をつなぐにいたる状況である。そこでは、この贋物の
三者のうち、少くとも二者の野合によつて、いとも容易に、表現らしきもの、芸術らしきもの、
文学らしきものが生み出される。かくてわれわれは、かくも多くのまがひものの氾濫に、
悩まされることになつたのである。
三島由紀夫「変質した優雅」より
612:大人の名無しさん
10/07/06 11:40:17 6VmwnrUU
能は、いつも劇の終つたところからはじまる。
三島由紀夫「変質した優雅」より
性と解放と牢獄との三つのパラドックスを総合するには芸術しかない。
三島由紀夫「恐ろしいほど明晰な伝記―澁澤龍彦著『サド侯爵の生涯』」より
613:大人の名無しさん
10/07/06 11:42:53 6VmwnrUU
青年の冒険を、人格的表徴とくつつけて考へる誤解ほど、ばかばかしいものはない。
三島由紀夫「堀江青年について」より
すべてのスポーツには、少量のアルコールのやうに、少量のセンチメンタリズムが含まれてゐる。
三島由紀夫「『別れもたのし』の祭典―閉会式」より
614:大人の名無しさん
10/07/06 11:43:13 6VmwnrUU
小説家における文体とは、世界解釈の意志であり、鍵なのである。
強大な知力は世界を再構成するが、感受性は強大になればなるほど、世界の混沌を
自分の裡に受容しなければならなくなる。
戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。
「私はこれからもう、日本の悲しみ、日本の美しさしか歌ふまい」―これは一管の
笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた。
三島由紀夫「永遠の旅人―川端康成氏の人と作品」より
615:大人の名無しさん
10/07/07 11:07:02 PvnXQ0se
お節介は人生の衛生術の一つです。
お節介焼きには、一つの長所があつて、「人をいやがらせて、自らたのしむ」ことができ、
しかも万古不易の正義感に乗つかつて、それを安全に行使することができるのです。
人をいつもいやがらせて、自分は少しも傷つかないといふ人の人生は永遠にバラ色です。
なぜならお節介や忠告は、もつとも不道徳な快楽の一つだからです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 うんとお節介を焼くべし」より
現代では何かスキャンダルを餌にして太らない光栄といふものはほとんどありません。
世間には、外貌と内側の全然一致しない人もある。
三島由紀夫「不道徳教育講座 醜聞を利用すべし」より
616:大人の名無しさん
10/07/07 11:08:01 PvnXQ0se
友人を裏切らないと、家来にされてしまふといふ場合が往々にしてある。大へん永つづきした
美しい友情などといふやつを、よくしらべてみると、一方が主人で一方が家来のことが多い。
三島由紀夫「不道徳教育講座 友人を裏切るべし」より
世間に尽きない誤解は、
「殺人そのもの」と、
「殺つちまへと叫ぶこと」
と、この二つのものの間に、ただ程度の差しか見ないことで、そこには実は非常な質の
相違がある。
三島由紀夫「不道徳教育講座 『殺つちまへ』と叫ぶべし」より
およそ自慢のなかで、喧嘩自慢ほど罪のないものはない。
三島由紀夫「不道徳教育講座 喧嘩の自慢をすべし」より
617:大人の名無しさん
10/07/07 11:08:21 PvnXQ0se
戦争も大事件も、必ずしも高尚な動機や思想的対立から起るのではなく、ほんのちよつとした
まちがひから、十分起りうるのです。そして大思想や大哲学は、概して大した事件も
ひきおこさずに、カビが生えたまま死んでしまひます。
運命はその重大な主題を、実につまらない小さいものにおしかぶせてゐる場合があります。
そしてわれわれは、あとになつてみなければ、小さな落度が重大な結果につながつてゐたか
どうかを知ることができません。
人間の意志のはたらかないところで起る小さなまちがひが、やがては人間とその一生を
支配するといふふしぎは、本当は罪や悪や不道徳よりも、本質的におそろしい問題なのであります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 0の恐怖」より
618:大人の名無しさん
10/07/07 11:32:41 PvnXQ0se
作家といふものは、いつもその時代と、娼婦のやうに、一緒に寝るべきであるか?
もちろん小説には、まぬがれがたい時世粧といふものは要る。しかし反動期における
作家の孤立と禁欲のはうが、もつと大きな小説をみのらせるのではないか?
……それにしても、作家は一度は、時代とベッドを共にした経験をもたねばならず、
その記憶に鼓舞される必要があるやうだ。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
619:大人の名無しさん
10/07/07 11:32:57 PvnXQ0se
絶望から人はむやみに死ぬものではない。
典型的な青年は、青春の犠牲になる。十分に生きることは、生の犠牲になることなのだ。
生の犠牲にならぬためには、十分に生きず、フランス人のやうに吝嗇を学ばなければならぬ。
貯蓄せねばならぬ。卑怯な人間にならなければならぬ。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
620:大人の名無しさん
10/07/07 11:33:24 PvnXQ0se
芸術は認識の冷たさと行為の熱さの中間に位し、この二つのものの媒介者であらうが、
芸術は中間者、媒介者であればこそ、自分の坐つてゐる場所がひろびろと、居心地の
よいことをのぞまず、むしろつねに夢みてゐるのは、認識と行為とがせめぎ合ひ、
(那須の)与市のそれのやうに、ぎりぎりの決着のところで結ばれて、芸術を押しつぶして
しまふことなのである。そして芸術がいつもかかるものから真の養分を得て、よみがへつて
来たといふ事実以上に、奇怪な不気味なことがあらうか?
三島由紀夫「小説家の休暇」より
621:大人の名無しさん
10/07/08 12:17:32 RaWA452M
誰も死に打ち克つことができないとすれば、勝利の栄光とは、純現世的な栄光の極致にすぎない。
姿勢を崩さなければ見えない真実がこの世にはあることを、私とて知らぬではない。
三島由紀夫「太陽と鉄」より
622:大人の名無しさん
10/07/08 12:24:25 RaWA452M
あひかはらず忙しく往来してゐる社会の海の中に、ここだけは孤島のやうに屹立して感じられる。
自分が憂へる国は、この家のまはりに大きく雑然とひろがつてゐる。自分はそのために
身を捧げるのである。しかし自分が身を滅ぼしてまで諫めようとするその巨大な国は、
果してこの死に一顧を与へてくれるかどうかわからない。それでいいのである。
ここは華々しくない戦場、誰にも勲しを示すことのできぬ戦場であり、魂の最前線だつた。
三島由紀夫「憂国」より
623:大人の名無しさん
10/07/09 23:39:37 zCHJujUW
少年がすることの出来る―そしてひとり少年のみがすることのできる世界的事業は、
おもふに恋愛と不良化の二つであらう。恋愛のなかへは、祖国への恋愛や、一少女への
恋愛や、臈(らふ)たけた有夫の婦人への恋愛などがはひる。また、不良化とは、
稚心を去る暴力手段である。
神が人間の悲しみに無縁であると感ずるのは若さのもつ酷薄であらう。しかし神は
拒否せぬ存在である。神は否定せぬ。
三島由紀夫「檀一雄『花筐』―覚書」より
無秩序が文学に愛されるのは、文学そのものが秩序の化身だからだ。
三島由紀夫「恋する男」より
624:大人の名無しさん
10/07/10 00:08:13 DCvXdFbm
日本近代知識人は、最初からナショナルな基盤から自分を切り離す傾向にあつたから、
根底的にデラシネ(根なし草)であり、大学アカデミズムや出版資本に寄生し、一方では
その無用性に自立の根拠を置きながら、一方では失はれた有用性に心ひそかに憧憬を寄せてゐる。
日本知識人が自己欺瞞に陥るくらゐなら、死んだはうがよからう、と嘲笑はれてゐる声を
きかなければ、知識人の資格はない。
知識人の唯一の長所は自意識であり、自分の滑稽さぐらいは弁えてゐなくてはならぬ。
三島由紀夫「新知識人論」より
625:大人の名無しさん
10/07/10 00:08:31 DCvXdFbm
命を賭けて守れぬやうな思想は思想と呼ぶに値しない。
知識人の任務は、そのデラシネ性を払拭して、日本にとつてもつとも本質的な「大義」が何かを
問ひつめてゐればよいのである。
…権力も反権力も見失つてゐる、日本にとつてもつとも大切なものを凝視してゐれば
よいのである。暗夜に一点の蝋燭の火を見詰めてゐればよいのである。断固として
動かないものを内に秘めて、動揺する日本の、中軸に端座してゐればよいのである。
私はこの端座の姿勢が、日本の近代知識人にもつとも欠けてゐたものであると思ふ。
三島由紀夫「新知識人論」より
626:大人の名無しさん
10/07/12 11:38:39 mUnkhPym
行動といふものはそれ自体の独特の論理を持つてゐる。したがつて、行動は一度始まり出すと、
その論理が終るまでやむことがない。
目的のない行動はあり得ないから、目的のない思考、あるひは目的のない感覚に生きて
ゐる人たちは行動といふものを忌みきらひ、これをおそれて身をよける。思想や論理が
ある目的を持つて動き出すときには、最終的にはことばや言論ではなくて、肉体行動に
帰着しなければならないことは当然なのである。
行動は一瞬に火花のやうに炸裂しながら、長い人生を要約するふしぎな力を持つてゐる。
真に有効な行動とは、自分の一身を犠牲にして、最も極端な効果をねらつたテロリズム以外には
なくなるであらう。
三島由紀夫「行動学入門」より
627:大人の名無しさん
10/07/12 11:38:55 mUnkhPym
死の向ふ側にわれわれは自分の個人の効果といふものを、あるひは個人の利得といふものを
考へることはできないのであるから、政治的効果といふものは初めから超個人的なところに
求められなければならない。
超個人的な効果をねらつて個人が自己犠牲を払ふといふところにしか、政治的効果がない。
われわれは全く無効だと覚悟した行動にしか真の政治的有効性といふものを発見しないの
かもしれない。
無効性に徹することによつてはじめて有効性が生じるといふところに、純粋行動の本質があり、
そこに正義運動の反政治性があり、「政治」との真の断絶があるべきだ、と私は考へる。
三島由紀夫「行動学入門」より
628:大人の名無しさん
10/07/12 11:39:11 mUnkhPym
賭けとは全身全霊の行為であるが、百万円持つてゐた人間が、百万円を賭け切るときにしか、
賭けの真価はあらはれない。なしくづしに賭けてゐつたのでは、賭けではない。
行動がことばでないと同様に、待機もことばではない。それはただ濃密な平板な、人生で
最も苦しい時間なのである。
自分の美しさが決して感じられない状況においてだけ、美がその本来の純粋な形をとる。
二度と繰り返されぬところにしか行動の美がないならば、それは花火と同じである。
しかしこのはかない人生に、そもそも花火以上に永遠の瞬間を、誰が持つことができやうか。
三島由紀夫「行動学入門」より
629:大人の名無しさん
10/07/12 11:39:35 mUnkhPym
どんな変革も、個人の心の中に初めてともつた火から広がつていくものだ。
すべてのものに始めと終りがあるやうに、行動も一度幕を開けたらば幕を閉じなければならない。
行動は、たびたび繰り返したやうに、瞬時に終るものであるから、その正否の判断は
なかなかつかない。歴史の中に埋もれたまま、長い年月がたつても正当化されない行為は
たくさんある。
行動はことばで表現できないからこそ行動なのであり、論じても論じても、論じ尽くせない
からこそ行動なのである。
三島由紀夫「行動学入門」より
630:大人の名無しさん
10/07/13 01:22:45 H3AsXmUx
国家総動員体制の確立には、極左のみならず極右も斬らねばならぬといふのは、
政治的鉄則であるやうに思はれる。そして一時的に中道政治を装つて、国民を安心させて、
一気にベルト・コンベアーに載せてしまふのである。
ヒットラーは政治的天才であつたが、英雄ではなかつた。英雄といふものに必要な、
爽やかさ、晴れやかさが、彼には徹底的に欠けてゐた。
ヒットラーは、二十世紀そのもののやうに暗い。
三島由紀夫「『わが友ヒットラー』覚書」より