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1712年までに、伊藤印達が、六代大橋宗銀との五十七番勝負の中で「必勝戦法」を発見したという説がある(ただし棋譜は現存しない。URLリンク(homepage3.nifty.com)参照)
1712年:印達15歳の若さで「病死」。宗銀の養父である五代大橋宗桂(四世名人)、「必勝戦法」の存在を知り、伊藤印達を毒殺した可能性を指摘する説もある。
1713年:宗銀、五代宗桂が相次いで「病死」。
1760年頃、印達の弟、三代伊藤宗看(七世名人)と伊藤看寿が、印達の生前の棋譜の中から「必勝戦法」に関する手がかりを発見(上の戦法と同一のものかどうかは不明)したという説があるが、間もなく両者ともに「病死」。
1800年頃、六代大橋宗英(九世名人)が「必勝戦法」(上の戦法と同一のものかどうかは不明)を発見していたという説があるが、後の「最強名人」のイメージから作られた逸話という解釈が通説となっている。
1830年、大橋柳雪が視力を失い廃嫡、下野。実は同じ大橋分家の六代宗英から最強戦法を伝授されており、そのことが知られ毒を盛られるが、一命は取り留め逃げることに成功した、とする説がある。詳細は謎。
1830年代、天野宗歩が大橋柳雪と手合わせ。「最強戦法」が宗歩の知るところになるか。
1859年、天野宗歩、44歳で没。その3年前に八代伊藤宗印(十一世名人)を対局した際、宗歩が「最強戦法」を知っていることが家元の知るところとなった可能性あり。
宗歩の没後、4人の有力な弟子のうち、市川太郎松、渡瀬荘次郎、平居寅吉は「消息不明」となる。小林東伯斎は生き残り、坂田三吉を育てるが、「必勝戦法」が三吉まで伝わったかどうかは不明。
1881年、九代大橋宗与が「獄死」。六代宗英、柳雪らを輩出した大橋分家の資料の中から「必勝戦法」を発見したため精神に支障を来したため道を誤った可能性が指摘される。