08/07/11 01:26:37 Z1BUTDm0
とりあえず前スレで挙がった尻垂坂の戦いを
991 :名無し曰く、:2008/07/11(金) 00:43:09 ID:Qsia9JFJ
この時代、最大の難敵強敵は一向衆
一向宗と戦った大名と、そうでない大名との差は考慮に入れた方がいい
やはり謙信の場合、一向宗と正面衝突し、これを叩き潰した戦歴は大きいよ
元亀三年の尻垂坂の合戦なんかだと加賀一向衆は江沼・能美両郡まで援軍を加えてる
加賀一向宗がほぼ総力を挙げて、勝興寺や瑞泉寺などの越中一向宗と合流
新庄城の謙信と激突する訳だけど、一揆は敗れた
とあるんだけど
サイトで調べたところ:URLリンク(www.tkc.pref.toyama.jp)
6.尻垂坂(富山市西新庄)
現在、富山市西新庄にある「尻垂坂(しりたれざか)の薄(すすき)地蔵尊」は、元亀3年(1572)8月、新庄城と富山城との間で、上杉謙信勢と加賀・越中の一向一揆軍との激戦を展開されたことを伝えるものである。
この尻垂坂は西新庄の正願寺前辺りから田中町の間のびや川の堤の登り口地域にあった。尻垂坂の北東約1キロの地点にある新庄城は北陸道の要衝であり、越中中央部における上杉方の拠点(松倉城の支城という説あり)であった。
一向一揆軍が越中東部に進出するためにはどうしてもこの新庄城を掌中におさめねばならなかった。
8月18日、謙信の小荷駄隊を含めた約1万の軍勢が新庄城に集結した。一方一向一揆軍4千は富山城に陣を張った。この間1里。
8月20日、人海戦術をとる一向一揆軍は僅かな兵では心細いため越中・加賀に盛んに援軍を求めたが思うようにいかなかった(『河田文書』)。
別のサイトでは:URLリンク(www.geocities.jp)
元亀三年(1572)八月、上杉謙信は、上洛を妨げる越中の一向一揆を討つために、常願寺川近くの新庄に陣を構えた。謙信の約一万の軍勢は新庄に結集、富山城の一揆軍の討伐の作戦を図った。
勇猛果敢な謙信勢とは、同年五月に続く二度目の対戦を迎えた一向一揆軍は、わずか四千の兵力とあって総指揮を担当する瑞泉寺の杉浦壱岐玄任は、加賀の坪坂伯耆らに頼み、江沼・能美両郡からの援軍を求めた。
こうして新庄城と富山城との間で激しい攻防戦が展開された。特に尻垂坂の合戦はすさまじかった。尻垂坂は西新庄の正願寺前辺りから田中町の間の、びや川の堤の登り口地域にあった。両軍が激突したころから幾日も雨が降り続き、
多数の戦死者の流血によって、びや川の流れが真赤に染まったと言われている。そして一揆は敗れた。
一揆方が敗れたってのは本当のことらしい。
ところが、前スレ>>991は越中一向一揆に江沼・能美両郡まで援軍を加え、さらに加賀一向衆も総力を挙げて援助した、なのに謙信に敗れたと書いてあるのに、
他のサイトでは越中一向一揆が江沼・能美両郡まで援軍を頼 み こ ん だ とあるのみで来てはいない。
おまけに兵数も1万対4千と圧倒的に謙信が有利ときている。
前スレの>>991は何を思ってこんな勝って当然の戦を謙信の戦手腕の例に挙げたんだろう・・・