08/05/01 01:54:01 3dcNtvte0
「はーあ……」
７６５プロ事務所の給湯室で、私は一人ため息をつく。
目の前のフライパンからはあたりには甘い良い匂いが立ち上っていたけど、気分はちょっと憂鬱。
理由は、些細な事だった。
今日私は、午前の仕事で新しい衣装である『ミニウェディング』を試着することになった。
ステージで踊れるように構造もシンプルで、スカートの丈も短くアレンジされているものだけれど、
その目映いばかりの純白のドレスは、女の子なら誰もが憧れる、結婚式を挙げる新婦さんの恰好。
お仕事のための衣装だっていうのはわかってたけど、それでも鏡に映った自分の姿に
思わず呆けてしまうほど嬉しくて。何となく恥ずかしくて。
それで、出来映えを見に来たプロデューサーさんに、つい聞いてしまった。
「えっと……、私、お嫁さんみたいに見えますか？」って。
私、頬が真っ赤になっちゃうくらいドキドキしてて。プロデューサーさんも、私の恰好と言葉に、
ほんのちょっとでもドキドキしてくれたら……、なんて、期待しちゃってて。
けど、プロデューサーさんの反応は、私の望んでいたものとは違った。
「ああ、よく似合ってるよ。その衣装を着た春香は、ファンの皆のお嫁さんなわけだ」って。
私が、その恰好で自分の隣に立つ可能性なんて、少しも考えてないようだった。
プロデューサーさんが悪いわけじゃない。衣装のせいで、勝手に舞い上がってた私が悪い。
それがわかってるから、ガッカリとモヤモヤを中々整理できずにいる。
私は手首を返して、フライパンの上のホットケーキをひっくり返した。
こんがりきつね色に焼けたケーキに、ほんの少し気分が良くなる。
昔から、ちょっと嫌なことがあるとお菓子を作りたくなるクセがあった。
私はドジで不器用だけど、お菓子は手順さえ間違えなければちゃんと出来上がる。
私でもしっかり出来る事があるって確認できて、その後美味しい物も食べられる。
単純かもしれないけど、私がお菓子作りが好きなのは、そんな面もあると思う。
そんなこんなで私が色々持ち込んだせいで、ここ事務所の給湯室には
卓上コンロや調理器具にお菓子の材料まで、色んな物が充実している。
今日も、夕方からのお仕事までに気持ちを切り替えるため、
空き時間におやつを作ってるというわけ。
ホットケーキが焼き上がる頃には、気分も大分良くなっていた。
うん、引きずってても仕方ないもんね。そう思って、自分でも見事な出来映えの一枚目を
デスクワークをしているプロデューサーさんに持って行ってあげることにする。
別に用意しておいたお茶と一緒に、ホットケーキをお盆に乗せてオフィスの戸を開く。
パソコンに向かって作業しているプロデューサーさんのところへ行き、声をかける。
「えっと、プロデューサーさん！ ホットケーキを焼いたんですけど、おやつにどうですか？」
プロデューサーさんはちょっと驚いた様子だけど、差し入れするのは初めてじゃない。
焼き立ての匂いに釣られたのか、嬉しそうに受け取ってくれて。
そんな風に笑ってくれたら、もうさっきの憂鬱なんて吹っ飛んじゃうみたいで。
…………でも、今日はそれだけじゃなかった。
「…………」
プロデューサーさん、ケーキに手をつける前に、わたしの方をじっと見てる。
「えっと、何ですか？」
「…………あ、ごめん。さっき春香の試着の時に、あんな事言われたせいかな……。
何となく、今の春香……、その、お嫁さんみたいに見えたよ」
「え……」
照れくさそうに頬を掻くプロデューサーさん。ウェディングドレスの時じゃなくて、
今の私が『お嫁さん』に見えた。今の私って、私服にエプロンで、それでプロデューサーさんに
手作りのお菓子を振る舞って……。
「えー、いや、ゴメン。忘れて。ありがとな、春香」
「は、はい」
忘れませんよ。振り向くと私は、さっきよりずっとドキドキしながら逃げるように給湯室に入る。
……もう一枚、作ってあげちゃおう。そう思いながら。