08/02/03 03:32:07 F/ENzY8B0
■レコーディング(ランクD)
乾いた音が録音スタジオ内に響き渡り、室内の時が止まった。
アイドルの頬を、プロデューサーが叩く、という通常ありえない事態に。
しかもかなり強め……もしも眼鏡をかけている人なら、1メートルは飛んでいるくらいの威力だった。
「時間は守ってもらう。今回はさっきOKが出たあのテイクをCDにする……これはプロデューサーとしての決定だ」
反対を一切許さない断固たる態度に、与えられた時間内に最高のものを出せなかった千早の立場としては、首を縦に振るしかなかった。
それでも頭で理解しているが心で納得できるわけではなく、外部の録音スタッフが数人いるにもかかわらず、千早は涙を流した。
「くっ……は……い……プロデューサーがそう仰るなら、引き……下がります……すみませんっ……」
ほとんど声になっていないが、それでもスタッフ達に『お疲れ様でした。申し訳ありません』と挨拶し、スタジオを立ち去る二人。
理論的に考えるなら、彼の行動は正しい。時間内に最高の仕事が出来なかった千早が悪いのであり、
外部のスタッフさんを呼んでいるなら、なおさら仕事は時間を守ってきっちりやるべきだろう。
それでも、歌だけは。千早自身の脳内に浮かぶ、最高の仕事を出したい。わがままは承知だがこれだけは受け入れて欲しかった。
最高の仕事のため、皆に頭を下げてでも、あと1テイクだけでもやらせて欲しかった。
(何を期待してるんだろう……わたし。プロデューサーに、ルールを曲げてでも付き合った欲しかったの?
いや……違う。わたしが時間内に最高の歌を歌えなかったのが悪い。私がしっかりしていれば、私さえ!!)
スケジュールとレッスン、仕事の管理はしっかりやってくれている。最初は胡散臭い人物だと思ったが、
意外と誠実だし、レッスンはちゃんと厳しく的確に指導してくれる。彼に落ち度は無い。わたしが勝手に期待して転んだだけの話。
そう考えた千早は翌日から再び厳しい顔でどんどんレッスンに励み、来月発売の新曲レコーディングに向けてリベンジを誓った。
「……収録が終わらない、ですって?」
「いやぁ……申し訳ないねぇ、うちの娘ときたらトップランクにいる分、ちょっとした気分でテンション変わるんよ。
今せっかくいい感じになってるし、悪いんだけど今日はコレでおたくの時間、譲ってくれないかな?」
プロデューサーの手に、結構な厚みの現金が手渡された。
時は翌月、千早が待ち望んだ新曲レコーディングの日。千早がスタジオとスタッフを借りる予定の時刻になっても、
その前にスタジオを借りているアイドルに収録の遅れが出ていた。
そのアイドルは大手プロダクションの注目株で、歌では千早に大きく劣るがメジャー度は比較にならない。
「お金は結構です。おたくもプロなら時間は守って下さい」
「う~ん、今時珍しく頑固なプロデューサーだねキミも。それじゃ、これでどう?」
プロデューサーの手に、さっきの三倍の額が手渡される。この時点ですでに彼の給料を軽く超えていた。
「金額には関係ありません!俺は約束どおりスタジオを空けてくれと言ってるんです!!」
なおも食い下がる彼に、大手プロダクションマネージャーの態度が変わった。
「おいおい……こっちがやさしくしてやりゃいい気になりやがって。Dランク程度のアイドルなんて
スケジュールスカスカなんだから断る要素無いだろうよ。収録をちょっとズラすだけで60万円だ。
双方にとってベストな解決方法だと思わない?だいたいうちの娘、そっちと違ってランクBよ。
何十万と売るCDなんだからさぁ、時間かかるのはあたりま……」
プロデューサーの手が彼の襟首を掴んだため、最後まで言葉は出なかった。
「千早は……うちの千早は今日の収録に歌手生命を賭けてるんだ!!お前らのようなやる気の無い奴等と一緒にするなぁ!!」
千早自身も初めて見る……先月とは比べ物にならない程のプロデューサーの怒号。
外部スタッフ達が慌ててプロデューサーと大手プロのマネージャーを引き離した。
「あんたの態度も何だ!!人気アイドルだからって明らかに手ぇ抜いてるならちゃんと注意しろ!!
ましてや収録時間オーバーして他人に迷惑かけるとはどういう了見だ!千早よりずっと歌が下手なくせに!!」
プロデューサーの叫びが何かの鍵となり、先月引っかかっていた千早の心にある記憶の扉を開けた。
もしも、自分の後に収録を控えているユニットがあったら?その人たちにとって収録時間がかけがえの無いものだとしたら?