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「しかし、だ。既に何人か候補は上がっているのだよ。プロデューサーを雇い次第、
すぐにでも活動を始める手筈は出来ている。」
「え……?」
私は彼女の方へ向き直ると、両手を小さな肩に軽く乗せた。
「だから私の方は大丈夫だ。余計な心配をかけて済まなかったね。」
「……そ、そう!なんだ、もう……よ、よかったわ。ア、アイドルなんて、変な格好して、
下手くそな歌、歌って、ダ、ダサダサなダンス踊って……そ、それがテレビで日本中に放送されるなんて、
そんな恥ずかしい事、私が……やる訳……やる訳ないじゃないっ!!」
「おいおい、随分な物言いだな。それにいきなり全国区とはいかんよ。アイドルは一日にしてならず、
まずは地道に営業をこなして……」
無駄に熱くノウハウについて語りかけたところで、私は異変に気付いた。
震えている。私ではない、彼女だ。精一杯笑顔を保とうとしているが、わずかながらにその瞳は潤んでいた。
「さ、さてとっ!わ……伊織、忙しいからまたねっ!バイバイ、おじ様っ!!」
乱暴に私の腕を振り解くと、彼女はドアへと一直線に駆け込む。
「何よ!とっとと開きなさいよ、このペラっペラのオンボロドアっ!!」
ブーツでガンガンと蹴り飛ばしている。このままでは壁ごと持って行かれそうだ。
「待ちなさい。」
私は彼女の手首を掴んだ。
「放してっ!こんなカビ臭い所、もう一生来ないんだから!!」
引き剥がそうと必死に振り回される腕を押さえつつ、さらに言葉を続ける。
「先程の言葉は嘘かね?」
「知らないわよ!イチイチ覚えてなんかいられないわ!!」
「では、私の聞き違いか。本気、と聞こえたのだがな。」
彼女の動きが止まる。暫しの沈黙。空調の音が消えた頃、彼女が再び口を開く。
「……そうよ。嘘よ、嘘。冗談に決まってるじゃなぁい。やあねぇ、コロっと騙されちゃって。
社長がこの程度じゃ、ここも大した事ないわね。それに、別にアイドルに……興味なんて無いし。」
まただ。また震えている。
「ねえ、扉を開けてくださらない?……伊織、早くお家に帰らないといけないの。」
せっかちだな……よろしい。ただし、私が開くのは、目の前の靴跡の付いたものではない。
「そうだな。君には、履歴書を書いてきてもらわねばならんからな。」
「……落ち着いたかね。」
「あら、私はいつでも落ち着いてますわよ。にひひっ。」
やれやれ、自慢の黒がぐちゃぐちゃだ。まあ、この顔を見せられては怒る気にもならんが。
……これがこの子の、本当の笑顔なのだな。
「さあ、スーパーアイドル、水瀬伊織ちゃんの伝説が今、ここから始まるのよ!!」
「では、お父様を説得するのが君の初仕事、だな。」
「うっ……わかってるわよ。……やるしか……やるしかないのよね。そうよ、それが出来なきゃ、
世界中の人間が悲しむことになるのよ!!……責任重大だわ。」
相手が相手だ。愛娘の頼みとは言え、一筋縄には行かんだろうな。
「おじ様には私に見合うような、超一流のプロデューサーを用意しておいてもらうわね。
……いいえ、今すぐにでも引っ張ってきてちょうだい!」
「はっはっは、頼もしい限りだな。だがさっきも言った通り、アイドルは一日にしてならず。
デビュー後も厳しいレッスンと地道な営業の……」
「そんなの楽勝よ!ほらほら、もっとドーンと、大船に乗ったつもりでいなさい!にひひっ!」
船、か。いい例えだ。追い風を目一杯受けて、大海原へと突き進んで行く。
次々と襲い来る荒波をどう乗り切るかは、舵取りの腕の見せ所……
ああ、私としたことが、重要なことを忘れていた。ドックは既に進水式を控えた客船で一杯なのだ。
ここでさらに新規建造などと言い出せば、工場長たちはストライキを起こしかねない―
最悪、サボタージュに発展するやも知れんな。
思わずため息が出たところで、視線の先にあったのはティーカップ。一つは私の飲んだ紅茶。
そしてもう一つは……全く手をつけられた形跡が無かった。
「……自信作、だったのだがなあ。」
―おはよう。……おっと、事務所内では私のことは『社長』、と呼んでくれたまえ。
……うむ、よろしい。では早速、面接を始めようか、『水瀬伊織』君―