07/05/02 13:44:28 wYKTvOpo0
連環連環と…チャンスデスネ
「袁術」 当塗高の予言と…
袁術の父袁逢は司空(官吏の不正取り締まりにあたる三公のひとつ)であった。
この袁逢は一説によると袁紹の父でもあるというが確たる証拠はない。
袁術と袁紹は従兄弟とも、異母兄弟とも言われているのだ。
189年董卓が少帝を廃する計画を立てた際、袁術を引き入れようとしたが
袁術はそれを断った。漢の皇帝を思ってというよりは、後難を予期しての事だろう。
要するに悪い予感がしたのだ。袁術は董卓から逃れて南陽に入る。
ここで孫堅との数奇な運命の歯車が静かに回り始めることになる。
孫堅はこの時南陽の太守張咨を殺害したばかりであった。そこへ袁術は転がり込んで
南陽に居座る事ができた。袁術は上表し、孫堅を破虜将軍、豫州刺史に任命し、
董卓討伐にあたらせた。孫堅も利用されるつもりはなくとも、漢朝再興の名目のもと
奮戦し、ついに洛陽に一番乗りで名乗りを上げる。一方で反董卓の盟主となっていた袁紹とは
袁術は不仲であったため、公孫[王贊]と結んだ。公孫[王贊]は袁紹と敵対していたからであろう。
袁紹はというと袁術と敵対する劉表と結ぶ。ここに袁術・公孫[王贊]対袁紹・劉表の構図が出来上がる。
袁術は191年、孫堅に命じ劉表討伐に当たらせる。劉表は配下の黄祖を差し向け孫堅を防ぐ。
ご存じのように孫堅の華々しい戦功と数奇な運命はここに幕を下ろす結果となる。
孫堅と袁術といえば伝國の玉璽は有名だが、一説に拠れば袁術は洛陽に入った孫堅の妻を人質に取り
玉璽を強奪したとも言われている。このあたりはいつか孫堅の話で聞いて頂きたい。
孫堅は大志を抱き江南の地に挙兵するも、歴史という大きな流れの中で言えば袁術に利用され続け
最終的には命を落とす結果となった。しかしこの死は決して無駄ではなかったと歴史が証明する。
さて、本題に入る。