06/08/23 03:49:02 fRDsrwQq
２０１５年春。私は公私のパートナーであるキタローと、
多くの心優しい人たちに支えられて、まだまだ不慣れな経営者としての責務に励んでいた。
その甲斐あってか、桐条グループの経営も落ち着きを取り戻しつつある。
そんな時だ。あの人から実に７年振りに連絡があったのは。
あの後、島津グループは重役の汚職が発覚してみるみるうちに没落。一時期世間を騒がせた。あの人も資産を全て失ったと聞く。
正直、あの人とはあまり良い思い出がない。
常に何かに苛立ち、何かに怯え、何かにすがろうと必死だった人。
それなのになぜだろう。もう一度だけ会いたいというあの人の手紙には何か心温かいものが感じられた。
美鶴「キタロー、すまない。今日の午後の予定はキャンセルしておいてくれ」
キタロー「どうしたんですか？何か用事でも？」
美鶴「ふふっ、『大事な人』に会ってくる」
キタロー「？！」
少し遅れてしまったが待ち合わせの喫茶店に入る。奥の席に、どこか見覚えのある初老の男性が座っていた。
彼の視界に入りそうだったので、歩きながら少し頭をさげる。
と、彼は驚いた顔をして、そして急いで口にしていたタバコをもみ消した。
美鶴「お待たせして申し訳ございません。お久しぶりです」
隆一郎「やあ、ひさしぶり。自分で連絡しておいてなんだけど、まさか来てくれるとは思いませんでした」
何か違和感を感じる私。・・・そうか、なんだか以前よりも優しい声になっているんだ。いや、声だけじゃない。
美鶴「変わりましたね」
隆一郎「ははっ、苦労しらずの人間が色々と苦労したからねえ。随分とくたびれた感じでしょう？」
美鶴「いえ、そんな。ただ、・・・迷いがなくなったように感じます」
隆一郎「ふふっ、生まれて初めて、自分の意思で動いているからかもしれませんね。
・・・あの後、うちの資産だけでは足りないほどの負債を抱えました。でも先日、それをようやく片付けたところなんです。
これからは綺麗さっぱり日本を離れて暮らそうと思っています」
美鶴「いつからですか？」
隆一郎「明日。で、今日あなたに会いたかったのは、
自分勝手な話ですが、過去の無礼な振る舞いをどうしても一言謝りたいと思いまして。
色々なことを片付けてきましたが、それだけが僕の心残りだったものですから」
美鶴「・・・」
隆一郎「いい年をした大人が、まだ高校生だったあなたに酷い言葉を投げつけてしまった。
謝ったからといって決して許されることではないけれど、本当にすみませんでした。
・・・実は、私の両親も周囲に勝手に決められて結婚していましてね。
対外的には仲の良い夫婦を演じていましたが、家庭では夫婦喧嘩が絶えず酷いものでした。
とはいえ、喧嘩はいつも母からふっかけて、父は黙って耐え忍ぶだけ。子供心に情けなく思いましたよ。
母はそんな気の弱い父にうんざりして、僕が中学の頃に家を出て行きました。
そのときから僕は勘違いしてしまったようです。『女性には文句を言わせず、男に従わせるべし』などとね。
いや、失礼。こんな話は言い訳にもなりませんな」
美鶴「・・・たしかに、あなたの言葉に傷付けられたりもしました。
でも、あなたがいなかったら私は自分の気持ちに気付くことができなかったかもしれない。
それに、今の夫と一緒になることもなかったかもしれない」
隆一郎「ああ、ご結婚されたとか。もしや、あの時の彼ですか？」
美鶴「ええ」
と、彼は自分のことのように嬉しそうに微笑み、良かったそれは良かったと繰り返す。
その笑顔を見ていたら、いつの間にか彼への苦手意識などどこかへ吹き飛んでいることに気付いた。
隆一郎「いやはや、お忙しいのにこんな長くお引止めしてすみませんでした」
美鶴「いえ、私も楽しかったです。日本を離れてもお元気で」
隆一郎「ええ、ありがとう。では」
そう言うと振り返って歩き出そうとする彼。しかし３歩も歩かないうちにもう一度こちらを振り返った。
隆一郎「・・・最後まで自分の都合で申し訳ないが、今日お会いしたかったのにはもう一つ理由があるんです」
美鶴「え？」
隆一郎「初めてお会いした時からずっとあなたに心惹かれていました。そのことを言っておきたかった。さようなら」
そう言うと、今度こそ後ろを向いて歩き出し、雑踏へと消えていく。
美鶴「また、会えますか！？」
私の叫び声は届いたのかどうかわからない。しばらくその場に立ちすくみ、やがて私は、彼と反対方向へ歩き出した。