15/02/15 19:30:47.38 b2/pR6S50● BE:511393199-PLT(16073) ポイント特典
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半藤一利さんの著書「ソ連が満州に侵攻した夏」は、1945年8月9日にソ連が対日参戦して以降日本側が蒙った損害について概括的に記録している。
半藤さんによれば、8月9日以降の僅かの期間に日本軍が蒙った戦死者の数は、ソ連情報局の特別声明をもとに約8万人と推定される。
たった一週間でこれだけの人間が殺されたのだ。
この他ソ連は日本人を強制連行してソ連各地の収容所に送り、強制労働に従事させた。厚生省の調査によれば、将兵56万2800人、官吏、警察官、技術者など
1万1700人がシベリアに送られ、そのうち日本に戻れたのは47万2142人、さしひき10万人がソ連で無念の死をとげたことになる。
以上は主として軍関係の被害の概要だが、民間人の蒙った被害も甚大だった。ソ連参戦当時満州には約150万人の民間人がいたといわれるが
そのうち無事日本に帰国できたのは、約105万人である。残りの45万人にどういう運命が待ち受けていたか、詳しいことは分からない。
「満蒙終戦史」(満蒙同胞援護会編)は、在満日本人の死者を18万694人と記している。殆どは1945年と1946年に死んでいる。
(在満日本人の引き上げの第一陣は1946年5月15日のことである)
8月9日にソ連が満蒙国境を越えて満州に侵攻してくると、関東軍は大混乱に陥った。関東軍はもはや、日本軍としてのまともな体裁を備えていなかったから、
ソ連軍と正面から戦う能力に欠けていた。それ故ソ連軍は抵抗らしい抵抗に殆ど出会うことなく満州平原を南に向かって進行してきたわけだ。
この時点で、関東軍が最低限しなければならなかったことは、在留邦人の保護だったはずだ、と半藤さんはいう。
それなのに関東軍は、在留邦人を見殺しにして自分たちだけが真っ先に日本に逃げ帰る事だけを考えていた、と半藤さんは憤りをこめて糾弾している。
ドイツでは、ヒットラーが自殺した後、敗戦を覚悟したドイツ軍司令官デーニッツは、残された船のすべてを使って、東部ドイツに居住するドイツ人を4か月かけて西部ドイツ
に移動させた。ソ連軍の蹂躙から一般国民を守るためである。この措置によって200万以上のドイツ人が命拾いをした。
ヨーロッパでは、敗戦を覚悟した国がまず真っ先にやらねばならぬことは、国民の生命を守ることだという信念が確立されていた。
国は存亡の危機に面してこそ、その神髄が試されるのである。
ところが日本軍は、情報を知りうる立場にある軍人とその家族が真っ先に安全な地域に移動し、あまつさえ自分たちだけが日本に向けて脱出するというようなことをやってのけた。
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