14/08/15 01:32:51.72 m7Jhl8qy0
マニラ戦とベイビューホテル事件
URLリンク(www.geocities.jp)
はじめに
マニラ戦は、1945年2月3日より3月3日までの1か月間続いた日米両軍による市街戦である。この戦闘によって、マニラ
市街は徹底的に破壊され、マニラ市民約10万人が犠牲になった。日米両軍の戦闘行為、特に米軍の砲爆撃による被害
が大きかったことも指摘されているが、フィリピンにおいてこのマニラ戦をとりわけ有名にしているのが、その中でおこな
われた日本軍の数多くの残虐行為である。キリスト教の聖職者を含めアメリカ、イギリス、フランス、スペイン、スイス、
ロシア、ドイツ、イタリアなどの市民、そしてフィリピン市民が組織的意図的に虐殺される事件がマニラ市内の各所で頻発
した。男たちだけでなく女性や子ども、老人も対象にされる無差別の殺害であり、日本軍による占領時期に関してフィリピ
ンで刊行されている文献、回想録では、必ずと言ってよいほど言及されている。こうした歴史的事実とその経験の継承は、
フィリピン社会の対日観に大きな影響を及ぼしている[1]。
一連の日本軍による残虐行為の中で、とりわけ悪名高いものが、本稿で取り上げるベイビューホテルの事件である。こ
の事件は、マニラ戦の最中の2月9日から12日(一部は13日)にかけて、日本軍がマニラの中心にあるエルミタ地区の女性
たち数百人をベイビューホテルとその近くのアパートメントに監禁し、日本兵たちが次々と強かんを繰り返した事件である。
被害者には、フィリピン女性だけでなく、アメリカ、イギリス、スペイン、ロシア、イタリアなど欧米諸国の女性たちも含まれて
いる。
日本語の文献ではこの事件について避けて通るものがほとんどである。他方、英語文献では日本軍の残忍さを象徴的に
示す事件として言及されることが多く、無慈悲な強かんの様子が紹介されているが、日本軍がなぜ、どのような指揮命令
系統に従って、この事件を起したのか、その周辺地区での一連の住民虐殺などの残虐行為とどのように関連しているのか、
などについてのきちんとした分析はまったくなされていない。