14/06/29 13:49:39.90 lTpA36YS0 BE:323988998-2BP(1000)
sssp://img.2ch.net/ico/nida.gif
学徒出陣して海軍飛行科予備士官となり、特攻隊の募集に「望」と答えた90歳の元海軍少尉が、
英語で「カミカゼと日本文化 回顧と再評価」と題する草稿をまとめた。
「特攻志願は“命令”ではなかった」と強調する元少尉は、「カミカゼ」を民間人も標的にする現代の狂信的な「自爆テロ」の源流だと認識しがちな外国人に
特攻隊の本質を理解してもらおうと健筆を振るった。(岡部伸)
■熱望・望・否の3択
草稿をまとめたのは、メキシコ南バハ・カリフォルニア州ラパス在住の渡辺啓三郎さん(90)。
渡辺さんは、昭和18年12月、学徒出陣して広島県の大竹海兵団に入団。19年2月に第1期海軍飛行専修予備生徒として三重航空隊に入隊した。
約3カ月間、飛行訓練を受けながら適性検査を受け、ナビゲーションを担当する偵察士要員となった。
鈴鹿航空隊に転属し、同年5月から約半年間、偵察士としての訓練を終えた同年11月ごろ、
上官から特攻隊に志願する意思があるかどうか紙に書くように命じられた。
制限時間5分以内に「熱望」「望」「否」の3択から選ぶというもので、返事をしない選択肢はなかった。
渡辺さんは、迷わず、「望」を選択した。
しかし、配属されたのは無線兵器(戦闘機電話・電波探信儀)の整備員を養成する藤沢航空隊だった。
選抜で書いた「望」は「熱望」につながると考え、命令が来れば、いつでも特攻として出撃すると覚悟してレーダーの実験飛行などを続けたが、終戦となった。
選抜で「望」としながら前線の実施部隊に派遣されなかったことを疑問に感じていたが、
特攻隊として、前線に配属されたのは「熱望」と答えた者だったことを戦後知った。
実際、特攻隊として南の空に散った同期生はいずれも「熱望」と答えていた。
20人いた同じ班で「熱望」と書いた3人が出撃しながら3人とも飛行機故障などで生還した。
大多数が「望」と回答した中で、「否」と書いた者もいた。上官から呼び出されたが、
「故郷の村で唯一の大学卒業生なので生きて帰りたい」と伝えると、容認され、罰則を受けることはなかった。