07/07/25 02:11:48
「妄執」 VEGAN ◆PsPHI2rklQ 著
人間が指、足、心臓、俺と認識する。部分化する。
さらに見れば、鉄分、ビタミン、たんぱく質、骨、骨のカルシウムと部分化できる。
しかし、それは一つのワタシという有機体です。
部分として孤立し実態していると固執するとき妄執というのではありませんか?
実は相互に依存しながら、つまり縁起しながら動いているというのです。
人間がアンタ、俺と認識するとき、それが同じような妄執なのだ、と釈尊はおっしゃった。
さらに、なにかを見るとき、過去の記憶を被せて鬱積のある感情を抱く。
そうでなく無常である世を、あるがままに見よと、釈尊はおっしゃった。
物は実在している。
しかし、実体が、つまり自性が無い。相互に依存し、縁起しているに過ぎない。
わたしが一つの有機体であるように、わたしとあなたも一つの有機体である。
実体はなく、なにか我執を存続させているような自性は突き詰めるとない。
それは妄執である。
しかし、物は実在している。
死こそは、本当の生であり、そこには再び期待するという我執が滅されている。
それは死のように滅されたのだ。輪廻が起こるのは死してなお、再び期待するからだという。
ゆえに本当の死こそが、本当の生である。そこには再び期待するという我執が滅されているのである。
再び期待することがないということ、つまり我執がない。本当の死であり、滅されたのだ。
あるがままを見ているのだ。生きているのだ。過去の記憶を見ているのではないのだ。生きているのだ。
ただ、どのようにしてそこに達するのかといわれれば、 まだ学び足りず分からない。
ただどのような方法だとか、どのような道であるか、どのような宗教ではないのだ。
ただ早急に、執拗に、徹して再び起こし続けないことである。
それこそが瞑想である。