07/08/31 21:23:42
茶漉しの煮沸が一段落し、それを入れていた琺瑯鍋の底面から沸き上がる
気泡が少なく小さくなった頃、ふと、再び静かなドアの外のことが気になりだした。
ケンジの部屋は、古い安アパートの2Fに位置し、ドアを開ければやや右斜め前に
アパート前の路地に降りていく、塗装が禿げて地鉄が剥き出しになった
錆び付いた急な階段がある。いつも仕事に出かけるときは、この階段を駆け下りるのだが、
毎度の如く蹴躓いて転げ落ちそうになる。大家に掛け合ったところで、あの樽を圧縮したような
図体で鼻をほじりながら生返事をするだけで、何ら改善はしてくれない。
まあそんなことはどうでもいい。一日24時間という時間の中で、このクソアパートの階段を
昇降する時間など、ほんの一瞬でしかないからだ。
そんなくだらない思考に時間を割くくらいなら、次の仕込みにつかうジュースの種類と、
補糖量や酵母種の組み合わせにあれこれと考えを巡らすほうがよほど建設的というものだ。
・・・はて、いつもこの時間帯は、階下の住人の帰宅ラッシュを告げる各部屋の
ドアの開閉音や、両隣の住人が錆び付いた階段を上がってくる金属の軋み音が聞こえるはずなのだが、
今日に限って何らの音すらしない。いつもならたまに通る車の音も聞こえない。
いったいどうしたというのだ。
まるで、ケンジの部屋の外は、生きた人間が誰もいない世界のような雰囲気すら感じる。
唯一聞こえてくるのは、ケンジの部屋のテーブルを占拠した仕込みボトルたちの中からの、
シュワシュワと酵母達がジュースの中で糖分を思う存分喰らいながら、アルコホルの他に
排出する炭酸ガスがボトルを満たしたジュースの液面まで沸き上がり、
瞬間、ちいさなちいさな気泡を作って弾け去る、刹那な音だけだ。
聞き慣れていることもあり、いつもは気にも止めないような、それどころかそもそも
発酵中は発泡していることすら忘れてしまうほどの微細な音であるが、
何故か今はその音がやけに耳に付くのだ。
ともすればその音は、地獄の底の血の池から沸き上がってくる、死びとたちの断末魔の
喘ぎ声のようにも思えてくる。