06/05/27 13:06:50
>とても給食費を払えるような余裕はこの時代にはなかったのである。
>それを解決したのが五五年(昭和三〇)年八月の「日米余剰農作物協定」(PL四八〇法案)の締結である。
>学校給食はアメリカ産小麦で献立を作らなければならなかったのだ。
>こうして学校給食は「パン食普及」の最前線となっていく。
>学校給食にごはん食が本格導入されるのは、七六(昭和五一)年まで待たなければならなかった。
>小学生の次に、アメリカの食糧戦略がターゲットにしたのは主婦層であった。
>それが、アメリカ農務省が厚生省と協議し、五六(昭和三一)年から五年間、総額四億二〇〇〇万円もの活動資金をアメリカが全額援助して実現した
>「栄養改善運動」という粉食奨励のための一大キャンペーンであった。
>厚生省ばかりでなく、農林省、文部省が協力し、日本栄養士会もこれを支えた。
>「栄養改善運動」の旗振り役を努めた厚生省栄養課長(当時)の大磯敏雄もまた、自著『栄養随想』で米は貧乏につながるから、
>日本人は「米とのきずなをどこかで断ち切らねばならない」とまで書いている。
>「日本人の多くは、戦後の食生活が欧米化したことを知っていますが、なぜ欧米化したかを知らないのです」(鈴木さん)
>日本の食を変えたのがアメリカの食糧戦略であったと同時に、日本人に「日本型食生活」を思い出させたのもアメリカであった。
>七七(昭和五二)年に米上院の栄養問題特別委員会が発表した、いわゆる「マクガバン・リポート」である。
>それによれば、「炭水化物を多く摂る」「脂肪の摂取量を減らす」など、
>これまで遅れているとされてきた「日本型食生活」がアメリカの模範になってしまったのである。
>農水省はこれを受けて八〇(昭和五五)年、農政審議会の答申で「日本型食生活」を肯定的に捉え、
>「米の基本食料としての役割とその大切な意味」を謳った。
>米の消費量を増やし、「食料自給率」を回復させるべく舵を切ったのである。
>二〇〇〇年の文部・厚生・農水三省の「食生活指針」も、
>〇五年の「食育基本法」制定も、大きく言えばこの政策の延長線上にあると言ってよい。
>「大正時代には日本人の九五パーセントが和食でした。
>これが六五(昭和四〇)年ごろに和食・洋食・中華が三分の一ずつとなり、
>その割合は今日までほとんど変わっていません
URLリンク(blog.livedoor.jp)
>一九六〇年当時、カロリーベースで八〇%あった食料自給率が、五〇%に低下した主要な要因は、
>エサ、小麦、大豆などの原料作物を輸入する方向に転換したためです。
>現在は、四一%まで低下しています。
URLリンク(www.kokuminrengo.net)
>軍事用語に「糧道を断つ」という言葉がある。
>敵が食糧を確保するための使っている道を断ち、兵糧攻めをすることである。
>日本も2010年ごろから、食糧危機に襲われる
>戦争を防止するために各国の貿易依存度を高めようというのがGATTの本来の趣旨なのだろうが、
>ソ連がアフガニスタンを侵攻したとき、アメリカはソ連に対する小麦の輸出を禁止する報復行為に出た。
>有事の際には、日本でも北朝鮮で見られるような飢餓地獄が出現するだろう。
URLリンク(www.nagaitosiya.com)
>旧・厚生省(現・厚生労働省)は『食生活指針のしおり』で、
>1日に30品目以上の食品を食べるように指導していた。
>しかし、必ず30品目となるようにすると、夕食時、余計な食品を摂りすぎてしまい、
>肥満や睡眠障害を引き起こしうることから、2000年3月『食生活指針』により指導からはずされた。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
『日本人の食事摂取基準(2005年版)について』(厚生労働省)
2005年にして食物繊維という項目が加わる。
栄養学はタンパク・デンプン・脂肪だけの時代があり、
ビタミン・ミネラルが加わった時代になり、
食物繊維も含め細かくどう使われるかがわかってきたのはまだ最近のことです。