08/10/11 00:41:59
>>497
自分もそこが気になったんだけどいくつかの点を勘案すると、
あながち間違いとも断定できないんだよね。
まず明帝紀に曹真が諸軍を率いて一斉に進発したとあり、
諸葛亮伝の記述を見れば、
曹真が向かった部隊は箕谷の陽動部隊なのが分かる。
そして曹真が動いた後に諸葛亮が祁山に進軍し、
これに呼応して三郡が反乱を起こすという流れ。
つまり曹真の関右諸軍が進発した後に諸葛亮本隊が姿を表してる。
この後に慌てて明帝が長安にやって来て張郃を派遣。
街亭において馬謖を破り、諸葛亮は撤退を開始する。
「魏略」によると、游楚が守りを固めてまもなく南安の兵が表れ、
その後10日で諸葛亮は撤退してることになってる。
これを見ていくと南安平定は街亭戦が終わり、
曹真が戻った後だと考えた方がしっくりくるし、
この当時の金城太守が誰かは不明だけど、
単独で諸葛亮軍を打ち破って南安攻撃に向かったとは考え難い。
そうすると徐邈は元々曹真の軍に参加していた、
と考えるのもおかしくないと思ったんだよ。
ただ、確信は持てなかったから書かなかったけど。