蜀、随一の名将は魏延at WARHIS
蜀、随一の名将は魏延 - 暇つぶし2ch1:楊儀
08/07/24 05:15:12
間違いない!

2:無名武将@お腹せっぷく
08/07/24 05:58:07
このスレタイにしてこの>>1・・・ありえん!
ありえんが、ありえん故に三戦板のスレか・・・

3:無名武将@お腹せっぷく
08/07/24 06:50:40
3

4:無名武将@お腹せっぷく
08/07/24 14:56:54
猛暑が続いているからね。
>>1がおかしくなるのも頷けるよ。

5:無名武将@お腹せっぷく
08/07/24 17:10:21
でも、もともとおかしい奴だったしなー
裏返ってまともに・・・


ないかw

6:無名武将@お腹せっぷく
08/07/24 18:44:06
魏延の系譜

正史・・・反骨なし。叩き上げ?漢中太守に抜擢で驚かれる。首を踏み付けられる。
演義・・・反骨あり。活躍の場面は正史よりあって、コーメーが反骨にこだわる理由がわからない。
横山・・・反骨あり。演義と同じ扱い。趙雲が抜け駆けを提案した時も躊躇してみせる。
落ち度ないのにコーメーに罠にかけられたりして散々な目に。
無双・・・反骨?変な仮面にインディアン口調。妙に南蛮ステージが似合う色物扱い。
動きはトリッキーだが扱いやすい。オロチ再臨ではリョフ・光秀とともに裏切りトリオアタックが使える。
蒼天・・・反骨なし。なぜか土佐弁。叩き上げ。活躍はほとんどなし。
北方・・・反骨あり。肌があわないだけでコーメーに嫌われるも能力は高め。

7:無名武将@お腹せっぷく
08/07/24 19:53:34
まあ出会い頭に「ベジータ頭キモス」とか言われるようなもんだ

8:Jominian ◆Henri9gNlM
08/07/25 01:03:11
懐かしいスレだな

9:無名武将@お腹せっぷく
08/07/25 16:33:03
>>6 ㌧!

10:無名武将@お腹せっぷく
08/07/25 23:10:11
馬超と馬岱が曹操にキルされていれば魏延さんの伝が、 魏関張黄趙伝 に載ったろうに。

11:無名武将@お腹せっぷく
08/07/26 09:10:30
ここ最近の魏延賛美論は行き過ぎな気はするな。
むじんとかいう陰険釣師じゃないが、少し評価しすぎじゃないか?とは思う。



12:無名武将@お腹せっぷく
08/07/26 10:48:41
儲には行き過ぎなんてありません

13:無名武将@お腹せっぷく
08/07/26 23:12:04
ではまず魏延は兵卒出身か豪族かで議論しようじゃないか

14:Jominian ◆Henri9gNlM
08/07/27 00:26:13
そもそも、魏延が奴隷だの兵卒だのの出身だとする根拠は何なんだろうか?

15:無名武将@お腹せっぷく
08/07/27 00:31:56
>>14
「以部曲随先主」を「部曲に所属」と見た、ということだろう
「以」は「将」つまり率いるの意味があるから、部曲を率いる豪族というのが正解かとは思う

16:Jominian ◆Henri9gNlM
08/07/27 00:39:08
>>15
なんだか無理矢理な感じだね。
一兵卒から牙門将への出世が、僅か一戦役で行われるのも不自然だし、
仰るとおり、部曲を率いて蜀攻めに参加したと見た方が自然だと思う。

確か奴隷については、以前、楊儀が魏延の首を踏みながら罵った「庸奴」の奴を、
奴隷の意味に採った事が根拠だったのを読んだように思える。
これも変だね。
奴という字が必ず奴隷という意味に採られるなら、
辛ピが審配を罵った時の言葉を以って審配を奴隷とする事もできてしまうし。

17:無名武将@お腹せっぷく
08/07/27 00:45:50
>>16
ただ、庸奴については楊儀の方に抜きがたい差別意識があった可能性はあるよ
奴隷だったという意味ではなく、楊儀が名士(士大夫)層に属していたのに対して魏延は豪族ではあっても学がない、つまり非名士だったのかも
(辛ピと審配も同じ)

18:Jominian ◆Henri9gNlM
08/07/27 01:01:08
>>17
辛ピと審配は、地元冀州豪族と外様の豫州豪族と言う対立も考えられるけど、
楊儀と魏延は出身地が遠くないので、辛ピと審配のような対立ではなさそうだね。
そうすると、楊儀に魏延に対する差別意識があったなら、
魏延が荊州における名士のグループに与していなかった事は大いに考えられるだろうね。
蒋琬や董允が楊儀の肩を持ち、費禕が魏延を騙して楊儀に付いたというのもあるし。

19:Jominian ◆Henri9gNlM
08/07/27 02:39:47
昔は、こういうスレには魏延オタがわんさか来たもんだが、
やはり今は殆どいないのかねぇ?

20:無名武将@お腹せっぷく
08/07/27 03:57:14
魏延が漢中まかされた理由ってなに?よく知らないから誰か教えて。

21:無名武将@お腹せっぷく
08/07/27 10:33:56
劉備が張飛を対魏の前線拠点に据え置いて拘束する事を不便と感じたせいかも
とか思ったり
呉への東征を見越した場合も都合がいいのでは…とも

22:無名武将@お腹せっぷく
08/07/27 12:01:05
>>20
魏延就任当初の漢中はそれほど重要地点じゃなかったんじゃまいか?
荊州南部を押さえていたし、襄陽取る気満々だったしね。
それが荊州南部取られて唯一の魏への最前線になってしまったからね。

23:無名武将@お腹せっぷく
08/07/27 12:27:52
荊州は連絡がとりずらく独立軍に近い状態だったし、漢中が最前線であることは変わらないから、
漢中が重要地点であることは間違いないだろうさ

張飛は呂布のときとか、失敗があったから劉備が大守にするには信用出来ないと判断したのかもね
あるいは、張飛は忠誠心は確かだから側においておきたかったとか
で、張飛の次に大守を任せられそうな人物が魏延だったということではないかと

24:Jominian ◆Henri9gNlM
08/07/27 13:12:36
そもそも、劉備の意図が見えないんだよね。
曹操は5月に長安に引き揚げ、秋には洛陽に向けて軍を動かしているので、
漢中の当面の危険は回避されたけど、関羽への支援は行わず劉備は成都に引き揚げている。
関羽のもとに派遣した費詩が帰って来ていたか、関羽の孟達らへの救援要請を知っていたなら、
魏が対関羽の戦力を増強中なのは分かっているだろうし、
軍を成都に帰し、支援し難い状態に置くだろうか?

少なくとも劉備は、漢中から軍を動かす事は当面考えていなかった、という事は分かる。
「曹操が来たらこれを防ぎ、偏将が来ればこれを呑み込む」という魏延の言葉が、
劉備の意図を表し、漢中を守るに足るだけの能力があり、且つ劉備の意を解しているという事で選んだのかもしれない。

25:無名武将@お腹せっぷく
08/07/27 18:03:54
>>21-24
サンクス


26:Jominian ◆Henri9gNlM
08/07/28 01:45:12
少し考えると、魏延が漢中太守となった時、確かに曹操は長安を去り、
漢中に対する圧力は緩和されている。

しかしながら、東方に目をやると、上庸には申耽、西城には申儀と、
どちらの地も帰服したばかりの人間が太守となっている。
孟達も、帰服してから数年経つとは言え、上庸を任せるのに躊躇する程度の信頼しか、劉備から得ていない。
劉封がいるとは言え、彼では険悪さを作るだけで、上庸をまとめる事はできない。

東はいつ変事が起こっても不思議ではなく、実際にも220年に孟達が魏に降り、
彼は夏侯尚、徐晃を招いて西城、上庸、房陵を魏のものとしてしまった。
実際には、多少なりとも不安定な状況ではあったのではないだろうか?

また、魏延は劉封を救援しなかったが、それが責められている様子も無いので、
当時の魏延は、あまり多くの兵を動かす事ができなかった、すなわち、
漢中の軍兵はあまり多くなかったと考えられる。

27:無名武将@お腹せっぷく
08/07/30 19:32:00
横山三国志の魏延さんって活躍が他の作品の2割増ししてるね。
逆に横山は諸葛亮がきらいじゃない?と思うシーンもチラホラ。

いくらなんでも酒の席で魏延さんが諸葛亮の悪口を言ったくらいで
「反骨が育ったか・・・」って(笑)
コレじゃあまるでチンケやん。

28:無名武将@お腹せっぷく
08/07/30 22:54:07
何気に劉表病死直後に初登場を果たしている魏延さん

29:無名武将@お腹せっぷく
08/08/01 16:02:07
>>26
たしかに、劉封・孟達というもともとうまくいっていない二人を
位置的に微妙な上庸方面に配するセンスは解せないね。
この辺が任侠集団・劉備軍の限界なのかな。

30:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/01 21:39:00
>>29
そもそも、孟達は劉璋から劉備にもとに派遣された後、そのまま江陵に行き、
蜀の平定後は宜都太守だったから、劉備とまともに話していないと思う。
劉備自身、孟達がどんな人間かは人づてにしか聞いてないんだろう。
だから、劉封と孟達との相性がどうであるのかは、当時の劉備にはよく分かってなかったんだと思う。

まぁ、降伏したばかりで、人心を安定させなければならない場所で、
気の強い劉封を回すと言うのは、その時点で失敗かもしれんけどね。

31:無名武将@お腹せっぷく
08/08/02 21:02:54
>>6
顔という字は刺青した人を表すらしいので無双はそれを超解釈したんではないかと

32:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/03 23:17:18
最近の魏延オタは勢いが足りないな。
まぁ、これは魏延オタに限った事ではないが。

数年前なら、こんなスレが立つやいなや、子午谷を使った奇襲作戦について、
やかましく主張する魏延オタが沸いたもんだ。

個人的には、300kmもの距離を10日以内に踏破しようという時点で、
あの作戦には疑問が生じるけどな。
前進自体はできないことは無いだろうが、長安に達した時点で既に戦闘力は著しく低下してるし、
少しでも抵抗されたら終わりだろう。

33:無名武将@お腹せっぷく
08/08/04 10:52:03
加えて兵站が続かんだろうから、僅かでも抵抗されててこずると
敵地に孤立するのも想像つくね
勇気ある果断とみるか、無謀な博打とみるか、そのへんが難しいなあ

34:無名武将@お腹せっぷく
08/08/04 23:14:44
魏延さんが名将?
とうぜんだな!
誰の元でもという訳にはいかないお方だが三国時代でも
屈指の名将である。

韓信の再来。

35:無名武将@お腹せっぷく
08/08/04 23:15:39
>>32
たぶん、むじんの活動に釣られちゃった連中が避けてるんじゃないか

36:無名武将@お腹せっぷく
08/08/04 23:23:33
>>32
>>33
すごく分かるけど
それだけ絶好のチャンスだったんじゃないか?
へロヘロの少数の兵でも落とせる確率がある位の。
孔明も安全策を取っただけだし。

37:無名武将@お腹せっぷく
08/08/04 23:45:22
魏延的には
「チンタラやってたって絶対ムリなんだから、一か八かでもいくしかねーだろ」
って考えだったかも

38:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/04 23:53:34
>>33
負糧五千がどれくらいの量を指しているのかは分からんけど、
五千斛だとしても精々20日分程度しかないからね。
追加の輸送は不可能だろうから、それまでに落とさなくてはならない。

>>35
かつて蜀将スレでやった釣りとかの事?

>>36
趙雲たちへの対応の早さを見ると、曹真は相当早くに長安入りしてて、
歩騎5万を率いた張郃ですら、明帝の長安入り(2月下旬)までに馬謖が撃破された事を考えれば、
遅くとも1月下旬ごろには長安に入ってたと思うんだよね。

「俺が来れば長安の守将は逃げる」なんていうのは、それこそ、
魏延の長安までの前進を完全に秘匿できないと無理だと思う。
察知された時点で曹真が派遣されるし、軍隊としての行動ではなく、
少数で馬を飛ばせば数日で長安入りできるだろう。
そして、長安の軍の指揮権が彼に移るだろうから、敵の逃亡は望めなくなる。

39:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/04 23:54:45
明帝の長安入りは2月中旬の間違いだな。

40:無名武将@お腹せっぷく
08/08/04 23:57:07
曹叡自ら長安の後詰に向かうほど長安を重視してるのに
魏延は「俺を見れば敵は逃げ出す」とか言ってる

41:無名武将@お腹せっぷく
08/08/05 01:32:39
>>38
うん。言っている事は道理なんだけど。
今まで戦果を挙げてきた歴戦の将が、
明らかに勝算の無い事をするのか疑問でさー。
その時代と場に居た人間の感覚では
それなりにやる価値はあったかもじゃないかなーと思うんだよ。

まあただの判官贔屓かもだけどさ。

42:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/05 02:02:39
>>41
ある程度の勝算はあったかもしれないし、なかったかもしれない。
後世の人間は史書に書いてある事から状況を推し量るしかない。

確かに、その人物の推測しうる能力や性格からかけ離れた行動は、
疑ってかかる事だし、「名将が拙い作戦を提案するとは考えにくい」と考えるのもありだと思う。
個人的には、魏延は、そう立脚する事が可能なほどの名将とは思ってないので、
やはり自分としては受け入れがたいものがあるけどね。

43:無名武将@お腹せっぷく
08/08/05 02:15:17
諸葛亮は魏の誘引にまんまと引っかかって北伐をやったという論があるな。
以下の事由をもって、魏は蜀を涼州の平原へ誘引したと。

地理
・魏は平地での会戦を得意としており、蜀とは山岳地帯を避けて戦闘したかった
・蜀は山岳地帯でのゲリラ戦を得意としており、魏軍との兵力差を隘路での局地戦で埋めたかった
兵装
・魏は慢性的な金属不足にあえいでおり、兵装はしょぼかった
・蜀には鉱山があり、精兵ともなれば鉄の武器を持ち、その兵装はかなりのもの。強兵である
機動的要因
・魏の自領内における行軍速度は、平原である事もあり、時代を通じて三国一であった
・蜀の行軍速度は、人力車での桟道越えもあって牛の歩みよりもはるかに遅かった
兵站
・魏は任峻の提言による万全の輸送体制をしいており、損耗率は低かった
 機動力に長けているので、兵力補給は当然間断なく行われる。
・蜀は様々な事由で兵站構築能力が絶望的であり、兵糧を持たずに出撃した事が有るほどだった
 絶望的な機動力から、物資は現地に着くまでに殆ど使い尽くし、兵力の逐次投入など論外である。
情報
・魏の情報収集能力は、蜀の内情にも詳しかったように時代を通じて三国随一であった。
・蜀は史官(書記・暦法官)がおらず、過去の正確な公式記録を持たない事から情報戦に弱かった。
 現に劉備は、勘違いから劉協存命中に蜀帝に即位し、
 孔明もまた、満寵がちょろっと呉の公文書を偽造すると、前後関係も考えずに孫呉を疑っている。

諸葛亮は引っ掛けられながらも、第一次を除いては山岳地帯での小規模戦闘に明け暮れた。
魏延は子午刻特攻を提唱する事で、
「まんまとクマーされてんじゃねぇよ、このボケが。
 俺たちは特攻隊か?特攻しろってんなら、敵の策源地を直接狙ってやってやるよ。
 成功すればよし。負けて俺が死ねば、こんな阿呆な事をやらなくなるだろ。
 ここで決断できないなら、アンタは一生チキンのままだぜ。畜生」
と言いたかったのかもしれない。

44:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/05 02:21:52
学研歴史群像シリーズの三国志に、そんなような話が載ってたな。
その本の方が、内容はもっと簡素だったが。

45:無名武将@お腹せっぷく
08/08/05 02:25:46
仇国論に「孔明はクマーされてる。クマーすべきはこちらである」という論がある。
ショウ周は軍事の専門家でも何でもないから、当時から反孔明派が主張していた論なんだろう。
で、それを群像シリーズが拾いあげてたのかな?

46:無名武将@お腹せっぷく
08/08/05 02:29:11
論があった、とある。だな。

47:無名武将@お腹せっぷく
08/08/05 02:37:01
>>42
確かに史書で判断するしかないんだけどさ。
史書で判断するしかないんだけど
ただ昔の気候、地形、風俗、慣習、敵の人間関係等々の状況って
今と違うと思う。
千年後では今の日本人は獣みたいな感覚で語られるかもだしさ、
だからただ単に「魏延(さん略)は無謀で名将とは・・・」
とくくってしまうのは魏延さん高順さま好きとしてはどうかと、
と言う訳で魏延さんの再評価を強く求める所存。

ちなみに>>42は誰が名将だと思うの?

48:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/05 02:37:18
>>45-46
仇国論にそんな話しあったっけか?

王沈の魏書には、諸葛亮が隴西に出た時、明帝が、
「諸葛亮は険阻な山に籠もっていたのに、今、自ら出てきた。
 これこそ、兵書に言う『人を致す』というものである。
 今、この機会を利用するなら、必ず諸葛亮を撃ち破れよう。」
という内容を群臣に語った事が記されているから、
少なくとも第�%E

49:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/05 02:38:48
書き込みが上手くいかなかった。「少なくとも」以下はこんな感じね。

少なくとも第一次北伐に関しては、諸葛亮が出て来た事を魏にとっての好機と捉える考えが、
王沈らの時代にあったのかもしれない。

50:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/05 02:53:54
>>47
俺個人としては、魏延を何かでくくった覚えは無いんだけど。
あくまで、「名将だから無謀な作戦を立案するわけない」
という考えが成り立つほどではないと思っているだけね。
魏延に関しては、その戦略に関する能力が殆ど分からない。
強い闘争心と勇気を有している事は、史書から分かるので、
リスクの高い作戦でも採用するだろうとは思う。
ただ、彼の作戦計画が、どれだけの計算に基づき、
どれだけ緻密で優れたものだったのか、という事までは全く分からない。
だからこそ、俺は最初に言った結論に達する事になる。

んで、誰を名将と考えるか、だけど、三国志に出てくる人物の中で総合的に判断すると、
曹操や陶璜、諸葛亮、鄧艾、王基、王渾など、他にも結構いる。
基本的に、深く考察するだけの材料があり、且つ、
名将と論じるに足るだけの根拠をそこから得られる人物だね。

魏延については、名将かどうかを論じるほど考察できない、という結論だ。

51:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/05 03:00:24
こいつはあまり関係ない事だが、誰かを名将と主張したいと考えるのは良い事だと思う。
俺自身、三国志の戦争の考察、と言うより、三国志の考察そのものを始めたのが、
姜維を名将と主張したいが為だったからね。

そういうのがきっかけで色々考えるようになってくれれば、三戦も面白くなるだろう。

52:無名武将@お腹せっぷく
08/08/05 03:07:02
>>48
たしかに、少なくとも第一次そのものに反対した蜀将は記録上居りませんな。
王連も故人となっとりますし。
そして、先制攻撃こそ兵法における常勝の型である事から考えても、王沈らの懸念は正しいと思う。
ショウ周は仇国論に「長く対する…」と書いたように、戦闘の長期化を懸念していた。

 周文王は「敵は強い。今戦っても良いことはない。ここは待ちの一手!!」と、
 強国に臣下の礼をとり、版図を後方に広げ、兵を鍛え…とまぁ、待ちの戦略を取った人ですな。
 劉邦は「敵はヒキコモリに天下が取れるか、バーカ」とばかりに、
 対決姿勢も顕わに、調略をもって大同盟を作り上げ、名将を起用して積極的に敵地に侵入し、
 とまぁ攻めの戦略を取った人ですな。

このようにショウ周は、
蜀が魏を倒す事をもって、かつて蜀を制した周文王と劉邦の二者の体をもって準えた。
そして、「天下が乱れ、群雄が乱立するような状況でなければ劉邦にはなれない」と結論付けた。
電撃戦による早期決戦を主張する魏延と、出征回避を主張するショウ周とは、
形は違えど「長対陣と連年の出征は回避すべし」という点で共通しとると言えるでしょう。

似たような論は、全く違う状況で、官渡前に田豊とソ授が進言し、袁紹に退けられとりますね。
個人的には、待ちの戦略はショウ周の述べている通り、天下が定まってから行う物だと思います。
孫呉という半ば成功した例もありますんで。

53:無名武将@お腹せっぷく
08/08/05 03:08:18
「敵はヒキコモリ」は、敵はまとまりがない。ヒ~ の誤りです。


54:無名武将@お腹せっぷく
08/08/05 03:39:22
>>50
くくる云々は一般論ね。
なるほど、確かに判断材料が少ないのは間違いない・・・
でもだから面白いんだい!

ここまで来ると好みだねー
能力があるのに不遇な人に魅かれちゃう。
名将の定義ってなんだろうかのー・・・・

55:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/05 03:40:56
>>52-53
論旨は分かるのだが、「長く対する」という文言を仇国論に見つけられなんだ。
あと、魏延と譙周の議論の結びつけが、少々強引に思える。

「無闇に動かず、内を固めて時機を待つべし」という譙周の主張と、
「大胆に前進して一気に敵を撃つ」という魏延の主張は、少し違うかなと。
魏延の主張は寧ろ、譙周の言う、「射幸数跌」に当るんじゃないかと。
魏延のは博打だしね。

56:無名武将@お腹せっぷく
08/08/05 03:49:31
>>55
「長く対する」→「長く対立する」ですな。当方の誤訳と言わざるを得ない。

射幸数跌は「数うちゃ当たることも有る」だけれども、魏延のアレはどう考えても片道切符でしょう。
魏延の無茶な主張は「奇襲は相手の慮外を衝いて、一回きり」という点を如実に著しとりますし、
「成算は第一次北伐が最も高かった」というのは当時、現代に共通する認識だと思っとります。
そして、第一次北伐が失敗した以上、備えある強敵にまともに突っ込んでも得る物は無い。
上の認識がなければ、また北伐の方針転換のためでなければ、
あんな玉砕覚悟の作戦を提唱するのは、凡将ではなく狂人の類だと思いますんで。

実際、費イの代には相手の事情もあって上手く引きずり込んで勝利しとりますね。

57:無名武将@お腹せっぷく
08/08/05 03:57:44
追記。
孔明自身が全滅の可能性を指摘しているように、魏延が死を覚悟していたのは明らかであり、
魏延という軍を二分する重鎮が一命を賭して、孔明への反意も顕わに現状に匙を投げた事。
それ自体が、諸葛亮の北伐を思いとどまらせる材料になる、と。
まぁ、孔明は聞きゃあしなかったんですが。

で、魏延が孔明死後に帰国する軍を留めて魏にあたろうとしたなんて記述もありますが、
常識的に考えて、非常時でも権限の移譲も無いままに北伐の指揮を取れるはずもなく。
魏延が狂人でないならば、陳寿の述べた通り「ただ楊儀を除きたかった」のでしょう。

今日はこれにて。

58:無名武将@お腹せっぷく
08/08/05 08:35:08
URLリンク(video.google.com)

59:無名武将@お腹せっぷく
08/08/05 08:59:35
魏延スレには昔から
「魏延の役目は諸葛亮に対案を出すことだから勝算の無い策でもあえて言ってるだけ」
「名前で嫌われただけ」
とかそういうネット小説があるのかと聞きたいような説が多いけど
「あてつけに愚策を提案して諌めようとした」
というのもこの流れを汲んでると思う

60:無名武将@お腹せっぷく
08/08/05 11:50:48
勝てる可能性がほとんどない状況下で、国のトップが攻めると言う。
前線を預かっていた者の責務として「これなら可能性があるかも」という立案をした。

単純にこれだけじゃないのかな。
無理がある作戦なのは事実だしね。
ただ、資料がある程度揃っていて、かつその場の瞬時の判断の必要がない
後世の机上の研究において「愚かな作戦なり」と言うのは簡単のことだけど、
その時の雰囲気とか色々な要素があったんでしょう。
実際魏延以外にこの案を支持する者がいなかったかどうかはわからないし。
反逆者として処分されたサイドの真意が記録として残らないのは世の定め。
仕方ないんじゃないかな。

61:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/05 12:56:00
>>56-57
「長く対立する」でも見つからんねぇ。
「今我与肇建皆伝国易世矣」の事なのかな?

譙周は、「両国は既に安定しており、大国の方に乱れが無ければ攻めるべきではない」
という主張であり、「やるなら一回で決めろ」という意味ではないので、
いかに奇策を弄しようとも、時機を得ていない攻勢は譙周の主張する所ではないと思う。

まぁ、魏延の提案を、諸葛亮に北伐を思い止まらせるものであった、と言うのなら、
譙周と共通もするだろうけど、それならはっきりと諫言するなりすればいいのであって、
そんな回りくどい方法を採るのは不自然だと思う。
単純に、自分の作戦に自信があったんだと思うよ。
我々と魏延とでは、得ている情報が違う。
我々には不合理だと思えるものであっても、当時魏延の得ていた情報からすれば、
それは十分合理的だった、という可能性も当然あるのだし。

62:無名武将@お腹せっぷく
08/08/05 13:19:00
>>60
そんな控えめではなく、61氏の仰るとおり勝算は十分あると考えていたんじゃないかな。
漢中太守就任の際の大言壮語などを考えても自負心が強かったのは間違いないし、
またそうでないと蜀の重鎮は務まらないっしょ。
とにかくアクは強そうだよねw

63:無名武将@お腹せっぷく
08/08/05 14:08:19
あの策で勝てると思っているなら、相当に見積りが甘いと思う。
何故なら、長安落としても30日以内には、呉と領域を接していない、
司隸、冀州、エン州、并州から援軍がやってきて、数倍以上の兵士に包囲される事になる。
包囲される事は諸葛亮も指摘している。
そして、魏軍が援軍を寄越す速度と、蜀軍が桟道を越えて援軍を寄越す速度とでは、雲泥の差。
相手の本拠地に近いだけに、桟道を越えて撤退するまでには、数の利を失って全滅する。
全滅する可能性は、夷陵の時以上に高い。

諸葛亮が独裁的な権限を持っている事を考えれば、直裁的に物を言うても仕方ないような。

64:無名武将@お腹せっぷく
08/08/05 14:14:11
数倍の敵を補給なしで打ち破るような魔法みたいな策に、合理性なんて有るわけがなかです。

65:無名武将@お腹せっぷく
08/08/05 14:34:31
>>61
>「今我与肇建皆伝国易世矣」の事なのかな?
そうですな。今、わが国とかの国は世代を何代も伝えており…ですね。

66:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/05 17:37:08
>>63
直接的にものを言うと危険が及ぶほどであるなら、
自分の作戦が容れられないからと不満を述べ、
諸葛亮を臆病者と罵る方が、よほど危険に思える。
そんな事をすれば、自分の真意が伝わらないまま殺されるかもしれないわけで。
諫言をした人物を処罰より、魏延のような態度をとった人物を処罰する方が簡単じゃないかな?

67:63 その1/2
08/08/05 18:34:19
>>66
反論を述べたらどうなるか、という点ではいくつかの例がありますな。

・国是そのものを否定する
 出師の表によって魏を討って漢を再興する事は国是となっており、否定する人は居なかった。
 国是の否定は反意有る者達の言い分であり、組織内から述べて粛清されなかった人はいない。
・計画を立てる段階で、作戦の内容に異論を述べるのは、軍人に許されとる範囲でしょう。
 段谷に進む姜維に対して副官の張翼が異論を述べても処罰されなかった事がこれにあたります。
・既に計画の建てられた段階で、計画の実行に不平を述べるのは、士気を削ぐ事から罰されます。
 夷陵の役において、秦ミツ(子勅)が、天意が無いと述べて投獄された事がこれにあたります。
・権限の無い者が、主君に計画の方針について直言すれば罰されます。
 官渡において、行政官の田豊が軍事に口出しして投獄された事がこれにあたります。
・既に結果の出た作戦行動に対して、事後に不満を述べれば、反意ありとみなされ罰されます。
 リョウ立が劉備や関羽を誹謗中傷して処刑された事がこれにあたります。

これらの事は、劉備あるいは諸葛亮であれば違う裁定が下される、というものではなく、
軍という組織ならば、何時の時代の何処の国でも共通する物だと思っとります。

68:63 その2/2
08/08/05 18:35:54
続き。

魏延は作戦を容れられなかった事への不満は述べても、諸葛亮の命令には忠実であり、
天意や運気などを騙って自らの論理を補強するという事などもしとりません。
また、子午刻攻めという、孤立覚悟の作戦を提言する時点で、死は覚悟している物と思います。
当方では魏延の策に実現性が有るなどとは露ほども思っとりませんが、
もし、ある程度成算が有ったならば、魏延が策を容れられないままに殺害されれば、
諸葛亮の器量は、蜀政権内部からも大いに疑われる事となったでしょう。
現在にある、諸葛亮の将器を疑う声もこの系統と言えるでしょう。
いかなる場合にも「魏延の死」そのものが、諸葛亮の北伐に大きな障害を産む事は明らかであり、
魏延の死亡時点で「諸葛亮の翻意」という目的は、ある程度達せられるのです。

しかし、李厳やリョウ立のように他に罪を犯して単なる罪人として死んでしまえば、
魏延の論理は否定され、諸葛亮の論理を強化するだけで、何も変わりません。

諸葛亮にとって魏延の立場は、言うなれば姜維にとっての張翼やリョウ化です。
魏延が作戦方針にのみに発言を留めた事は、軍人という立場から見ても、自然と思います。
結果として諸葛亮が魏延を罰さなかったのは、北伐を継続するためだったと思っとります。

69:63
08/08/05 18:37:32
ageてしまった。ごめんなさい。

子午刻攻めじゃなく、子午刻経路による長安攻め ですな。

以上です。

70:無名武将@お腹せっぷく
08/08/05 18:54:29
えー
「俺が無理攻めして戦死しても疎まれて詰め腹切らされて北伐が頓挫すればそれでいい」
と思いながら従軍してたと言いたいのか?
なんか小説中の人物みたいな思考だな

71:無名武将@お腹せっぷく
08/08/05 19:13:18
>>67
細かいツッコミで申し訳ないが、投獄されたのって
秦フク(うかんむりに必)じゃなかったっけ?

72:無名武将@お腹せっぷく
08/08/05 19:15:20
うん
理論の一人歩きが激しすぎるよねぇ
第一臆病者って不満を"公言"してる時点で
魏延に細やかな配慮などないのは丸わかりだし

73:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/05 19:16:48
>>67-69
魏延とて、北伐そのものを中止するよう述べる必要は無いでしょう。
「今はまだ敵の体制がしっかりしてますから、
 敵国に乱れが生じてから実行しましょう」とか何とか言えばいいんじゃないだろうか?

んで、なんだか話がよく分からなくなってきたので、最初のレスを確認すると、
・諸葛亮は魏におびき寄せられていた
・魏延はそれを理解し、敵の術中にはまるような行動を中止させたかった
・「やるなら俺の策で一気に決めろ。でなければやめろ」という意味で子午谷からの奇襲を提案した
という内容なわけだ。

そしてその根拠が、
・魏延の策は成功する公算が低い上、失敗すれば魏延が死ぬ可能性が高い
・そんな策を、自分の能力への自負で提案するわけなく、何か他の考えがあったはず
・諸葛亮は魏延を恃みにしているから、魏延が死ねば北伐は中止、或いは延期されるはず
・その事を魏延が理解していたので、魏延の作戦が実行されれば、成功しようが失敗しようが、
 魏延の思惑は達成されるだろう
って感じかな。

「間違っているから、そう主張するのはやめろ」と言える内容ではないが、
大本の部分が、「諸葛亮はおびき寄せられていた」という推測なので、
やはり俺自身は、その主張を受け入れることはできないな。

74:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/05 19:18:57
>>67
あと、本筋と関係ないけど、姜維の名誉の為に言っておくと、
張翼の諫言は、段谷に進もう(退こう)とする姜維に対して述べたものではないよ。
洮西で王経を破った後、そのまま狄道を包囲しようとする姜維に対して述べたもの。

75:63
08/08/05 22:47:31
>>71
KOEIじゃ「ふく」だが、ちくまや坂口和澄氏の本だと「みつ」ですな。はてさて。

>>73>>74
> 「今はまだ敵の体制がしっかり~

諸葛亮は「漢の高祖の道をなぞる」「出征は呉と連動すべし」と考えていたように、
「隙は待つ物ではなく作り出す物」と考える、精力的でかつ行動的な人物です。
待ちの一手をそのまま口に出しても、劉邦の故事を例に退けられた事でしょう。
そもそも、魏延が口のよく回る男なら、楊儀との喧嘩で剣を抜くような事にはならんのです。

76:63 今日は以上で
08/08/05 23:01:28
>>73>>74
> 「間違っているから~

正解を難なく導き出せる程に一事資料が豊富なら、こうして推測を述べんでもええのです。
補強になりますが、
「魏延には必勝の策があった」とするのは「諸葛亮はおびき寄せられていた」とするよりも、
さらに可能性が低いと事を説明します。

大兵に寡兵をもって当たることを当初計画として含む作戦などは、当時から下策とされとります。
端的に言って、勝てんからです。
戦は数です。大兵を前にしては兵士の士気も奮わんのです。怖気づいて離散する事もあります。
歴史上における「寡兵をもって大軍を打ち破る戦い」も、
敗者にとって不意の遭遇戦となった為であるか、
交戦地点にさほど多くの兵士が居らんかったが為に起こった物です。

姜維が王経の軍を全滅させる事ができたのも、夏侯覇が249年に投降した事により、
涼州方面の新鮮な軍事情報、これを手中とした事が大きかろう、と考えます。
軍幹部の持つ情報は、士卒を捕らえて得られるものとは、当然ながら質、量ともに桁が違っとります。
また、姜維は水路を用いる創意工夫をしておりましたから、孔明の時よりも遥かに進軍速度は速く、
兵站構築も容易だった事でしょう。
川沿いの会戦で勝利を得ているように、河川を中心に優位な状態を作りやすかった事と思います。

魏延の述べるように潼関で大軍を待ち受けたとて、関の攻防戦となっては、兵站が勝敗を分けます。
無い無い尽くしの孔明の代では、姜維の時のように上手く行きはしないのです。
この事は諸葛亮も魏延に懇々と説明しているはずです。

蜀はお粗末な軍制ではあれども、軍規は徹底されており、兵は精強を謳われました。
浪漫に胸躍らせるような人物が軍の重鎮として座する事など出来るはずが無く、
目的は別にあったと考える方が近いと考えます。

> あと、本筋と関係ないけど~
段谷ではなく、狄道ですな。申し訳ない。

77:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/05 23:02:35
>>75
うーむ。
そもそも、「北伐を中止させたがっている魏延」というのが受け入れ難い。
誇り高く、自分の戦の才能を示したがっていた人間が、
北伐を中止させたいと考えるだろうか?

その魏延像は、説の蓋然性はともかくとして、一般にはうけないだろうね。

78:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/05 23:28:29
>>76
何も、魏延の策を必勝の作戦だった、なんて主張した覚えは無いよ。
俺は一貫して、魏延の作戦を高く評価していないから。

戦争とは、必ずしも必勝の態勢を以って始められるものではないよ。
「作戦計画は第一回会戦までしか立てられない」と言われるように、
戦闘の結果が戦略に与える影響は非常に大きく、それ以後の作戦は戦闘の結果に左右される。
そしてその戦闘も、必勝の態勢でなければ行わない、というわけでもない。
そりゃ、絶望的なまでに戦力差があるのに戦闘に踏み切る指揮官はまずいないが、
敵より数を集めなければ戦わない、なんて指揮官はただの臆病か、特殊な戦略状況下にあるのだろう。

魏延の場合、その作戦計画では、諸葛亮の到着まで、その戦闘すら行われない。
何せ、「守将が逃げるから長安が苦もなく手に入る」というものだから。
この前提はまずおかしいんだけど、魏延がそう考えていなかったと断定する事はできない。
「魏延がこんな作戦を本気で考えるわけ無い」とするよりも、史書に書いてある以上は考えていたとした方が良い。
既に述べたけど、魏延の得ていた情報と我々の持っている情報は別物なのだから、
魏延が、史実ほどの魏の迅速な対応を知っていたとも限らない。


あと、姜維は諸葛亮の時の2倍の距離を前進しているので、兵站は更に困難。
彼が隴西で行動できたのは、羌族の助けが非常に大きかったと考えられる。
254年は李簡の降伏による狄道の物資が、255年は前年の戦役の時に羌族の物資を用いて、
隴西に物資集積基地を設けた事が、彼の兵站を支えていた。

79:無名武将@お腹せっぷく
08/08/05 23:55:03
63殿は、もう少し史料の記述に拠った(寄った)方が良いのでは?
見てると、論の最初の起点こそ資料の記述によっているが
実際の結論として主張しているのは
「「記述を元にした推測」を元にした推測」になっておりますな。
仮説を持って仮説を立てても、余人の同意は得られないでしょう。

私の意見としては魏延が北伐の中止を狙ったというのは

正史本文の
延常謂亮為怯,嘆恨己才用之不盡
※魏延は常に諸葛亮を怯(臆病者)といい
己の才が用いられないのを恨みに思い嘆いた

の記述と明らかに矛盾しているので違うと思いますな。

恐らく63殿の主張する魏延は、史料に残された魏延ではなく
63殿の頭の中に住んでるMy魏延だと思いまする。

80:無名武将@お腹せっぷく
08/08/06 00:00:37
>>76
『漢晋春秋』の記述を信じるなら、第一次北伐の発動時点では
蜀軍の方が兵力的には多数だったんじゃないかな?

だから寡兵をもって大兵にあたるという前提そのものが不成立だと思うよ

81:63
08/08/06 01:50:36
ちょっとNHKを見とったので、夜更かしをしていたのだが…
>>78氏に誠意ある返答をしたかったのだが、気力を失ってしまった。

>>77
仮定を前提に語っているというのは、>>76で述べていることです。
一次資料が無いのだから、新説を打ち立てたい訳ではないというのも、述べとる通り。
しかし何というか、そこまで悪し様に言われてしまうようでは、もうこちらからは何も言えませんな。
不愉快な思いをさせてしまった事は申し訳なく、ROM専となる事にます。


82:81
08/08/06 01:51:38
失敬。

>>77
仮定を前提に~

以降は>>77氏に向けてのじゃなく、>>79へのレスです…疲れとるな。

83:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/06 02:17:17
言わばこのスレは魏延オタのスレなのだから、妄想だろうと何だろうと遠慮する必要は無いだろう。
妄想だと言っているのに無理に突っかかってくる奴は、
意地の悪い奴か空気の読めない奴に過ぎない。

まぁ、異な事を言えば、周囲が疑問を呈するのは当然だから、
そこで議論したければすれば良いし、したくなければ「ただの妄想だ」と言って話を終えれば良い。

言いたい事があるのにROM専でいる必要は無かろう。

84:無名武将@お腹せっぷく
08/08/06 09:02:18
悪し様というより、急に論旨がずれた上に
別勢力別時代を例にとって自説を補強したりするから
想像なのか本気なのか伝わらない
そりゃつっこまれる
逆につっこみをかわせるように修正すれば
魏延の考察のひとつとして面白いと思うけど

85:無名武将@お腹せっぷく
08/08/06 09:40:07
皆がしっかりと自説を展開できるのなら苦労しないと思うよ^^;
ま、ツッコまれた側もあまり深刻に受け取らずに頑張りましょうや。
知識を成長させるためには打たれ強さも必要ってことで^^

86:無名武将@お腹せっぷく
08/08/06 11:48:28
論戦の弱い奴がそれに応じるとろくな事にならない。
論旨とは関係ない所のほころびを突かれて自滅する好例。


87:無名武将@お腹せっぷく
08/08/06 12:13:49
自説は否定され、相手の説は強化される。これ以上間抜けな話も無い。

88:無名武将@お腹せっぷく
08/08/06 13:15:26
またこの流れか…

89:無名武将@お腹せっぷく
08/08/06 14:34:25
知識人の尻馬に乗り、一人を煽って追い払い、勝鬨を上げる。
何時頃からか、これが三戦住人のお家芸。

90:無名武将@お腹せっぷく
08/08/06 19:46:11
ほんと浅ましいこと

91:無名武将@お腹せっぷく
08/08/06 21:42:49
などなどの煽りをいれるのが三戦住人の・・・以下ry
それじゃ同じ穴の狢だよ
もっと良い流れに持っていこうぜ

92:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/06 22:03:41
なんだか妙な流れになっているが、俺が言いたいのは、
あまり気にしない方が良い、という事。

理不尽な叩きや煽りなら無視すれば良いし、反論や疑問を述べているのなら、
できる範囲で答えればいい。

>>79も、叩きとか言うよりは、反論しているだけで、
「My魏延」とか、多少相手がイラっとする言葉はあるものの誹謗中傷という程ではない。
あまり気にせず、適当に話す事だ。

93:無名武将@お腹せっぷく
08/08/06 22:33:19
イラッとさせる発言をした人間を、そうして庇う必要も無かんべ。
スルーして粛々とレス付ければ良いのさ。

94:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/06 23:21:26
庇うってか、議論してる時は、そういう言葉も出てくる事があるから気にするな、って事なんだけど。
まぁ、いつまでも続けたって仕方ないので、魏延の作戦に話を戻す。

実際、子午道の距離というのがよく分からないんだよね。
斜谷は西征賦の注には、470里すなわち200km弱だから、
沔陽から褒中までの約30km、五丈原から長安までの約120kmを加えて、
沔陽と長安では約350kmの道のりになる。

魏略にある魏延の案だと、これを諸葛亮の数万が30日弱で移動する事になっている。
斜谷を日に10km、その他を日に15kmで進めば30日で踏破する事はできる。
子午道の方も、恐らく、斜谷とそれほど大きく距離は変わらないだろうけど、
成固より東に沔水を下り、黄金谷を越えて安陽の近くまで行って、
そこから直水を遡るという道なので、山道の割合は大きく増える。
その点で、「10日以内に踏破する」という魏延の計画は難しいと思うんだよね。

95:無名武将@お腹せっぷく
08/08/06 23:36:14
走ってどうこうって話でもないだろうから、初めから輜重を置いて行く事が前提なのでは?

96:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/06 23:48:06
>>95
当然、輸送なんかしないだろうし、輸送車は随行させないだろう。

ただ、魏略にある糧五千が五千斛なら、一人当たり一斛の糧を背負う事になる。
これが大体17kgくらいだね。
生米だけ持ってっても食えないので、武装の他に釜とかも必要だから、
結局、全部合わせて2,30kgは背負う事になる。
それだけを背負って、日に40km近くを、10日間も続けて進めるか、って考えた場合、
相当難しいと思う。できたとしても、ろくに戦闘できる状態にはならないんじゃないかな?

97:無名武将@お腹せっぷく
08/08/06 23:57:16
通常の人間の歩行速度が大体5km/h
日に40kmという事は一日8時間を歩き詰め
しかも20kgの装備を背負って

こういう計算になるなら困難というより
不可能といった方が近いだろうね

98:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/07 00:16:42
>>97
俺も、個人的には不可能だと思う。

アレクサンドロス大王の話になるが、彼も、エクバタナからラガイまでの約300kmを、
僅か11日で踏破した事があった。
その時は、歩兵の多くは途中で落伍して置いていかれ、騎兵もまた、
馬が力尽きて倒れるなどして落伍していった。

これは魏延より距離も短く、日数も僅かだが長い。
それでこれだから、魏延がどうなるかは想像に難くない。

99:無名武将@お腹せっぷく
08/08/07 00:20:34
登山家なら可能なんだが…まさか蜀兵1万がそうした訓練を受けてるとは思えんしなぁ。


100:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/07 00:27:18
俺の場合は、この作戦は不可能だから提案した事に他の理由がある、と考えるよりは、
この話を伝えている魏略、すなわち、魚豢が、何処まで真実を伝えているのか、を考えた方が良いと思ってる。
三国志の本文には、1万で別働隊を指揮して潼関で落ち合う、としか書かれてない。
単純に、この本文の内容だけで考えた方が良いんじゃないかと思ってる。

101:無名武将@お腹せっぷく
08/08/07 00:28:56
そもそも無理ゲーだから、魏延が本当にそんな作戦を提唱したかどうか妖しい。
ってのもアリってことかな?

102:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/07 00:32:34
>>101
魏略の内容に関して言えば、俺は本来はそういうスタンスだね。
「別の道を通って潼関で落ち合う」という本文の内容は、
無理かどうかも分からないから、書いてある以上は、
そういう提案はした、とは思ってるけど。

103:無名武将@お腹せっぷく
08/08/07 00:53:31
「魚豢が妖しい」と言われれば、否定する材料は無いな。

104:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/07 01:02:26
魏略(典略)は、「内容が雑多で何でも載せようとする」という批判もあるようだしね。

ただまぁ、実際にその記述が間違ってるかあってるかなんて分からない。
どれだけ確からしいか、ってのは他の史料とつき合わせて求められるかもしれないけどね。
だから、この作戦が提案されたと考えるのも自由だし、
そこから何かを導き出そうというのも自由だろう。

要は、自分の考えが、周囲の人間にどれだけ受け入れられるか、って事だと思う。


ところで、真面目に魏延を名将と証明するには、どんな事をすれば良いんだろうか?

105:無名武将@お腹せっぷく
08/08/07 01:06:32
魏略って、魏延が諸葛亮に死後の軍を任せられてて、楊儀が陥れた、と言ってるんだね

106:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/07 01:21:12
言ってるね。裴松之君に完全に否定されてるけどね。

107:無名武将@お腹せっぷく
08/08/07 01:23:02
魏延と諸葛亮よりも柔軟な蒋エンのコンビは見て見たかったなぁ

108:無名武将@お腹せっぷく
08/08/07 01:29:32
>>107
ショウエンは柔軟には思えない
あんだけ総反対食らってやっと自分の策を取りやめる、強情者のイメージだ

109:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/07 02:07:39
蒋琬は頑固ってか、あまり考えを曲げない人ではあるかもね。
茂才にしろ益州刺史にしろ、固く辞退して、周囲がどれだけ薦めても結局考えを変えなかった。
茂才の時は、諸葛亮に諭されても尚受けなかったし。

110:無名武将@お腹せっぷく
08/08/07 05:15:19
しかし漢水を下って上庸を攻めるというのは
結構面白い作戦だと思う。

魏延と同じように、ショウエンも孔明の存命時から
毎回成果のあがらない北伐に苛ついてたんではないだろうか。

111:無名武将@お腹せっぷく
08/08/07 08:59:43
どうかな
上庸攻めは諸葛亮が上手くいかなかったのを見て考えた
とされてるし、結局反対にあって涼州主攻に切替えてるし
あまり成果はあがらなかったんじゃないかな?

112:無名武将@お腹せっぷく
08/08/07 10:33:21
どげんかせんといかん!
…という意識はここで論じられている人物が皆持っていたんだろうけど、
足並みは揃わない、人材は足りない、補給ライン確保は困難etc.…ではねぇ。
大変だわ。

113:無名武将@お腹せっぷく
08/08/07 21:21:25
迷将。謎将。

114:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/07 21:32:54
241年に呉が襄陽を攻めているから、それとタイミングを合わせる事ができれば、
結構な期間、敵の増援を気にしないで二郡(三郡)の攻略に傾注できるとは思う。

115:無名武将@お腹せっぷく
08/08/07 23:11:09
>>104
 >真面目に魏延を名将と証明するには、どんな事をすれば良いんだろうか?

無理ではないかと。すくなくともここでは。
真面目に議論しようとしても,むじんみたいな陰険釣師が妙な揚げ足取りで邪魔するし。


116:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/07 23:34:07
>>115
陰険釣師って…、蜀将スレの事が尾を引いてんのかい?

まぁ、ともかく、個人的には、どこでやろうと誰がいようと、
魏延を名将と胸を張って主張するに足るものを引き出すのは難しいように思う。

北伐の際に彼の提案した作戦、陽谿で呉懿と共に郭淮・費曜を破った事、
第四次北伐での働き(漢晋春秋)、蜀攻めでの働きとか、この辺りをどう考えるかだと思うんだけど、
これらから論拠を引き出すには、相当調べたり考えたりが必要だと思う。

117:無名武将@お腹せっぷく
08/08/07 23:36:08
>>104
劉備と諸葛亮に信頼された将なわけだから、「名将劉備・諸葛亮が見込んだ男」となればいい
つまり劉備と諸葛亮が名将であると証明すればよい

118:無名武将@お腹せっぷく
08/08/07 23:37:28
とても優秀な部隊長というイメージなんだよね。
気の合う優秀な副官がいればとてつもなく威力を発揮するみたいな。

119:無名武将@お腹せっぷく
08/08/07 23:38:14
>>116
尾を引いてるって,何を大した事じゃなかったみたいに言ってるの?
むじん自身,やばいことやったって自覚があるから自サイトのやばい書き込み即効削除したンでしょ。

120:無名武将@お腹せっぷく
08/08/07 23:43:08
とりあえず、むじんとやらが一部住民が本気で涙目になるほど釣り上げたことがあるのは良く分かった

121:無名武将@お腹せっぷく
08/08/07 23:47:31
釣り上げたという意味では確かにそう。
教えてクン的な書き込みにスレ住人が親切に説明してあげてるのに
妙な粘着質問を繰り返し,いい加減スレ内で真面目に相手するの馬鹿らしい雰囲気になったら
自分のサイトでスレ住人を馬鹿にして
それを批判されたら即効削除した,って話。

親切なスレ住人が可哀想だった。



122:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/07 23:49:49
>>117
そういうのも一つの手ではあるけど、多くの人に受け入れられるだろうか?
例えばハスドルバルやネイは名将に信頼されていたが、
彼らを名将と呼ぶに相応しいか否かは、評価の分かれるところだろう。

>>119
その削除した部分ってのを知らんのよね、俺は。
あの時の議論は見てたけど、魏延が有能だって事に疑問を呈してた方がむじんさんだって知ったのは、
スレでそれが明かされてからだから、今ブログに残ってる部分の記事しか知らない。

ってか、この話はスレと関係ないんで、あまり続けない方が良いと思う。

123:無名武将@お腹せっぷく
08/08/07 23:49:58
>>121
親切なスレ住人乙

124:無名武将@お腹せっぷく
08/08/07 23:53:36
>>122
 >この話はスレと関係ないんで、あまり続けない方が良いと思う。
貴方が「大した話じゃなかったじゃん」的な書き方をしているので説明したまで。
つか,当時の議論を見てて,そういう感想をもてるとは大した大人だね。

まぁ,続けるつもりはないので,この話はこれまで。



125:無名武将@お腹せっぷく
08/08/08 00:48:33
未だに引きずってる人が子供すぎるんだと思う

まぁ,続けるつもりはないので,この話はこれまで。

126:無名武将@お腹せっぷく
08/08/08 00:59:39
魏延は名将にはなれない勇将
敵味方を超えて信望厚くなければ名将とは呼ばれない
せめて恐怖でも強権でも陰謀でもいいんだけど
部下を統率できないと駄目だな
同僚にも人気が無さ過ぎる

127:無名武将@お腹せっぷく
08/08/08 01:21:46
>>126
確かに魏延は名将とは言えないと思う。
正史の記述からじゃ魏延の知略についても判断できないし。
(まぁ,蜀書からじゃ誰も判断できないけど)

いいとこ言って「忠臣」じゃないか?
出師の表の本気で実行しようと思えば,玉砕覚悟しかないのは明らかだし。
諸葛亮への「延常謂亮為怯」ってのも
出師の表でカッコいい事言っておいて,実際にはそんな気がないことを非難していたと考えれば納得もいくし。

蜀(劉備)を思うあまり諸葛亮の出師の表に感動して
本気で実現しようとして
諸葛亮初め諸将は誰も本気じゃないと知って
「嘆恨己才用之不盡」って感じでは。



128:無名武将@お腹せっぷく
08/08/08 04:12:08
>>127
事の是非はともかく
魏延がそう思っていたのは間違いではないかもしれんな
でも正史を普通に読めば
自分の積極策を取らない事への憤り、不満だな
つまり我侭だ
普通は不敬罪だが、諸葛亮は不問としてるぐらいだから
随分とかわいがられてるのはわかる

129:無名武将@お腹せっぷく
08/08/08 16:07:59
五虎大将亡き今、俺がやらんで誰がやる!ってな自負が裏目に出たかな?

130:無名武将@お腹せっぷく
08/08/08 18:04:53
魏延は今でいうちょっとKYだったということね
自分の最大の後見人が不満をぶちまける相手の諸葛亮であって、
これがいなくなるとみんなにハブられちゃう事が読めなかったと

131:無名武将@お腹せっぷく
08/08/08 18:12:49
KYを排除していった結果が、滅亡だよ!

132:無名武将@お腹せっぷく
08/08/08 18:57:25
排除されたKYって楊義?

133:無名武将@お腹せっぷく
08/08/08 19:20:14
楊義はKYというよりスネ夫な感じ
チクリ魔かつ、上司の虎の威を借り、自分の実力と勘違いして排除された印象がある

俺としては一番KYだったの姜維な気がするなぁ
KYを排除しなくても滅亡ですぜ!


134:無名武将@お腹せっぷく
08/08/08 19:38:40
楊儀はスネ夫というより……かな。
偉大なる丞相閣下の片腕であった事から、自分が一番諸葛亮を理解していると勘違いしていた。
権限も無いのに「遺臣は自分が率いるものだ」と思い込み、そのように行動した。
当然のように上官達から総スカンを食らうのだが、何でそうなったのかを理解しない。
パワーゲームに敗れ、閑職に追いやられてもなお、自分は嵌められたと不平不満をもらすばかり。
挙句の果てには謀叛を口にし、舌禍から処刑。

魏延以上に誇大妄想家で、魏延以上に思い込みが激しく、魏延以上に偏執病。

135:無名武将@お腹せっぷく
08/08/08 20:23:38
最後の一行が何より雄弁に心情を物語っているな
そんなに楊儀が嫌いかw

136:134
08/08/08 20:28:51
>>135
うむ。
魏延に謀叛の嫌疑をかけておきながら、イザ自分がその立場になると、
「謀叛しておけばよかった。後悔先に立たずとはこのことだ」
とか無茶苦茶やん。

137:無名武将@お腹せっぷく
08/08/08 23:40:26
嫌疑というより魏延は実際にやってるけどな

138:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 01:15:51
魏略の諸葛亮死後の件は、松の字は否定しているが、少し真剣に検討する余地のある内容じゃないかと俺は思うんだがな
それを抜きにしても、ショウエンが次席に入った流れはどうも胡散臭さを感じて仕方ない

139:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 01:32:58
兵権のある魏延、兵権のない楊儀。
組しやすいのはどちらか?
といわれれば、後者だよな。

>>137
陳寿も松の字も否定してると思うが。

140:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 03:38:29
魏延の性格が性格なので、魏延が暴発したで皆納得してしまうんだが、検討してみる余地は確かにありそうだよな
あの辺りは色んな要素が絡んでいて、色々な可能性があるように思う

141:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 09:13:53
>>137
いまだにこんな馬鹿いるんだ。

後主伝嫁
ありゃ政争だ。



142:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 09:22:14
魏延の献策を趙雲はどう評価していたのだろうか?

143:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 09:57:59
>>140
なんか妙な世論誘導しようとしているのがいるな。
漢中を10年も専守した律儀者が暴発するなんてのには皆納得しないよ。
正史をしらない人間か,孔明オタくらいだろ。

正史を普通に読めば,魏延は慎重策の孔明の態度に不満は見せても,命令に逆らったことはないのが判る。
謀反なんて話も,魏延と敵対した楊儀や王平らの伝にしかないしな。

何を検討したいんだ?

144:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 10:04:34
横山版の趙雲は魏延にはタメ口。仲がよかったのか。

145:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 10:25:05
>>142
何で趙雲が出てくるのか知らんが献策したころにはもう死んでんじゃねえの?

146:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 10:35:54
>>143
つまり、仮説として
諸葛亮死後に楊儀、王平、ヒイ、ショウエンらによる暫定トップの魏延下ろしの陰謀があって、更にそのグループ内で楊儀潰しが行われた、
という凄く陰湿な政争の可能性を考える
魏延が咲きにやりました、魏延と楊儀が悪いんです、と二人に責任を被せられるのが他の者には大変都合がよかったように見えるんだよな

147:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 10:53:08
そして李厳は
「諸葛亮が死ぬ前に釈放してくれないと後釜の奴らが釈放してくれるはずがない」
とガックリ



関係ないが短文も読めない>>143は頭悪いだろ

148:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 12:21:54
魏延ヲタの嫌われる原因を見たな
魏延は悲劇の主人公ってバイアスが掛かりすぎてる

兵乱を起こしたのもそれを鎮圧されたのも事実
その原因が政争であれ、何であれな

149:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 12:32:41
>>148
俺はショウエン、ヒイが胡散臭く感じるだけでそんな魏延ヲタってつもりはないけどな

150:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 13:09:39
>>148
俺も魏延を擁護しようとはあんまり思ってない
ただ、孔明の遺言聞いた奴らの行動の胡散臭さは結構なものだとは思ってる
この辺りはあまり検討されていない所だから考えてみるのも面白いかもね、くらいのつもり

151:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 14:54:46
>>148
コーエーバイアス懸かりすぎじゃねぇか?
兵権持たない楊儀が勝手に兵を動かしたから
節持ちの魏延が鎮圧しようとしただけだろ。
成都に信じて貰えなかったのは笑えるがな。




152:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 16:37:06
>>149-150
いやあんたらにじゃない
一人だけ突っ切った馬鹿が居るでしょ

>>151
節は兵権じゃねぇw
第一、もし魏延の方が正当な指揮権を持ってたなら
なんで諸将が"全て"楊儀側に付いたんだよ
そんなに徹底的に魏延は嫌われ者だったのか?

153:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 17:28:22
>>152
兵権持たずに勝手に兵を動かした者を罰するのを節持ちがやらんでどうするよ。

諸将が全て楊儀についたとは初耳だけど?
成都が誤判断したために逃げ散った諸将の名は伝わって無いけどな。

ちゃんと正史読んでるか?


154:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 17:37:29
>>145
第一次北伐の頃なら趙雲生きてたんじゃね?

155:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 18:03:43
魏延の最期って大まかに言えば、

楊儀が「コーメー遺言で国帰るぞ!」
と、諸将を統制して撤退。

魏延が「てめえの言うこと聞くかボケ!」
と、楊儀と対陣

王平が「何がやりたいんだ!コーメーが死んだばかりで!何がやりたいんだ!なあ?」
と、一喝すると魏延の兵は塵じりに

魏延が「覚えてろよ!」
と、ベタな事言って(塵じりになった兵に紛れたのか?)逃亡。馬岱に追いつかれてキルされる。

楊儀が「先の遺恨覚えたか!」
と、魏延さんの首を踏みつぶす。

(中略)

楊儀自殺


こんな流れだっけ?

156:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 19:39:05
>>155
大事な事柄を省いてる意図は判らないが
書いてあることの時系列は合ってる。


157:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 19:51:47
軍法違反という点では明らかに楊儀が黒なんだが、
他が何で楊儀に従ったのかが分からんのでサッパリだ。

>>155
1:孔明死亡
2:枕元遺言?(?を付けたのは、魏延伝以外にはその記述が無いため)を知らされたのは、
  楊儀、費イ、姜維(この中では楊儀が最も位が高い)。
  魏延が殿となるよう指示を出し、従わなければ置いて行くように、とも。
  指名された後継者はショウエンだが、諸葛亮は楊儀にそれを秘していた←ここポイント。
3:楊儀が費イを派遣し、魏延に“自分の命令に従うかどうか”の意思確認をさせる。
  魏延ブチ切れ、楊儀に従う事を拒否する。
4:費イ、魏延を騙して楊儀の元に逃げ帰る。魏延は慌てて費イを追いかけさせるが、間に合わず。
5:費イは魏延の反意を楊儀にチクり、楊儀は魏延を置いて出発する。
6:魏延、楊儀の行動を妨害しようと、先回りして橋を落す。
7:楊儀と魏延、互いに相手を誹謗中傷する上奏文を出し、董允とショウエンは楊儀に組する。
8:魏延、さらに直接的な妨害にで、先回りして陣を敷く。
9:王平、ぶち切れて魏延を「お前は何をやっているんだ」と一活。一戦して魏延を打ち破る。
10:馬岱が追撃をかけ、魏延を斬る。
11:楊儀、魏延の首を踏みつけ、罵る。魏延の三族は皆殺しにされる。
12:後継者はショウエン、楊儀は閑職に追いやられるm9(^Д^)プギャーーーッ
13:楊儀、慰問に訪れた費イに「丞相が死んだ時に謀叛すればよかった。後の祭りだ」と言う。
14:費イ、後主にちくり、楊儀左遷される。
15:何を思ったのか、楊儀はお上を誹謗中傷する上奏文を書き、逮捕されて獄中死。

158:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 19:58:51
>>153
すげえ吹いたw
どんだけ魏延に都合が良い解釈してんだよ

だから節にそんな権限はねぇってw
お前「節」の意味分かってるか?

お前正史読んだことないだろ?
楊儀の撤退が孔明の指示だった事も、諸将がそれに賛同し従ったことも
諸将が魏延の指示はシカトこいて従わなかったのも、
全て本伝に記載があるが?w



159:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 20:07:33
>>157
そもそも楊儀が撤退を指揮したのを軍法違反と考えるからおかしくなる
北伐はあくまで丞相府の主導でやってるから、
孔明が死んでも幕外の魏延が繰り上がり当選で指揮官にはならない←ここポイント
だから諸将が丞相府の参謀連中が"連名"で布告した命令に従うのは当然

だからあの時点で魏延の指令は単なる我が儘で、行動は兵乱とされてしまうわけ
一旦帰国してから手順を踏んで軍権を掌握すれば、みんな魏延に従ったろうにね
タイミングが悪かった事もあるがその辺が読めてないのがKYだね

160:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 20:12:48
>>159
普通なら単なる尚書(令ではない)の楊儀じゃなくて、率いるべきは姜維または魏延じゃねぇの?
魏延が命令を聞かないかもしれないから、と彼を外した事が、孔明の第一の間違い。
後継者をショウエンと表明しておかなかった事が第二の間違い。
撤退の際に「誰が率いるか」を記しておかなかった事が第三の間違い。

だから、楊儀が勘違いして増長し、魏延が反発したのだと思うが。

161:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 20:17:12
しかし、この一件に関する費イの行動に関しては、弁護しようもないな。

162:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 20:24:24
結局確実なのは
蜀最強のツッコミ担当の王平が
また男を上げたということ

163:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 20:42:45
>>160
この場合、位階は関係ないんだよ
丞相府の参謀(これ便宜的表現ね)が”連名”で”孔明の指示”を布告してんだから
またこの時の魏延は将軍としての位階が高くても
丞相府内での指揮権限は与えられてないから北伐作戦が終了するまでは
指揮官に”推戴”される可能性はあっても勝手に魏延が指揮官になる事はない。

また張コウの時みたいに楊儀らが魏延を推戴したなら話は別だけど
今回はみんながシカトしちゃったからNG
まあ、突発的な事態じゃなく”表向き”前指揮官の指示があるわけだから
それに背いた命令に諸将が同意しないのは当然なんだけど。

だから一旦帰国してから再度北伐を行った場合は
魏延が総大将になる可能性もあったのに残念だね

実際に自分も楊儀や費イ連中に黒いとこはあるんで、
考察の余地有りというのは大いに同意

でも魏延が兵乱を起したのは事実だし、まるでなんの罪もない魏延が
無理矢理謀殺されたとでも言う主張は魏延びいきのバイアスが過ぎるな

164:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/09 20:50:38
>>160
細かい事だが、楊儀は領丞相長史・綏軍将軍だから、尚書じゃないよ。
あと、この時の姜維は行護軍・征南将軍だから、そこまで位階は高くない。
丞相府内で見ても、それ以外で見ても、鄧芝とか費禕のが上だね。

165:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 20:50:58
>>160
ちなみに撤退時に楊儀は長史、費イは司馬、姜維は護軍だから
この三人が結託したら他の諸将は従うしかなかったというのもある。

166:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 21:18:28
>>163>>164>>165
言いたい事が有るのは分かるんだが、立て続けてこられてもなぁ。
で、全面的に同意するしかない。
楊儀伝の「自らは尚書であり、費イは尚書朗であったことから」という記述だけだと、
不正確だったのね。

楊儀と費イが何をやったか?までは記述に無いのでどーしょーもないっすね。
費イはその後の行動を見ると、楊儀に対しても義理立てしてないように思えるが。

167:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 21:21:57
なんでおまえらの口調ってこんなに気持ち悪いの?

168:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 21:23:54
形は違えど、魏延をこよなく愛するキモオタだからさ。
オタが熱く語るとキモイだろ?それと同じ事さ。
だから、キモイと思うなら、目に触れないようにそっと立ち去るんだ。

169:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 21:31:11
口調が気持ち悪いって言ってる
熱く語るとかそういうのは関係ない

170:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 21:34:28
個性

171:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/09 21:35:04
>>166
それは、蒋琬が楊儀より出世した時、それを不満に思った楊儀について述べた文だね。
劉備の時代に、楊儀は尚書、蒋琬はその下の尚書郎だったってやつ。

楊儀伝を最初から読んでいけば分かるけど、楊儀は尚書令の劉巴と不仲になって、
弘農太守(遙任)に左遷された後、諸葛亮が幕府を開くとその参軍に辟召され、
その後に長史に遷り、綏軍将軍を加えられてる。

172:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 21:36:32
>>171
thx。もう少し注意深く読み進めていくべきだった。

173:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 21:40:45
>>166
自分は費イは絶対確信犯だったと思う
魏延の時も楊儀の時も

恐らく毎回、毎回いざこざ起されちゃ仲介役で間に挟まれて
実は二人の事大嫌いだったんじゃないかな?

だから、この際、魏延を暴発させて楊儀に始末させ
その後にスッパリ楊儀を切り捨てたと

174:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 21:55:14
「確信犯」 (呵責などなく)正しいと信じて(結果として犯罪を)行う事



175:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 21:57:24
>>173
でも、陳寿の評だと「費イは寛容で、人を分け隔てなく愛した」なんだよなぁ。
陳震が蜀臣全ての評を残していてくれれば、事欠かずにすんだのにねw


176:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 22:00:30
>>175
>>蜀臣全ての評

そこで季漢輔臣賛なんじゃないの?


177:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 22:03:43
裴注に引く魏略では諸葛亮の異名を受けたのは実は魏延のほうであり
これを怖れた楊儀が、魏延が魏に奔ろうとしているとでっちあげたとの異説があるな


178:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 22:05:09
×異名

○遺命

間違えた上にあげてしまった

179:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 22:08:45
無責任な異説としては面白いんだけど
さすがに苦しいよね。何故わざわざ魏延にだけ遺命を伝えたのか、
そしてどうしてみな疑いも無く楊儀に従ったのか、という点で。



180:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 22:17:09
>>175
聖人でもなけりゃあらゆる人間を愛すとはいかないんじゃない?w

>>179
松の字も否定してるように
ちょっと苦しすぎるよね

181:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 22:17:51
魏略に関しては、記述を引いた裴松之自身が否定してるんだよな。

>>176
残念ながら季漢輔臣賛には費イの賛はない。
あればまた、費イという人物に与えた、同時代人物の評が増えたのに。

>>180
褒めすぎという事かw

182:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 22:19:16
魏延が諸葛亮に対して不満をもってたから
誰も魏延に諸葛亮から遺命を受けたといっても信じてはもらえないってのはどう?

183:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 22:49:13
どう、っていわれても。
勿論、そういうような「ありき」で考えれば
いくらでも出てくるとは思うよ。
でも普通に考えると説得力に欠ける、それだけのことだよ。

184:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 23:03:17
魏延の性質と周囲の反応に関する記事として魏延伝に、性矜高 當時皆避下之
とあるくらいだから、誰しも魏延の勇猛さと軍事的才幹は認めていても
まともにつきあえる型の人間とは思っていなかったんじゃないかな

この手の性質の人間は不必要に敵を作りやすいうえ、利害損得が絡む状況が
生じたときは見限られやすいだろうし

185:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 23:12:24
石田三成みたいなタイプか

186:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 23:18:48
>>184
もう一つ、諸葛亮が魏延に後を任せたかどうかに関係なく、諸将が従わなかった理由の一つが、楊儀が言った「庸奴」という言葉に集約されてると思う
劉巴と張飛のエピソードにも見えるように、荊州の名士として鳴らした連中の「兵子」への差別感情は相当なものがあったようだ
彼ら荊州名士連は、自分たちの同類か、さもなくば諸葛亮のような他地方の名士にでもなければ風下には立たないんだろう

劉備や姜維は他地方の名士に該当するが、魏延は彼らから見れば同郷であっても「兵子」
どっちに正当性があろうが、どっちが有能だろうが、従いたくはないんだろうな

187:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 23:28:28
楊儀が魏延の首を踏みつけ罵ったぐらいだから兵子として常々馬鹿にしてたんだろうな

188:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 23:32:12
そう思うと、諸葛亮は魏延をかなり優遇していたんだと思う
当時の「兵子」相手としてはね

189:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 23:41:04
魏延が楊儀を嫌ったのもそういう露骨な差別とかもあったんだろうね

190:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 23:45:16
>>143
なんで諸葛亮オタが引き合いに

191:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 23:45:27
そうだとすると諸葛亮が死んだ時点で魏延の行末も見えてたって事か

192:無名武将@お腹せっぷく
08/08/09 23:52:02
>>189
踊る大捜査線の現場と会議室、あるいは湾岸署と本庁みたいな関係だったと思う
階級だけなら年齢や功績のあるノンキャリの方が上でも、実際には本庁から送り込まれてくる若手が指揮を執り、署長でさえもぺこぺこしている
キャリア組の方は署の人間を高卒や三流大卒のブルーカラーと蔑んでるし、署のノンキャリはキャリア組に反発したり頭でっかちと批判したりする

そんな関係の中では、魏延=青島にとって諸葛亮は室井のようなとてつもなく理解あるキャリア

193:無名武将@お腹せっぷく
08/08/10 00:04:37
劉備「あのー、ね、今回の曹操追撃なんだけどさ、孫呉さんのほう、根回しできてんの?ん?」
関羽「はっ、そのあたりは、張飛くんにすっかり一任してございます」
張飛「え?それは関兄がやるってハナシじゃござぁせんで?」
関羽「何を言っておるんだねキミは。私は、先方とは恩義があるから、その辺理解してくれたまえよ」
劉備「えー、まぁいいからさ、とにかくやっといて頂戴よー困るよー」
関羽「そういうことだから」
張飛「これだもんなぁー」


194:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/10 00:08:19
魏延の出自がどうのって以前に、使持節って時点で優遇の度が過ぎてる感はある。
使持節なんて、諸葛亮以外では、諸葛亮の死に際して印綬を贈る役を仰せつかった杜瓊(多分臨時)、
ライ降都督の李恢、そして魏延の三人しかいない。

杜瓊の場合は役目の重大さから、李恢の場合は不穏な南中を制する為、と分かるが、
魏延が使持節である必要性が俺には分からない。

195:無名武将@お腹せっぷく
08/08/10 00:26:50
逆にというか比較対象として妥当かはわからないが、仮節ですらないという趙雲…

196:無名武将@お腹せっぷく
08/08/10 00:28:15
魏延は仮節じゃなかった?

197:無名武将@お腹せっぷく
08/08/10 00:34:26
諸葛亮も仮節じゃない?
あと李厳が仮節を与えられてる

198:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/10 00:42:29
>>195
仮節もそんなにはいないからねぇ。
関羽、張飛、馬超、李厳、呉懿、呉班、蒋琬、費禕、姜維、張翼、廖化、胡済くらいか?
華陽国志見ればもうちょいいるかもしれんけど。

>>196-197
後主伝と穆皇后伝に諸葛亮の、李厳伝の注に引く李厳弾劾の上表に魏延の事がそれぞれ載ってる。
諸葛亮の方は、ケースとしては杜瓊と同じだけど、
その後に魏延が使持節を貰ってるのに、諸葛亮が仮節ってのは変だから、使持節のままだろう。

199:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/10 00:43:51
そういや、鄧芝も仮節だったわ。

200:無名武将@お腹せっぷく
08/08/10 00:50:40
劉備死後、魏延が破格の待遇を受けるに到った所以となる功績。
魏延伝には、それに類する記述は見当たらないな。
確かにイミフ

201:無名武将@お腹せっぷく
08/08/10 00:59:21
諸葛亮のは本伝の、しかも二箇所の記載だから可能性は高いけど
魏延のは仮節の間違いなんじゃないかな?
その前年に郭淮撃破で昇進して仮節を受けたばかりで
第四次の軍功といっても、李厳の弾劾は帰国後すぐのはずだし
どう考えても使持節になる時間も要因もないと思う


202:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/10 01:17:18
>>201
確かに間違ってるって可能性もあると思うよ。
正史の本文ですら、姜維の中監軍・征西将軍のように、
就任していないと思われる官が書かれているし。

仮にどちらかの記載が間違っているとして、どっちが間違ってると思うか問われれば、
不自然な使持節の方と答えはするね。

203:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/11 00:07:14
そもそも、蜀における使持節、持節、仮節が何を意味するものなのかが分からない。
宋書百官志に拠れば、晋の世における使持節、持節、仮節はそれぞれ、
二千石以下、無位無官、軍令違反者を処刑する権限となっている。
同様の内容が、晋書や通典にもあるが、恐らくは宋書をもとにしているのだろう。
晋の都督制が魏の都督制をおおよそ踏襲しているとすれば、
魏の節についても、この晋のものとほぼ同様だろう。

しかし蜀までもがそれに則っていたかは分からない。
漢書や後漢書からは、節の権限についての記述を今の所見つけられない。
ただし、詔勅を奉じ、皇帝の使者としての役目を仰せつかった者は、
基本的に使持節、少なくとも持節として任務についている。

蜀書においては、注釈の李厳弾劾の上表と李恢伝の記述を除き、
使持節は全てそういったケース。
これらを誤記としてしまえば、蜀における司令官は仮節のみとする事もできるが、
魏延の例はともかく、李恢の方は積極的に否定する根拠に乏しい。

この辺りを明快にする考え方は無いのだろうか?

204:無名武将@お腹せっぷく
08/08/11 00:11:25
>>203
そもそも蜀では区別していなかった可能性を否定できない
使持節は「使いして節を持つ」、持節は「節を持つ」、仮節は「節を仮す」
状態の違いを表している語だが、権限や階級が違うという確かな証拠は無いんじゃないか
魏晋以降で区別されているのは確かなんだが、漢制を基本としている蜀で晋のような区別があったという証拠は無いと思う

205:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/11 00:20:31
>>204
確かにそういった考えでいる方がいいのかもしれない。
仮されているか、持しているかはともかく、
節を手元に有して皇帝の権限を分与されている状態にあるかどうかの方が重要なのかもしれない。

やはり、蜀における節を考えるには、後漢や前漢における節の意義を考えなければなさそうだ。

206:無名武将@お腹せっぷく
08/08/11 00:25:51
>>205
そいつについては漢書諸葛豊伝に面白い例がある
諸葛豊は弾劾相手に自分が持っていた節を掲げて「詔」を出しているんだ
つまり節の元に下す命令は皇帝の命令そのものなんだ
少なくとも当時はね

207:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/11 00:30:07
>>206
ありがとう。確認した。
「豊駐車挙節詔章曰」ってのだね。

持節や使持節なら、ある程度調べられる範囲だが、節が出てくる文章となると量が多く、
まともに漢文の読めない身には調査し難いので、こういう話は助かる。

208:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/11 00:46:30
そういや、例え魏延が使持節でなくとも、諸葛亮の時代に節を仮されたのは李厳と魏延だけなので、
やはり魏延に対する厚遇は他の追随を許してないと思う。
劉琰なんかは位階だけだし、実が伴ってるという点では李厳に次ぐ厚遇じゃないか?

性格と能力だけで、そこまで配慮するものだろうか?

209:無名武将@お腹せっぷく
08/08/11 03:42:09
どうもよく分からんな。
仮に、諸葛亮の漢中幕府が、政治的には中央に対して優越し、既に半独立状態だったとする。
でもって、中央の李厳に対抗する軍権を持つ将軍を欲し、そこに宛がわれたのが魏延というオチだったら笑う。

210:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/11 21:43:12
>>209
魏延厚遇の理由は、推測するしかないからねぇ。
李厳も魏延も、誇り高く能力もある、という点では一致してるね。

上下皆が李厳に対する厚遇を怪しんでいた、という諸葛亮の話もあるし、
魏延が孤立したのに、この魏延に対する厚遇も影響してたのかもしれん。

211:無名武将@お腹せっぷく
08/08/11 21:52:54
>>209
逆の可能性の方があるんじゃないか
つまり独裁権者諸葛亮を抑える意味合いで、匹敵する地位と権限を劉禅の成都政府側が魏延に与えた、と
そうなると、魏延と楊儀の軋轢と争いも諸葛亮シンパと成都政府側の代理戦争のようなものだったことになる
(そして諸葛亮側が勝利し、ずっと自派から最高権力者を輩出することとなった)

212:無名武将@お腹せっぷく
08/08/11 23:18:02
三戦に考察スレなど不要じゃ

213:無名武将@お腹せっぷく
08/08/11 23:21:40
荒らすな

214:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/12 00:06:19
李邈が獄に下され処刑された逸話を見るに、劉禅自体は諸葛亮の独裁を危険視してなかった。
仮に諸葛亮を掣肘する為の存在として魏延が選ばれたとしたら、一体黒幕は誰なんだろうか?

そういった存在によって、諸葛亮の意に沿わないまま魏延が出世したなら、
諸葛亮に匹敵とは言わないまでも、相当な影響力を有さなければならないように思える。
なかなか難しいものだ。

215:無名武将@お腹せっぷく
08/08/12 00:08:02
荊州閥と益州閥の争い?

216:無名武将@お腹せっぷく
08/08/12 00:14:07
>>214
いや、それは楊儀、ヒイらの諸葛亮チルドレンが勝利し、劉禅側が送り込んだ魏延が死亡したことを受けてのこととも解釈できないこともない
危険視していないのではなく、今なお危険だから口をつぐむしかなかったということだ

>>215
多分そこまで単純化は出来ない
魏延も荊州人ではあるし

217:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/12 00:15:12
荊州閥対益州閥、のような単純な構造に落とし込む前に、
色々と考えていった方がいいとは思う。

218:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/12 00:26:03
>>216
諸葛亮に対立する存在が劉禅、というのは主張するのが難しいのではないだろうか?
単純な記述を、あまりに複雑に解釈してしまうのも気が引けるものだし。

こういう独裁者に対抗する手段としては、宦官や外戚を使ったりするものとすれば、
張飛の一族や呉懿の一族の方が、魏延よりも諸葛亮に対抗しやすいように思える。

よく分からんなぁ。
諸葛亮が、こういう理由で魏延を厚遇した、と実際に述べてくれれば良いんだが。

219:無名武将@お腹せっぷく
08/08/12 01:00:36
案外、諸葛亮は魏延ラヴなとこがあったのかもね。
実際に魏延の勇猛さを頼りにしてたという記述は残ってるわけだし、
他に武官で諸葛亮が能力を大きく評価したのって李厳と姜維、王平くらいじゃない?

220:無名武将@お腹せっぷく
08/08/12 07:35:28
>>216
それだと魏延を失脚させようとする動きに
諸葛亮が庇ってやる理由が無いないな

221:無名武将@お腹せっぷく
08/08/12 09:06:33
そもそも諸葛亮の対抗馬が魏延じゃ力量不足も良いとこだね
使うなら李厳の方でしょ
地位・名声・実力ともに李厳を抜かして他ってのは考えられない

222:無名武将@お腹せっぷく
08/08/12 09:08:17
法正が生きていれば…

223:無名武将@お腹せっぷく
08/08/12 09:45:41
妙な荒らしが寄りつくからageるな

224:無名武将@お腹せっぷく
08/08/12 10:25:12
そもそも外戚なのに呉一族が立伝されてないってのも不自然たぁ不自然だな。

225:無名武将@お腹せっぷく
08/08/12 10:50:42
そう?
魏だって、例えば甄氏の一族は「文昭甄皇后伝」などで記されてるし。
蜀で呉懿(壱)や呉班が「穆皇后伝」などの記載でまかなわれているのは、
バランス的にはおかしくないんじゃないかな。

226:無名武将@お腹せっぷく
08/08/12 11:23:03
魏延は諸葛亮が死んだから居場所がなくなったでFA?

227:無名武将@お腹せっぷく
08/08/12 14:15:38
>>225
単なる外戚じゃなくて軍の重鎮だし…

228:無名武将@お腹せっぷく
08/08/12 14:31:29
もちろんそれはわかってる。
ただ、陳寿のまとめ方のパターンとして、
単純に考えた方が良いのかな、とも思う。

229:無名武将@お腹せっぷく
08/08/12 14:53:16
陳の字が「オイラ的にはあまり重要じゃないネ」と判断しただけだったりしてw

230:無名武将@お腹せっぷく
08/08/12 16:10:11
孫堅の嫁さんの弟呉景も軍の重鎮だけど立伝されてないよ。

231:無名武将@お腹せっぷく
08/08/12 19:38:44
>>226
そうだね
能力というより人格的な問題で

232:無名武将@お腹せっぷく
08/08/12 20:56:38
魏延の位階が極端に高かったのは諸葛亮が宥めるためだったんじゃない?
作戦は採用出来ないけど不満をぶちまけて不和を大きくされても困る
でも人材として前線から引き抜くのも惜しいし、やる気をなくされても困る

それで実権は与えないけど名誉を与えて自尊心を満足させてやり
いわば飼い殺しにしたと考えればどうだろう?

233:無名武将@お腹せっぷく
08/08/12 21:20:55
そういう方向性の考えかたはありだけど、
飼い殺しというにはさすがにどうかな。
むしろ充分に活用していると思うんだが。
アレ以上はもはや専断権を与えるしかなくなる。

234:無名武将@お腹せっぷく
08/08/12 21:30:04
そうれもそうか
じゃあ飼い殺しは撤回
どちらにしろ魏延のゴネ得という事で
毎回ゴネてたらしいし

235:無名武将@お腹せっぷく
08/08/12 21:34:32
なんか急に魏延がツンデレキャラに思えて来たw
文句は言うけど命令には忠実だし
「あんたがしっかりしないからアタシまで迷惑してんだからね!」とか
「任務だから仕方なくで、別にあんたの為に戦ってるんじゃないんだからね!」

ダメだ俺w逝ってくる

236:無名武将@お腹せっぷく
08/08/12 21:42:02
そのあたりを物凄く好意的に見るならば
張昭や程昱のように組織のためにあえて直言を恐れず、
といったところだろうか。


237:無名武将@お腹せっぷく
08/08/12 22:55:20
「直言を恐れず」と「個人的不満を漏らす」を同一視したら
流石に張昭とかが怒るんじゃないかな?

238:無名武将@お腹せっぷく
08/08/12 23:14:46
うん。だから物凄く好意的に、という話ね。
さすがに「怯」とは言わないもんね。

「拙者は先帝の恩顧に報いんとウンヌン!」
と血の涙流すくらいでないとなぁ。



239:無名武将@お腹せっぷく
08/08/13 19:22:34
魏延は名将だという結論に達したな

240:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/13 23:29:53
確かに諸葛亮は魏延を厚遇したと言って良いと思う。
だが、よく考えてみよう。
劉禅が即位する以前から、魏延は鎮北将軍だった。
この上には四方将軍、四征、四鎮大将軍、鎮軍大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、大将軍だけ。

郭淮らを破った後、呉懿と共に昇進したが、その時、
魏延が征西大将軍、呉懿が左将軍で、将軍位では魏延が上になっているが、
そもそも呉懿は討逆将軍なので、討逆→左将軍と見れば、
出世の度合いは鎮北→征西大将軍の魏延より上なのではないだろうか?

魏延が諸葛亮麾下で第一位の将軍に納まったのは、劉備の代でほぼ決まってた事なのではないだろうか?

真に重要なのは将軍位ではなく、やはり節を仮された事だと思う。

241:無名武将@お腹せっぷく
08/08/13 23:53:03
>>240
うん、劉備時代、関・張の後釜となる人物として劉備は諸葛亮と魏延を選んでいたんじゃないか、と言えるかもしれない
その二人に割り込んだ形なのが李厳だが、李厳は先に失脚し、結局実質NO2は魏延のままで変わらない
官位やその背景としてある経緯からは、諸葛亮死後は魏延が蜀を背負って立つようになってしかるべきな訳だ
しかし実際には(事実かどうかはともかく)諸葛亮死後の撤退の指揮は楊儀が行ったとされ、後継者にはショウエンを大抜擢していたとされている
ここで重要なのは、この順番を信じれば魏延が殺される前から魏延外しが行われていたということ
劉備が敷いていたレールはここで荊州閥が敷いたレールに切り替えられたということになる

242:無名武将@お腹せっぷく
08/08/13 23:58:12
諸葛亮の魏延に対する厚遇は、魏延が生前劉備から信任が厚く、
生き残った最後の「劉備派」有力者ということもあったのかねぇ。
魏延がある種、かつての劉備集団を象徴する存在になっていたとか。

諸葛亮と魏延の間には先主劉備という共通の核が存在したが
諸葛亮チルドレンには諸葛亮という核しか存在しなかったのか
とかセンチメンタルな想像をしてみたり。

243:無名武将@お腹せっぷく
08/08/14 00:11:12
>>242
松っちゃんが力いっぱい否定してたあの魏略の記事って、つまり敵国から見たら、
「劉備から特に目を掛けられていた魏延が同行していたんだから、諸葛亮死後の指揮は魏延がするのが当然だろうJK」と感じる、
ということだと思うんだよね

しかし実際には諸葛亮チルドレンが(魏延がいたにも関わらず)魏延の代わりを務め、魏延死後は呉壱ら官位・軍歴で明らかに上位にいる者を押しのけてチルドレンが最高権力者の地位を寡占した
内外誰から見ても楊儀・ショウエン・ヒイらの動きは相当怪しく見えたと思うんだよな

244:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/14 00:17:49
>>241
荊州閥という話には、俺自身は懐疑的な見方をやめてないので、
その劉備から荊州閥へ、という話には、議論の余地があると思う。
ただ、劉備の魏延に対する期待は本物だろう。

魏延が鎮北将軍になった時、車騎に張飛、驃騎に馬超がいたが、
四方の名は見られず、恐らく空位だった事を考えれば、将軍としてはそれに次する形になる。
四鎮の名も魏延の他には見られないしね。

そういや、李厳もよく分からんな。
それまでは雑号将軍+郡太守だったのに、突然の尚書令抜擢。
以後は、劉備の遺詔を受けて中都護にもなったり、一気に諸葛亮に次する位になってる。

245:無名武将@お腹せっぷく
08/08/14 00:20:03
あれって本当に孔明の指示だったのかなぁ
孔明と魏延って「劉備派」の最後の二人なんだよねぇ・・・

246:無名武将@お腹せっぷく
08/08/14 00:26:45
>>244
尚書令になる前は輔漢将軍だし、輔漢将軍になる時には劉備留守の南中反乱を抑えるという功績があったから、よくよく考えればありえない出世でもない
魏延同様、劉備が実力と自分の死後の首脳陣として期待したということだろう
諸葛亮と魏延の間に割り込むのは、それはやはり士大夫の壁じゃないかと思う

247:無名武将@お腹せっぷく
08/08/14 00:49:13
 そう考えると、「劉備派」であって、「諸葛亮派」ではない存在というのは
諸葛亮チルドレンが主導権を握った状況では、すこぶる目の上のたんこぶ
というのは想像に難くない。

 李厳の諸葛亮の死に対する絶望も、その文脈を踏まえたものなのかも
しれないねぇ。

248:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/14 00:51:46
>>244
そういや輔漢将軍だったわ。
ただまぁ、尚書令抜擢はどうなんかな、と。
李厳が抜擢されたのは、恐らくは仰るとおりで、劉備に認められたからだろうとは思う。

ちょっと思ったのは、劉備が蜀を平定した後、各郡の太守や、県の長や令を任命したが、
これに、今後の政権運営で抜擢すべき人材を見定める意味を持たせたのかもしれない、という事。
この益州平定後の人事で、劉璋の下にいた人材が多数太守とかになってれば、
そういう考えも補強されるかもしれんが、調べてもそうでもないから、あまり自身は無いが。

249:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/14 01:12:38
李厳弾劾の上表を眺めてたんだが、これの署名を見ると、当時の軍の重鎮、
すなわち、魏延、呉懿、袁綝、高翔、呉班の5人の内、節を仮されてるのは魏延のみ、
また、諸葛亮の幕府に入っていたのも魏延のみだという事が分かる。

この辺を突き詰めて考えると、何か分かるかもしれない。

個人的に、魏延に節を仮したのは、この後、つまり第四次北伐中か、或いはその後の北伐において、
彼にある程度の裁量を許す別働隊を任せての作戦を実行するつもりだったのではないか、と思う。

250:無名武将@お腹せっぷく
08/08/14 02:04:56
お笑いスレかと思って覗いて見たら、

お前ら、スゲ~~ナ~~w

251:無名武将@お腹せっぷく
08/08/14 10:27:33
将軍位ってどうなんかな。
魏延だと鎮→征で昇進になってるが、趙雲だと征→鎮で昇進になってる。

李厳は劉備に帰服前も後も政務・軍務の両面で手腕があるし、
あの当時の蜀では順当な人選だと見て良いのじゃないかな?

魏延の場合、実は劉備に信頼を受けたといいつつも、
北伐が始まるまで彼の功績は蜀平定の時しかないわけだから。
劉備は魏延に武官として期待はしてても、
政道を委ねようとは思ってなかったと思う。

252:無名武将@お腹せっぷく
08/08/14 13:47:45
>>251
確かに劉備も魏延を蜀全体の指導者にするつもりはなかったかもしれないな
でも、北伐中に諸葛亮が死亡してから撤退するまでの間というのはほぼ純粋に軍事の事だ
そこで魏延をあからさまに外すというのは、劉備の遺志を無視したものと言えるのではないだろうか
諸葛亮の決定だとしたら、諸葛亮が主劉備の遺志を無視したことになる

253:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/14 18:55:37
>>251
魏延は鎮西将軍から征西将軍への昇進ではなく、鎮西将軍から四征「大」将軍への昇進。
蜀では四鎮から四征への昇進の例は無かったはず。
史書による昇進の例から分かる蜀の将軍位の序列は、

四征<鎮軍・輔漢<四鎮<四方<四征大<鎮軍・輔漢大<四鎮大<衛将軍etc

だな。閻宇の右大将軍を四方大将軍とするならば、四鎮大将軍と衛将軍の間にそれが入る。

254:無名武将@お腹せっぷく
08/08/14 19:17:47
>>252
どこを立て読み?

>>253
蜀の将軍位って名前ばっかりって気がするね。
征・鎮の将軍になっても全然、軍権がついてないし
職掌として与えられた官職の方が実態に近いよね。

255:無名武将@お腹せっぷく
08/08/14 19:34:32
縦読みとか、つまらん煽りを何でしたがるのかね

256:無名武将@お腹せっぷく
08/08/14 19:50:46
独裁チックな蜀の丞相の位が全て悪い。
撤退時は楊儀が丞相の可能性もあった筈だから魏延は相当焦ったんじゃないかな

257:無名武将@お腹せっぷく
08/08/14 20:04:41
楊儀が丞相って、それ蜀にとって何て罰ゲーム?って感じだしな。

258:無名武将@お腹せっぷく
08/08/14 20:07:01
それはそれでちょっと想像してみたいイフではあるね。
秦檜のようになるのかどうか。


259:無名武将@お腹せっぷく
08/08/14 21:28:09
>>255
別に煽りでもなんでもなく、話が飛び過ぎてイミフってだけ。
劉備は魏延を軍事の統括者に指名してたの?

260:無名武将@お腹せっぷく
08/08/14 22:11:44
そういえば楊儀についた軍人は王平と姜維辺りだったと思うけど、魏延の反乱時はこいつら、蜀軍にとって主流派だったのかな?
寝返り組だから軍の核、中心人物になるのは困難な気もするんだが
もし非主流派だったら魏延の失脚を画策したように見えてやな感じ

と、ふと思ったことを徒然と書いてみる

261:無名武将@お腹せっぷく
08/08/14 22:55:30
ふたりとも諸葛亮によって引き上げられたって点なら共通してなくもない

262:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/14 23:44:09
姜維とか、別に諸葛亮の死の直後に軍の中心になったわけではないよ。
姜維は征西(征南?)将軍から輔漢将軍と、将軍位は上がったし、
諸軍を統率した、とは書かれてるけど、一人ではなく、鄧芝や張翼と共に行ってる。
王平にしても、諸葛亮死後、車騎将軍に昇進し督漢中として漢中を統括した呉懿の副官。

王平は名前が無いけど、李厳弾劾の上表を見る限り、姜維は、
呉懿ら軍の重鎮、鄧芝や劉邕らの一世代上の奴らに次ぐ辺りに名前があるので、
若手のホープ的な位置だろう。
劉敏の位置を考えると、王平も姜維とほぼ同じ辺りだろう。

次代の軍を担う存在として、彼らが重要な位置に置かれても、さほどおかしくは無い。

263:無名武将@お腹せっぷく
08/08/15 00:53:47
>>362
姜維が諸葛亮の死の直後に軍の中心になった、とはいくらなんでも思ってなかったさー
もしそうだったら姜維が真っ黒すぎるし、疑う人だっているだろう

この件は寝返り組がこの後、蜀軍の中核を担って行くのに少し違和感を持ったっつーはなし
魏延の件が関わっていたら面白いなー、と
こいつらが重要な位置にいることがおかしくないなら何も問題はない


264:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/15 01:22:14
王平は、街亭では致命的な大敗に至るのを防ぎ、祁山では張郃を退け、
丞相参軍・討寇将軍ではあるけど、青羌からなる五部を統率する実力者だから、
その能力を買われて呉懿の副官というのは、ありうると思うよ。諸葛亮にも高く評価されてるし。

姜維に関しては、魏延の件と言うよりも、諸葛亮、蒋琬と、
どちらの宰相にも高く評価された事が何よりだと思う。
鎮西大将軍になった頃とかは、まるっきり、諸葛亮にとっての魏延のような位置だと思う。
まぁ、魏延と違い、この時点では孤立する事はなかったけど。


単純に比較はできないが、諸葛亮没後の姜維は、
「魏延が周囲と上手くやれていたら」というのを考える上で参考になるかもしれない。

265:無名武将@お腹せっぷく
08/08/15 01:22:44
結局、劉備から諸葛亮ラインにおいて格別引き立てられたにも関わらず
魏延が軍の主流派になれなかったのは、彼の人格のせいだろうね。

又性矜高,當時皆避下之

という一文が示すように、魏延は対人関係に難のあるところが伺える。
もし魏延にもう少し周囲と上手く付き合ったり
人の心理を読んだり、場の空気を読んだりというスキルがあれば
将の将として、軍を統括することも出来たかもしれないね。

266:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/15 01:35:21
そもそも、諸葛亮の遺命は撤退に関する処置のみで、その後の人事に関してではないだろう。
それ以前から、諸葛亮は密かに上表し、後継者が蒋琬である事を劉禅に伝えてたのだから、
諸葛亮死後に行われた人事は、そっちの上表に沿ったものだと思う。
仮に遺命がでっち上げだったとしても、その後の人事の方針が大きく変わる事は無いだろうね。

魏延を排除した事で変わったとすれば、その上表にけちをつける輩が一人いなくなる、という事だろう。

>>265
確かに、彼に協調性があれば、また違った結果になったと思う。

267:無名武将@お腹せっぷく
08/08/15 08:22:48
楊儀に忍耐力があり、魏延に協調性が有ったなら…

268:無名武将@お腹せっぷく
08/08/15 09:57:20
楊儀の場合、協調性もやや難ありだよな
季漢輔臣賛とか本来なら全員褒めるべきところに
わざわざ欠点を書いたりもしてる
元々一言多い奴だったと思う
そのくせ魏延に絡まれると涙目だし

269:無名武将@お腹せっぷく
08/08/15 15:07:52
鬼の形相で剣を突きつける魏延

子供の様に泣きじゃくる楊儀

その様子を苦々しく見守る孔明

劉封を危険視して処刑しさせてる割に孔明がなんか手緩いよな


270:無名武将@お腹せっぷく
08/08/15 15:19:25
お前が楊儀が嫌いなのは分かったが季漢輔臣賛はだすな
これだと魏延が節義もなく反乱を起したと書かれてる

271:無名武将@お腹せっぷく
08/08/15 17:13:04
軍事の魏延に事務の楊戯
どっちも外せなかったくらいに能力はあったんだろう

272:無名武将@お腹せっぷく
08/08/15 20:42:04
>>268

楊儀が現代の日本にタイムスリップしたら
案外しっくり来るかもね。粘着うぜーとか言われて
憤慨して自作自演とかしそう。

273:無名武将@お腹せっぷく
08/08/15 22:08:23
孔明には馬謖などを使ったりと、
人を見る目がないやつだから、
魏延を用いなかったのは孔明の目の悪さ。
これを孔明が楊義に伝言したから魏延がキレた。
悪いのは孔明

274:無名武将@お腹せっぷく
08/08/15 22:56:37
おいループすんな。


275:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/16 00:14:44
ループするな、とは言わんが、ログと空気はある程度読んで欲しいね。

劉備が魏延をどのように見ていたか、というのは難しいところだな。
魏延が守った漢中と並んで重要な拠点である江州とライ降の都督は、
劉備の時代には、江州が費観、ライ降が李恢だな。

費観と李恢、それに魏延を比べると、将軍位は魏延が最も高く、
権限は李恢が最も与えられていた。費観は両者に待遇が劣る。

魏延の鎮北将軍は、黄権が魏に降った結果だし、
多分、黄権に対する期待の方が魏延より大きかったのだろう。
その前の鎮遠将軍の核は分からんが、劉備を漢中王に推挙する際、
征西将軍黄忠に次ぐ位置で鎮遠将軍頼恭の名があり、その次が揚武将軍法正なので、
雑号よりは上だから、やはり将軍位は費観、李恢より上だな。

馮習や張南とかよりは上なんかな?

276:無名武将@お腹せっぷく
08/08/16 00:28:29
馮習や張南のほうが記録にのこっとらんので何とも…

277:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/16 00:44:13
そうなんだよねぇ。

馮習は南郡出身で、よく分からんが夷陵の時に呉班と並んで左領軍となり、
陸遜伝に拠れば大督だから、夷陵の指揮官連中では抜けた位置にはいる。

呉班クラスとすれば、諸葛亮の時代で言えば魏延の方が少し上かと思うが、
劉備がどう見てたかまでは分からないからなぁ。

個人的には、「劉備は魏延に軍事を委ねようと思っていた」というのは飛躍しすぎかな、とは思う。
後の蜀を支えるべき有力な将軍の一人、とは思ってただろうけど。

278:無名武将@お腹せっぷく
08/08/16 01:32:07
馮習は季漢輔~でも、「彼の判断の誤りが夷陵敗北をもたらした」というような内容で書かれるくらいだから、
前線指揮官の中で最も権限があったんだろうね。

劉備は、自身の生きている間は「常に自分が前線の最高指揮官である」と思ってたんじゃないかなぁ。
人に任せると言う発想自体が無かったんじゃないかと。

279:無名武将@お腹せっぷく
08/08/16 01:40:09
強いて言うなら「張飛」を頼んでたろうね。
優秀な指揮官だし、漢中に充てなかったのも張飛自身の性質はもとより、
彼を大将軍のような立場にして中央に置くと考えれば、さほど不自然ではない。

年嵩の自分よりも張飛が先に死ぬとは思わなかったろうしなぁ。

280:278、279
08/08/16 01:41:09
ごめん、連投になるけど、張飛は何より「外戚である」ってのを書き忘れてた。

281:無名武将@お腹せっぷく
08/08/16 02:24:09
なんだか変なのが住み着いたのー・・・
ここは楊儀が立てたスレとはいえ魏延さんスレであろ。
知識をひけらかしたいのであれば他に相応しい板があるだろうに・・・
貴方の好きな政治家諸葛亮でもそのくらいの空気は読める、
見習うべし。
そろそろ勘弁して下さい・・・orz

そして魏延さん名将!

282:無名武将@お腹せっぷく
08/08/16 02:29:22
魏延一人の事を調べるのにも、結局は蜀全体を調べてかなきゃ何も分からんってのが現状だけどな。

283:無名武将@お腹せっぷく
08/08/16 02:30:07
こういうレス見るとマジで空気は読んで欲しいと思う

284:無名武将@お腹せっぷく
08/08/16 02:40:22
何だかんだで一次資料が不足し過ぎてるんだ。蜀は…

285:無名武将@お腹せっぷく
08/08/16 02:44:34
そうだな
どんだけ調べても推測が混じっちまう当たり厳しいよな
ただでさえ資料の正確性が分からんのにさ

286:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/16 03:07:05
史料に関してはどうしようもないからねぇ。
現存する、自分の触れられる史料で考えていくしかない。

287:無名武将@お腹せっぷく
08/08/16 08:28:32
if多すぎ

288:無名武将@お腹せっぷく
08/08/16 15:42:41
ifを全く認めないなら「史書に目を通せ」で終わっちまうのが蜀なんだよなw

289:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/17 01:48:52
多すぎって言うほどif話をしてたかね?そうは感じないが。

将軍位がどうの、官職がどうのって話には、皆飽きてきているかもしれないが。

他に話す事と言うと、第一次北伐の魏延の作戦とか、呉懿と共に羌中まで前進した時の事とかか?

290:無名武将@お腹せっぷく
08/08/17 21:11:29
北伐の別働軍の話は突き詰めれば詰めるほどドリームな感じの評価になるしなぁ
羌中戦でも考察するかな?
魏延の武功で具体的なのってこれだけだし

291:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/18 23:45:26
あれもよく分からんのだけどね。
羌中まで前進して、陽谿で郭淮と費曜を撃破した事しか書かれてないし。

スレリンク(warhis板:260-261番)
ここでも少し言及したが、あれは、羌中まで前進した後、
陽谿で郭淮と費曜を撃破し、そのまま祁山で諸葛亮に合流したんじゃないかと思ってる。


292:Jominian ◆Henri9gNlM
08/08/19 22:47:24
誰も語らんようなので、気付いた事を少し述べる。まだ考えがまとまってないが。

羌中への前進は、魏延と呉懿の二人で行ったと考えられているし、華陽国志ではそうなっている。
しかし三国志を読むと、「羌中」とあるのは魏延伝だけで、あとは、
魏延が陽谿で費瑤と郭淮を破った、という記述のみ。
因みに、資治通鑑にはこの戦いの記述自体無い。

そして、季漢輔臣賛に付されている呉懿の伝を見ると、ただ、
「魏延と南安の郡境に入り、魏の将軍費瑤を破った(与魏延入南安界、破魏将費瑤)」とあるだけ。
この呉懿の記述だけ読むと、南安の郡境(恐らくは襄武西北の陽谿)までしか前進していないように見える。
もちろん、呉懿は魏延と同道して羌中まで行き、この記述がその帰途の事を指していると考える事もできる。
だが、別の可能性も考えられる。

つまり、魏延と呉懿は、別々のタイミングで、別々のルートを通り、
陽谿にて合流した、という可能性である。「入南安界」が「会南安界」だったら決定的なのだが。
この場合、魏延は真っ先に出て羌中まで前進し、郭淮らを西方へと引きつける。
その隙に呉懿が南安まで出て郭淮らの連絡線を遮断して、これを東西両面から攻撃する、という形だろう。
ただそうすると、第四次北伐まで含めた諸葛亮の戦略の意図を考えるのが難しくなる。


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