09/05/11 08:07:00 x8YnrrzX0
陳情に行く。これが、最後のアクションプログラムである。これしか残された道はなかった。
信用されていないなら、信用されるまで何度でも陳情に行こうということになった。
1990年の12月から1991年の1月にかけて、県の幹部や鹿島町の町長、鹿島製鉄所の幹部など、
陳情団体の東京行が繰り返される。
<中略>
行くたびに川淵氏から宿題が出される。行くたびに大きな仕事を背負う。
年末・年始の忙しい時期、真冬の寒いころ、鹿島と東京を何度も行き来する。
それでも、あきらめることはできなかった。地域の願いは、果たさなければならなかった。
そのつど、竹内知事の親書を持って行ったり、近隣町村長や教育長、
各団体からの賛同書、署名を集めたり、選手強化策やスタジアムの図面をもって説明に行ったり、
鉄道や駐車場の整備計画などを持って行ったり、
殺人的ともいえるスケジュールを、一つ一つこなしていった。
夢を追う者たちの情熱と根気の日々だ。
「最終的には汗の積み上げが、地域を活性化してゆくのだと思う」
そう語る五十里氏が、町長みずからも幾度となく協会へ足を運んだ。
関係各所の賛同書をかき集め、提出したりもした。
<>>303へ続く>