【懐疑論】論理的虚構世界内存在【実姉帝国主義】at CAMPUS
【懐疑論】論理的虚構世界内存在【実姉帝国主義】 - 暇つぶし2ch25:論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc
09/03/01 09:12:19 +WvfU+/q0
「正規ルートで購入したダウンロード版ソフトウェアは1回のみなら販売してもよかろう論」


  ダウンロード販売により購入した商品を販売することに対する私の解釈は以下のとおりである。(現行の法律と異なっている可能
性はある。)

◆この出品物について、「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」であるとの報告をした者がいる。
◆しかし私は、この出品物を金銭を支払って正規ルートで購入した。
◆仮に、この出品物が「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」であるとするならば、同じく金銭を支払って正規ルートで購入
したパッケージ版もまた「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」に当たると判断せねばなるまい。
◆しかしながら、現状ではそのようには判断されていない。
◆したがって、現状ではこの出品物は「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」ではない。
(以上、背理法による論証)
◆さて、ダウンロード版は何度も販売することができる点でパッケージ版とは異なるのだという指摘もあろう。
◆言い換えるならば、この出品はパッケージ版のファイルをコピーして販売しているのと同型であるということである。
◆たしかに原理的にはそのとおりであるが、個別の事例で考えた場合にはその限りではない。
◆具体的には、製品版の販売と同様に、販売回数を1回に限定すればよいのである。
◆これに対しては、たとえば複数IDを持っていたり、Yahooから排除されるたびにIDを取り直したりするなどした場合には、Yahooです
ら何回販売しているかを把握できないとの反論があるかもしれない。
◆これにも異論はない。
◆しかしながら、ただそれだけの理由で排除が行われるならば、パッケージ版についても、たとえば他者から窃盗したものである可能
性がある、あるいは精巧な複製品の可能性があるなどとして排除されねばなるまい。
◆そうした可能性があるにもかかわらず製品版の出品は排除されていないというのが実情である。
◆それゆえ私は、ダウンロード版の販売についても、製品版の販売と同様に、出品者を信用するというのが整合的な立場であると考え
る。
(むろん、これは現状において整合性を保持する場合の帰結であって、パッケージ版を中古として払い下げること自体が行ってはなら
ないことであるという可能性はある。)

26:論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc
09/03/01 09:13:10 +WvfU+/q0
  上では、「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」が「正規ルートで購入したパッケージ版のコピーを販売すること」
と同型であるとしたが、実は厳密に言えばこの見方は誤っている。
  ダウンロード版とパッケージ版のいずれもが正規ルートで購入されているということを前提するならば、「正規ルートで購入したダ
ウンロード版」と「正規ルートで購入したパッケージ版」の身分が同値となる。ところで、パッケージ版のコピーを販売した場合には、
そのコピーの購入者が購入したコピー品を他者に販売することは禁じられている。また、そもそもパッケージ版のファイルを含むすべ
てを複製して販売することも禁じられている。他方、パッケージ版のコピーを自らが保有しておき、購入したパッケージ版それ自体を
他者に販売するという行為は、すでに見たように一般に広く行われており、現時点では容認されている。したがって、パッケージ版が
オリジナルであるかどうかは、そのソフトウェアのファイル群ではなく、ファイル群以外のパッケージ部分(外箱、内箱、ケース、記
録メディア、マニュアル等々の総体)において判断されていると考えられる。
  ここで、ダウンロード版の特殊性が浮かび上がってくる。上でパッケージ版について検討したとおり、少なくとも「商品としての」
ソフトウェア・ファイル群自体にはオリジナルがない。ということは、ファイル群のみの取引となるダウンロード版には、一見したと
ころ商品としてのオリジナルは存在しないことになるのである。しかしながら、これでは1人の者が1度その商品を購入しさえすれば、
彼が物理的に可能な範囲で無制限に配布できることになってしまう。したがって、パッケージ版に課せられている制限との間で整合性
を維持することができない。
  そこで、購入したパッケージ版を売却する際に制限として設けられていたことを思い出す必要がある。パッケージ版は、購入したパ
ッケージ版それ自体を販売する限りにおいて売却が認められていたのであった。すなわち、パッケージ版においては1回のみの販売が許
容されているのである。これをダウンロード版にも適用したとき、ダウンロード版は、それを手にした者がそれぞれ1回販売するか、
2回以上販売するかによって、パッケージ版と同値であるか、パッケージ版のコピーと同値であるかに分岐するという結論が得られる。
  それゆえ、「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」という事態は次の2つに区分されることになる。「正規ルート
で購入したダウンロード版を1回のみ販売すること」と「正規ルートで購入したダウンロード版を2回以上販売すること」である。そし
て、後者の場合には「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」が「正規ルートで購入したパッケージ版のコピーを販売
すること」と同値になるが、前者の場合には同値でないと言うことができるのである。
  なお、ダウンロード版は価格が相対的に低いが、これは再販売が禁止されている代償であると言うよりは、単にパッケージ版に特有
の費用(製造に係る費用と流通に係る費用の両方)を抑えられるからであり、したがってダウンロード版の再販売禁止の根拠としては
使えないと思う。

27:論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc
09/03/01 09:13:54 +WvfU+/q0
  要約版

◇パッケージ版のファイルをコピーしたものの販売やパッケージ版全体(ファイルのみならず、外箱、内箱、ケース、記録メディア、
マニュアル等々を含む総体)の複製品の販売を禁じているのは、ファイルに権利があると見なしているからであると思う。
◇つまり、本来のオリジナル性はファイルに帰属することになる。
◇しかし、製造会社が生産し、流通経路に乗せたパッケージ版それ自体の販売の連鎖はどこまでも容認されている。
◇このことから、私は「商品としては」ファイル以外の部分がオリジナルに当たると述べた。
◇ファイル以外の部分を「商品としての」オリジナル(識別符号)と見なすことによって、ファイル制作者の権利を侵害する行為から
ファイルを保護しているのである。
◇こうして、ダウンロード版販売禁止論者は、識別符号であるファイル以外を持たないために(1回の購入によって何度でも再販売する
ことが可能となる)ダウンロード版の販売は禁じられるべきなのであると考えていることが分かる。
◇しかし、これが問題なのは、正規ルートで金銭を支払って入手したという点では同じであるにもかかわらず、パッケージ版には冒頭
に挙げた制限付きでの販売を認め、ダウンロード版には問答無用で販売を認めないという立場が整合的でないからにほかならない。
◇しかも、販売は認められないと言いながら、製造業者から小売業者への販売は行われているのである。
◇正規ルートで金銭を代償にして購入した商品の販売が認められないならば、小売業者が消費者に販売することもまた禁じられ、した
がって製造業者が消費者に直接販売せねばなるまい。
◇また、パッケージ版でも1回の購入によって、あるいは購入すらせずに何度でも再販売することが可能である。
◇たとえば、本物と見紛うほどの複製品を許可なく製造する、他者から窃盗するなどの事態を想定せよ。
◇以上より、パッケージ版とダウンロード版との間の取り扱いに整合性を持たせるために、「正規ルートで購入したダウンロード版で
あるならば、1回のみの販売が容認されるべきである」ということが帰結する。

28:意図と指示 ◆vWilh8Qklc
09/03/01 09:16:25 +WvfU+/q0
  最近知ったが、『ドラえもん』には「独裁者ボタン」という話があり、これは野比のび太が自分の嫌いな者を消すことのできるボタ
ンを用いて、次々と周囲の人を消していき、最終的には自分以外のすべての人を消した後に事の重大さに気づくというものだそうだ。
この例において、後にそんなことは不可能であるということが論証され、さらにその改訂可能性も完全に否定されたとしよう。ボタン
1つで人を消去できるような道具は実現し得ないという命題の絶対確実性が論証されたと仮定するということである。(なお、独裁者ボ
タンが効果を発揮するためには、その使用の際に、『DEATH NOTE』がそうであるように対象の顔や氏名を思い浮かべる必要がある等の
条件があったかもしれないが、それを持ち出すとさらにややこしくなるので、ここでは措いておく。)すると、その理論は「不可能な
理論」ということになり、その理論(もどき)に基づく、「独裁者ボタン」という話は空虚であると言えるであろう。こうして、「あ
るボタンを押せば人を消すことができる」理論は何も指示していないことになり、したがって対象の意図は空虚になる。
  少し話を戻して、制作者が「独裁者ボタン」という物語をつくる以前にそこで用いられている考えの不可能性が証明されており、か
つ制作者がそれについて理解している場合、彼は「独裁者ボタン」という物語をつくったものの、彼は自分がいったい何を言っている
のかを理解していないということになる。
  これら(具体的には、これまで述べてきた、物語制作時にすでに用いようとしている理論の不可能性が分かっている場合と分かって
いない場合のそれぞれにおける問題)に対して、虚構世界であるということのみを以って何も問題はないとする見方があろう。しかし、
そうであるならばいったいその虚構世界にはこの世界と異なるどのような理論体系が成立しているのか、そしてそれら理論体系相互に
決して矛盾はないということを示す必要があるのではないか。(その基準が厳しいとしても、少なくとも虚構世界一般についての分析
は必要であろう。)それらができないならば、自らが何を言っているのか理解していないということになる。そこではせいぜい、「何
かを意図しようという意図」、あるいは「何かを意図しているという思い込み」であるメタ意図は成立しても、その具体的な内容であ
る対象の意図は成立しないのである。
  ここには、さらなる問題が潜んでいる。それは、(ある装置を用いて)人を消すということがいったいいかなることであるのかとい
うことが明晰ではないというものである。

29:意図と指示 ◆vWilh8Qklc
09/03/01 09:17:12 +WvfU+/q0
  しかしながら、上の議論の運びには問題もある。私は、ある言明が何も指示しない場合もあるということを示唆したが、これは当然
「それが何であれ指示は常に成立する」という立場が絶対確実に正しいことを論証することができない以上、それに反する立場にも可
能性があるという程度のもので、厳密さはない。ここで問題となるのは、誰かが探究の結果として「われわれが指示に失敗するという
ことは不可能である」という命題の論証に成功した場合、「われわれは指示に失敗する可能性がある」という私の言明がいったい何を
指示しているのかが分からなくなるということである。あるいは反対に、「われわれは指示に失敗する可能性がある」という命題の正
しさが論証された場合には、「誰かが探究の結果として『われわれが指示に失敗するということは不可能である』という命題の論証に
成功した場合、『われわれは指示に失敗する可能性がある』という私の言明がいったい何を指示していたのかが分からなくなる」とい
う言明が何ごとかを指示していることになるのであろうか。
  私がこの疑問を抱いたきっかけは『ひぐらしのなく頃に 祭』というテレビ・ゲーム(television game)である。そのゲームでは、園
崎魅音と園崎詩音という、これまで彼女たちに接してきた人びとにとって見分けがつかない一卵性双生児が登場するが、2人は途中で何
度か入れ替わったり、あるときからは入れ替わったまま生活することになり、おそらく2人が高校3年生のときに「園崎魅音」は転向し
てきた主人公と友人になる。
  このとき、われわれ(主人公を含む)はいったい園崎魅音ならびに/あるいは園崎詩音という固有名によって何を指示しているのか、
それとも何も指示していないのか。
  私が暫定的に提示した考えでは、上記の場合、少なくとも両者の区別が付いていない者にとっては、園崎魅音ならびに/あるいは園
崎詩音という固有名は何も指示することができていないことになるのであるが、果たしてこれは正しいのであろうか。
  なお、この例には、ある対象とある固有名との結びつきがいかにして正当化されるかという問題も潜んでいる。

30:意図と指示 ◆vWilh8Qklc
09/03/01 09:18:07 +WvfU+/q0
  備  考

前提:
◇現在の魅音=本来の詩音
◇現在の詩音=本来の魅音


解釈:
◆生物学+法学→本来の魅音/現在の詩音が魅音(現在の日本人の多数派の常識より)
◆構成主義→本来の詩音/現在の魅音が魅音(ただし、多数派が当事者の双子とは反対の認識を持っている場合に限る)
◆(生物学+)外延主義→本来の魅音/現在の詩音が魅音(『虚構世界の存在論』より)
◆(生物学+)現象主義→本来の詩音/現在の魅音が魅音(『虚構世界の存在論』より)


# 「本来の」という語がすでに生物学(というよりも、彼女たちに対して生物学に基づく検査をしていない以上、生物学を用いればそ
うなるであろうという予想)を前提にしており、生物学(あるいは件の思い込み)が絶対確実であることは確定していないため、上記
の考え方はすべて独断になってしまうか……。

31:現実と虚構(作品)を巡る批判と応答 ◆vWilh8Qklc
09/03/01 09:19:26 +WvfU+/q0
▽現実本位


◇批判:虚構作品は現実的でない。

◆応答:
【カテゴリー1】 一般的
  →虚構作品は現実(という虚構)以外の虚構を記述したものであるため、ただ現実のみを求めるならば虚構作品を求める必要性はど
こにも見当たらない。


【カテゴリー2】 原理的
  →両者はそれぞれに独立した自然さがあるため、現実の事態の評価基準に虚構世界の事態を持ち出して虚構世界が自然さを欠如して
いると言う、あるいは反対に虚構世界の事態の評価基準に現実の事態を持ち出して現実世界は自然さを欠如していると言うのは、端的
にトリヴィアルな言明である。(現実世界と虚構世界とでは、成立している理論が異なっているという可能性を無視している。)
  →対象を現実的であると感じるかどうかは人によって異なっている可能性があることをまったく無視している。
  →(実在論が正しいとして)対象を現実であると主張する者が言う現実が本当に現実であるかのということが疑問として残る。
  →↑とも対立する考えとして、現実は相対的であるというものがある。(敷衍すれば、一角獣が存在する世界からみた場合にはこの
世界こそが虚構である、あるいはこの世界は一角獣が存在する世界と同程度に虚構的であるということである。)
  →「現実的でない」という部分を「ご都合主義である」に変換した場合には、現実世界には観測選択効果が、虚構世界には美的観測
選択効果がそれぞれ働いていることから、両者は共通していると反論することができる。

32:現実と虚構(作品)を巡る批判と応答 ◆vWilh8Qklc
09/03/01 09:20:02 +WvfU+/q0
▽虚構本位


◇批判1:虚構作品に理論は不要である。

◆応答1:
  →学術的に劣る考え方を採用している虚構作品(たとえば映画では『MATRIX』)を節操なく受け入れるならば、何でもありになるか、
何もないということになる。前者については、この世界のみならず、他のあらゆる世界においても「何でもありが成立する」という信
念が成立するかという問いを立てることができ、後者については、何もないにもかかわらず、何かを(物)語っているというのは矛盾
であると指摘することができる。

◇批判2:虚構作品においては、理論がなくとも意図が成立する。

◆応答2:
  →その意図は、対象の意図ではなく、メタ意図〔何かを意図しようという意図〕である。背景に理論がない場合、対象の意図は空虚
になる。

◇批判2b:現実世界においてすら、どのような理論が背後から現実世界を支えているか判明していない。

◆応答2b:
  →背景にある理論体系を示すことができない限り、虚構作品は無意味となる〔成立しない〕とは言っていない。理論が存在しないと
いう状況も可能であるという点が問題なのである。

33:論理の重要性についての1節 ◆vWilh8Qklc
09/03/01 09:22:40 +WvfU+/q0
>>23

  「論理ではなく感情が重要」論者、(自らにとって都合のいいときだけ)「人は論理だけで行動しているのではない」論者に対する
論駁の要点は以下のとおりである。

【主要】感情による正しさを主張する者は、その感情に対して、さらにはその感情が正しいという考えに対して「それは正しいか?」
と問うことができるということに気づいていない、もしくは無視している。
【補助1】ある感情を持っている(と思い込んでいる者)が自らの考えが正しいと主張したとしても、それとは異なる(しかも相容れな
い)感情を持っている(と思い込んでいる)者が、彼と同じように自らは正しいと主張した場合、両者の理論上の身分は同等となり、
原理的な決着はつかない。
  ↑を戦術的に活用すれば、ある感情を持っている者が自身の正しさを主張するのに対して、それが気に入らないという感情によって
反対意見を表明するだけで、両者の理論上の身分を同等にすることができる。
【補助2】「正しいか誤っているかはどうでもいい」と言う者は、「「正しいか誤っているかはどうでもいい」ということが正しい」と
暗に主張しているため、結局正しさを問題にしている。
【補助3】「感覚や感情が共有され得る」という信念、「多数派に共有されている感覚や感情こそが正しいのである」という信念、「多
数派に共有されている感覚や感情に従わねばならない」という規範(この規範の背後にあると思われる、「機能すると自らが思い込ん
でいること」が事実としても、価値としても正しいという信念、および「人類は存続せねばならない」などの規範を含む)はすべて独
断である。
【補足】「人は論理だけで行動しているのではない」という信念に含意される規範は独断である。

34:論理の重要性についての1節 ◆vWilh8Qklc
09/03/01 09:24:00 +WvfU+/q0
  上述のような指摘を行うと出現するのが、動機を探ろうとする者(そして、魔術的な仕方で動機を発見し、嬉々として攻撃を加えて
くる者)である。
  しかしながら、ある考えや理論にとって、それらを提唱している者の動機こそが重要であるという考えは、「1+1」の答えが「2」で
あってほしいという動機によって「1+1=2」が成立するという考えを支持することになる。
  彼の考えが正しいとするならば、先述した【補助1】という袋小路に迷い込み、抜け出せなくなるだろう。
  したがって、動機によって正しいことが誤りになったり、誤りであることが正しいことになるなどということは決してない。(その
者の動機が何であれ、正しいことは正しいし、誤りは誤りである。)
  私には、実際に「1+1=2」というのが正しいかどうかは分からない。
  しかし、もし「1+1=2」が正しいならば、「1+1=2」であることを論証する(しかも公理のような独断を排除して!)ことに成功した
者が「1+1=3」という感覚を持っていたとしても(そして「1+1=2」という感覚を持っている者がただの1人もいないとしても)、
「1+1=2」は絶対確実に正しいと言える。
  動機の囚人となっている者は、感覚や感情の段階と理性の段階を区別せず、俗流心理学を奉ずる、誤った論者である。

35:論理の重要性についての1節 ◆vWilh8Qklc
09/03/01 09:29:50 +WvfU+/q0
  最近知ったが、『ドラえもん』には「独裁者ボタン」という話があり、これは野比のび太が自分の嫌いな者を消すことのできるボタ
ンを用いて、次々と周囲の人を消していき、最終的には自分以外のすべての人を消した後に事の重大さに気づくというものだそうだ。
この例において、後にそんなことは不可能であるということが論証され、さらにその改訂可能性も完全に否定されたとしよう。ボタン
1つで人を消去できるような道具は実現し得ないという命題の絶対確実性が論証されたと仮定するということである。(なお、独裁者ボ
タンが効果を発揮するためには、その使用の際に、『DEATH NOTE』がそうであるように対象の顔や氏名を思い浮かべる必要がある等の
条件があったかもしれないが、それを持ち出すとさらにややこしくなるので、ここでは措いておく。)すると、その理論は「不可能な
理論」ということになり、その理論(もどき)に基づく、「独裁者ボタン」という話は空虚であると言えるであろう。こうして、「あ
るボタンを押せば人を消すことができる」理論は何も指示していないことになり、したがって対象の意図は空虚になる。
  少し話を戻して、制作者が「独裁者ボタン」という物語をつくる以前にそこで用いられている考えの不可能性が証明されており、か
つ制作者がそれについて理解している場合、彼は「独裁者ボタン」という物語をつくったものの、彼は自分がいったい何を言っている
のかを理解していないということになる。
  これら(具体的には、これまで述べてきた、物語制作時にすでに用いようとしている理論の不可能性が分かっている場合と分かって
いない場合のそれぞれにおける問題)に対して、虚構世界であるということのみを以って何も問題はないとする見方があろう。しかし、
そうであるならばいったいその虚構世界にはこの世界と異なるどのような理論体系が成立しているのか、そしてそれら理論体系相互に
決して矛盾はないということを示す必要があるのではないか。(その基準が厳しいとしても、少なくとも虚構世界一般についての分析
は必要であろう。)それらができないならば、自らが何を言っているのか理解していないということになる。そこではせいぜい、「何
かを意図しようという意図」、あるいは「何かを意図しているという思い込み」であるメタ意図は成立しても、その具体的な内容であ
る対象の意図は成立しないのである。
  ここには、さらなる問題が潜んでいる。それは、(ある装置を用いて)人を消すということがいったいいかなることであるのかとい
うことが明晰ではないというものである。

36:意図と指示 ◆vWilh8Qklc
09/03/01 09:30:31 +WvfU+/q0
  しかしながら、上の議論の運びには問題もある。私は、ある言明が何も指示しない場合もあるということを示唆したが、これは当然
「それが何であれ指示は常に成立する」という立場が絶対確実に正しいことを論証することができない以上、それに反する立場にも可
能性があるという程度のもので、厳密さはない。ここで問題となるのは、誰かが探究の結果として「われわれが指示に失敗するという
ことは不可能である」という命題の論証に成功した場合、「われわれは指示に失敗する可能性がある」という私の言明がいったい何を
指示しているのかが分からなくなるということである。あるいは反対に、「われわれは指示に失敗する可能性がある」という命題の正
しさが論証された場合には、「誰かが探究の結果として『われわれが指示に失敗するということは不可能である』という命題の論証に
成功した場合、『われわれは指示に失敗する可能性がある』という私の言明がいったい何を指示していたのかが分からなくなる」とい
う言明が何ごとかを指示していることになるのであろうか。
  私がこの疑問を抱いたきっかけは『ひぐらしのなく頃に 祭』というテレビ・ゲーム(television game)である。そのゲームでは、園
崎魅音と園崎詩音という、これまで彼女たちに接してきた人びとにとって見分けがつかない一卵性双生児が登場するが、2人は途中で何
度か入れ替わったり、あるときからは入れ替わったまま生活することになり、おそらく2人が高校3年生のときに「園崎魅音」は転向し
てきた主人公と友人になる。
  このとき、われわれ(主人公を含む)はいったい園崎魅音ならびに/あるいは園崎詩音という固有名によって何を指示しているのか、
それとも何も指示していないのか。
  私が暫定的に提示した考えでは、上記の場合、少なくとも両者の区別が付いていない者にとっては、園崎魅音ならびに/あるいは園
崎詩音という固有名は何も指示することができていないことになるのであるが、果たしてこれは正しいのであろうか。
  なお、この例には、ある対象とある固有名との結びつきがいかにして正当化されるかという問題も潜んでいる。

37:意図と指示 ◆vWilh8Qklc
09/03/01 09:31:17 +WvfU+/q0
  備  考

前提:
◇現在の魅音=本来の詩音
◇現在の詩音=本来の魅音


解釈:
◆生物学+法学→本来の魅音/現在の詩音が魅音(現在の日本人の多数派の常識より)
◆構成主義→本来の詩音/現在の魅音が魅音(ただし、多数派が当事者の双子とは反対の認識を持っている場合に限る)
◆(生物学+)外延主義→本来の魅音/現在の詩音が魅音(『虚構世界の存在論』より)
◆(生物学+)現象主義→本来の詩音/現在の魅音が魅音(『虚構世界の存在論』より)


# 「本来の」という語がすでに生物学(というよりも、彼女たちに対して生物学に基づく検査をしていない以上、生物学を用いればそ
うなるであろうという予想)を前提にしており、生物学(あるいは件の思い込み)が絶対確実であることは確定していないため、上記
の考え方はすべて独断になってしまうか……。


>>35の題名は、「論理の重要性についての1節」ではなく、「意図と指示」である。

38:現実と虚構(作品)を巡る批判と応答 ◆vWilh8Qklc
09/03/01 09:31:41 +WvfU+/q0
▽現実本位


◇批判:虚構作品は現実的でない。

◆応答:
【カテゴリー1】 一般的
  →虚構作品は現実(という虚構)以外の虚構を記述したものであるため、ただ現実のみを求めるならば虚構作品を求める必要性はど
こにも見当たらない。


【カテゴリー2】 原理的
  →両者はそれぞれに独立した自然さがあるため、現実の事態の評価基準に虚構世界の事態を持ち出して虚構世界が自然さを欠如して
いると言う、あるいは反対に虚構世界の事態の評価基準に現実の事態を持ち出して現実世界は自然さを欠如していると言うのは、端的
にトリヴィアルな言明である。(現実世界と虚構世界とでは、成立している理論が異なっているという可能性を無視している。)
  →対象を現実的であると感じるかどうかは人によって異なっている可能性があることをまったく無視している。
  →(実在論が正しいとして)対象を現実であると主張する者が言う現実が本当に現実であるかのということが疑問として残る。
  →↑とも対立する考えとして、現実は相対的であるというものがある。(敷衍すれば、一角獣が存在する世界からみた場合にはこの
世界こそが虚構である、あるいはこの世界は一角獣が存在する世界と同程度に虚構的であるということである。)
  →「現実的でない」という部分を「ご都合主義である」に変換した場合には、現実世界には観測選択効果が、虚構世界には美的観測
選択効果がそれぞれ働いていることから、両者は共通していると反論することができる。

39:現実と虚構(作品)を巡る批判と応答 ◆vWilh8Qklc
09/03/01 09:32:04 +WvfU+/q0
▽虚構本位


◇批判1:虚構作品に理論は不要である。

◆応答1:
  →学術的に劣る考え方を採用している虚構作品(たとえば映画では『MATRIX』)を節操なく受け入れるならば、何でもありになるか、
何もないということになる。前者については、この世界のみならず、他のあらゆる世界においても「何でもありが成立する」という信
念が成立するかという問いを立てることができ、後者については、何もないにもかかわらず、何かを(物)語っているというのは矛盾
であると指摘することができる。

◇批判2:虚構作品においては、理論がなくとも意図が成立する。

◆応答2:
  →その意図は、対象の意図ではなく、メタ意図〔何かを意図しようという意図〕である。背景に理論がない場合、対象の意図は空虚
になる。

◇批判2b:現実世界においてすら、どのような理論が背後から現実世界を支えているか判明していない。

◆応答2b:
  →背景にある理論体系を示すことができない限り、虚構作品は無意味となる〔成立しない〕とは言っていない。理論が存在しないと
いう状況も可能であるという点が問題なのである。

40:学生さんは名前がない
09/03/01 09:32:11 +o4cNVhN0
television gameっておかしいよ
video game

41:論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc
09/03/01 09:33:03 +WvfU+/q0
「正規ルートで購入したダウンロード版ソフトウェアは1回のみなら販売してもよかろう論」


  ダウンロード販売により購入した商品を販売することに対する私の解釈は以下のとおりである。(現行の法律と異なっている可能
性はある。)

◆この出品物について、「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」であるとの報告をした者がいる。
◆しかし私は、この出品物を金銭を支払って正規ルートで購入した。
◆仮に、この出品物が「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」であるとするならば、同じく金銭を支払って正規ルートで購入
したパッケージ版もまた「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」に当たると判断せねばなるまい。
◆しかしながら、現状ではそのようには判断されていない。
◆したがって、現状ではこの出品物は「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」ではない。
(以上、背理法による論証)
◆さて、ダウンロード版は何度も販売することができる点でパッケージ版とは異なるのだという指摘もあろう。
◆言い換えるならば、この出品はパッケージ版のファイルをコピーして販売しているのと同型であるということである。
◆たしかに原理的にはそのとおりであるが、個別の事例で考えた場合にはその限りではない。
◆具体的には、製品版の販売と同様に、販売回数を1回に限定すればよいのである。
◆これに対しては、たとえば複数IDを持っていたり、Yahooから排除されるたびにIDを取り直したりするなどした場合には、Yahooです
ら何回販売しているかを把握できないとの反論があるかもしれない。
◆これにも異論はない。
◆しかしながら、ただそれだけの理由で排除が行われるならば、パッケージ版についても、たとえば他者から窃盗したものである可能
性がある、あるいは精巧な複製品の可能性があるなどとして排除されねばなるまい。
◆そうした可能性があるにもかかわらず製品版の出品は排除されていないというのが実情である。
◆それゆえ私は、ダウンロード版の販売についても、製品版の販売と同様に、出品者を信用するというのが整合的な立場であると考え
る。
(むろん、これは現状において整合性を保持する場合の帰結であって、パッケージ版を中古として払い下げること自体が行ってはなら
ないことであるという可能性はある。)

42:論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc
09/03/01 09:33:55 +WvfU+/q0
  上では、「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」が「正規ルートで購入したパッケージ版のコピーを販売すること」
と同型であるとしたが、実は厳密に言えばこの見方は誤っている。
  ダウンロード版とパッケージ版のいずれもが正規ルートで購入されているということを前提するならば、「正規ルートで購入したダ
ウンロード版」と「正規ルートで購入したパッケージ版」の身分が同値となる。ところで、パッケージ版のコピーを販売した場合には、
そのコピーの購入者が購入したコピー品を他者に販売することは禁じられている。また、そもそもパッケージ版のファイルを含むすべ
てを複製して販売することも禁じられている。他方、パッケージ版のコピーを自らが保有しておき、購入したパッケージ版それ自体を
他者に販売するという行為は、すでに見たように一般に広く行われており、現時点では容認されている。したがって、パッケージ版が
オリジナルであるかどうかは、そのソフトウェアのファイル群ではなく、ファイル群以外のパッケージ部分(外箱、内箱、ケース、記
録メディア、マニュアル等々の総体)において判断されていると考えられる。
  ここで、ダウンロード版の特殊性が浮かび上がってくる。上でパッケージ版について検討したとおり、少なくとも「商品としての」
ソフトウェア・ファイル群自体にはオリジナルがない。ということは、ファイル群のみの取引となるダウンロード版には、一見したと
ころ商品としてのオリジナルは存在しないことになるのである。しかしながら、これでは1人の者が1度その商品を購入しさえすれば、
彼が物理的に可能な範囲で無制限に配布できることになってしまう。したがって、パッケージ版に課せられている制限との間で整合性
を維持することができない。
  そこで、購入したパッケージ版を売却する際に制限として設けられていたことを思い出す必要がある。パッケージ版は、購入したパ
ッケージ版それ自体を販売する限りにおいて売却が認められていたのであった。すなわち、パッケージ版においては1回のみの販売が許
容されているのである。これをダウンロード版にも適用したとき、ダウンロード版は、それを手にした者がそれぞれ1回販売するか、
2回以上販売するかによって、パッケージ版と同値であるか、パッケージ版のコピーと同値であるかに分岐するという結論が得られる。
  それゆえ、「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」という事態は次の2つに区分されることになる。「正規ルート
で購入したダウンロード版を1回のみ販売すること」と「正規ルートで購入したダウンロード版を2回以上販売すること」である。そし
て、後者の場合には「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」が「正規ルートで購入したパッケージ版のコピーを販売
すること」と同値になるが、前者の場合には同値でないと言うことができるのである。
  なお、ダウンロード版は価格が相対的に低いが、これは再販売が禁止されている代償であると言うよりは、単にパッケージ版に特有
の費用(製造に係る費用と流通に係る費用の両方)を抑えられるからであり、したがってダウンロード版の再販売禁止の根拠としては
使えないと思う。

43:論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc
09/03/01 09:34:28 +WvfU+/q0
  要約版

◇パッケージ版のファイルをコピーしたものの販売やパッケージ版全体(ファイルのみならず、外箱、内箱、ケース、記録メディア、
マニュアル等々を含む総体)の複製品の販売を禁じているのは、ファイルに権利があると見なしているからであると思う。
◇つまり、本来のオリジナル性はファイルに帰属することになる。
◇しかし、製造会社が生産し、流通経路に乗せたパッケージ版それ自体の販売の連鎖はどこまでも容認されている。
◇このことから、私は「商品としては」ファイル以外の部分がオリジナルに当たると述べた。
◇ファイル以外の部分を「商品としての」オリジナル(識別符号)と見なすことによって、ファイル制作者の権利を侵害する行為から
ファイルを保護しているのである。
◇こうして、ダウンロード版販売禁止論者は、識別符号であるファイル以外を持たないために(1回の購入によって何度でも再販売する
ことが可能となる)ダウンロード版の販売は禁じられるべきなのであると考えていることが分かる。
◇しかし、これが問題なのは、正規ルートで金銭を支払って入手したという点では同じであるにもかかわらず、パッケージ版には冒頭
に挙げた制限付きでの販売を認め、ダウンロード版には問答無用で販売を認めないという立場が整合的でないからにほかならない。
◇しかも、販売は認められないと言いながら、製造業者から小売業者への販売は行われているのである。
◇正規ルートで金銭を代償にして購入した商品の販売が認められないならば、小売業者が消費者に販売することもまた禁じられ、した
がって製造業者が消費者に直接販売せねばなるまい。
◇また、パッケージ版でも1回の購入によって、あるいは購入すらせずに何度でも再販売することが可能である。
◇たとえば、本物と見紛うほどの複製品を許可なく製造する、他者から窃盗するなどの事態を想定せよ。
◇以上より、パッケージ版とダウンロード版との間の取り扱いに整合性を持たせるために、「正規ルートで購入したダウンロード版で
あるならば、1回のみの販売が容認されるべきである」ということが帰結する。

44:論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc
09/03/01 10:32:09 ZGiYmbZ/0
~全容解明編~


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45:学生さんは名前がない
09/03/01 13:29:16 Hm8dV0iUO
三四年前にいたやつだな


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