●○●ジャンプ編集部を語るスレ Part45●○● at WCOMIC
●○●ジャンプ編集部を語るスレ Part45●○● - 暇つぶし2ch465:名無しさんの次レスにご期待下さい
08/04/11 01:00:23 GtoYIYzn0
5代:堀江信彦(1993年 - 1996年)
早稲田大学卒業後、1979年に集英社に入社。「週刊少年ジャンプ」に配属され、1993年には同誌の5代目編集長に就任した。
在任中に史上最高の発行部数653万部を記録したものの、人気作品の引き延ばしに近い連載長期化と、
それに替わる有望な新人の不足という禍根(任期後半より人気作品の連載終了が相次ぎ、
その穴を埋められなかったジャンプは発行部数を大幅に落としていく)を残したまま、
「メンズノンノ」編集長に転属(当時の社内派閥抗争も原因のひとつとされる)。その後は「BART」の編集長を務めた。
編集者としては作家と二人三脚で作品を作り上げるタイプで、原哲夫、北条司らの担当を務めた。
『真救世主伝説 北斗の拳』(2006年 - )の共同脚本家でもある。
2000年に集英社を退社。現在は「週刊コミックバンチ」の編集や版権事業を手がける株式会社コアミックスの代表取締役。

6代:鳥嶋和彦(1996年 - 2001年)
1976年に集英社に入社し「週刊少年ジャンプ」編集部に配属され、以後一貫してジャンプ関連の雑誌・書籍の編集を担当。
メインである漫画の編集はもとより、企画ページ(「ジャンプ放送局」「ファミコン神拳110番」など)の編集や連載漫画のメディアミックスにも才能を発揮
(堀井雄二をゲームの世界に導くなど、『ドラゴンクエスト』誕生にも一役買っている)。
その流れから、1993年には創刊編集長としてゲーム雑誌「Vジャンプ」を立ち上げた。
1996年2月には「週刊少年ジャンプ」の売上低迷を打破する切り札としてジャンプ本誌に呼び戻され編集長に就任。
『遊☆戯☆王』など連載作品のメディアミックスを精力的に推し進めた。前体制から続く発行部数下落傾向の結果、1
997年には「週刊少年マガジン」に発行部数首位の座を奪われたものの、
この頃から『ONE PIECE』や『NARUTO -ナルト-』などの新人作家のヒット作が再び出てくるようになった。
以後2001年6月まで同誌の編集長であった。
その後、「週刊少年ジャンプ」「月刊少年ジャンプ」「Vジャンプ」を統括する第3編集部部長(取締役昇格後も2006年7月まで兼任)やライツ事業部部長となり、2004年8月には集英社取締役となる。
編集者として多くの漫画家を発掘・育成しており、中でも鳥山明、桂正和の2人が当人達の成功もあり特に有名。
彼等は様々な場面で鳥嶋を恩師と呼んでおり、鳥嶋が「Vジャンプ」を立ち上げた際に連載を行うなどと繋がりが深い。
鳥山については『Dr.スランプ』と『ドラゴンボール』の編集を、桂については『ウイングマン』の編集や『電影少女』の発案に関わっていた。

7代:高橋俊昌(2001年 - 2003年)
1981年(昭和56年)に、早稲田大学を卒業して、集英社に入社し、「週刊少年ジャンプ」編集部へ配属された。
彼の週刊少年ジャンプ編集者としてのスタンス、功績としては当時の週刊少年ジャンプの主流であった
編集長西村繁男などの方針である硬派路線に反し、美少女を描ける作家であった江口、まつもと、富沢、萩原、冨樫、などを次々発掘しつづけたところにある。
鳥嶋とともにVジャンプ創刊にも携わった。
2001年に「週刊少年ジャンプ」の編集長へ就任。前任の鳥嶋編集長同様、同誌に連載されている漫画作品のメディアミックスを精力的に推し進め、
発行部数で「週刊少年マガジン」を逆転し首位の座に返り咲いた。
2003年1月24日、東京湾内の船上で行われた同誌ONE PIECEのアニメ映画製作発表会の席にて突然倒れ、
救急車で病院に運ばれたがクモ膜下出血により急逝。享年44。

歴代編集長と比較すると茨木には実績というものがないような。


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