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参考「凡将を名将のように説明するスレ」
スレリンク(sengoku板)
織田信雄 (おだ のぶかつ・のぶお)
永禄元年(1558年) - 寛永7年4月30日(1630年6月10日)
織田信長の次男(出生順では三男と言われる)。
1570年、北畠家との和睦の条件として若干12歳にて北畠の養子となり、17歳ま
での間には、完全に織田領化するなど、戦後処理に卓越した手腕を発揮する。
また、北畠家時代には、伊賀の地侍の危険性にいち早く着目し、この点に鈍感で
あった父信長の勘気を受けてでも伊賀攻めを実施するなど、先見の明もあった。
1582年、本能寺で信長が非業に倒れると、近江方面に出兵する。このとき、明智
勢が退去した安土城に火をつけ、信長の菩提を弔った。信長追悼については、細
川幽斎の追悼連歌会や秀吉による大金を投入した葬儀が有名であるが、
この城そのものを信長の供物にするという豪儀な方法は、信雄の大気さを示すエピソード
といえよう。
朝倉義景 1533~1573
朝倉氏第十一代当主、別名「越前の虎」。
朝倉宗滴などの武断派の専横を御しつつ、朝倉家の最大版図を築く。
また義にも篤い彼は、都落ちしてきた将軍足利義昭の保護などもした。
盟友の浅井氏が織田信長に反旗をひるがえした際も、
時勢を見通せる彼は敵わぬと知りつつもこれに味方した。
一旦は信長に「天下は朝倉殿が持ち給え」とまで言わしめた彼だが、
最後は浅井氏との義に殉じ、一乗谷でその生涯を終える。
またその際、少しでも人命を救おうと一門の朝倉景鏡などに敵方に降伏を勧めたという伝承もある。
その後義景の遺体は、これを敬う信長によって金箔を貼られ丁寧に鎮魂されたという。