07/05/22 19:23:23 LzzTcka90
多くの日本人は、テレビの時代劇やチャンバラ映画で、誤った日本刀観を
抱いてしまっている。日本刀は素人が思うほど丈夫でなく、
またそんなに人間が大根のように斬れると言うものでもない。
剛の者でも、敵対した一人目は何とか斬り伏せても、二人目は血糊(ちのり)で
刀が引けなくなり、敵の躰に当たっても、決定的な致命傷を与えることは出来ない。
そして、三人目と対峙した時には、刀が飴の棒のようにグニャグニャに曲がっているというのが実情だ。
しかしこうした剣術も、江戸時代に入ると、実戦には役に立たないものになる。
多くの剣術流派も、戦場で通用するような斬り合いの為の武芸の伝承は、怠る傾向に
駛(はし)っていた。つまり道場内稽古に止まっていたのである。
単に木刀、もしくは袋竹刀を持って、一対一で相手の躰のポイント稼ぎの箇所に当て、
叩き合うというものに変貌する。
そして江戸末期の幕末になると、北辰一刀流の千葉周作(玄武館)のそれは、更に「叩き合い化」を極める。
この叩き合いは、これ迄の剣術とは大きく異なり、武士のみに限らず、その裾野を
町人にも広げたものであった。その為、軟弱化し、小手・面・胴を模した防具を付け、
その部分のみを打ち合って、優劣を競うという競技剣術が姿を顕わす。
そしてこれらは「打ち合う」というもので、「斬る」と言う戦場理論での思想は
完全に抜け落ち、実戦からは大きく後退した、競技の一種の武技になってしまった事は言うまでもない。
今日の近代剣道は、北辰一刀流の競技思想が基盤となっている。
こうした「打ち合う」競技思想は、乱世が治まった江戸時代の軟弱武士の登場に由来する。
江戸時代に入り、戦乱がなくなった時代、武士階級の間では、刀を必要以上に神聖視する傾向が生まれた。
武士の「表道具」である日本刀の「打刀」は、特に江戸時代に入って「栗型」に欠陥を露にした。
また「鞘」においても、鐡の刀身を厚朴(ほお)の木で包むという、
「世界でも珍しい軟弱な仕様」で作られた。柄も、鮫皮を巻いた上に、
正絹などを巻き突けた装飾品に近いものである。
江戸時代に流行した武士の打刀は、武器というより、むしろ装飾品に近く、激しく打ち合う戦闘には
あまり役に立たなかったと言えるようだ。
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