07/03/16 06:39:21 /W8NuaQg0
スポーツ史上その手のことがまったくありえないと思ってるのか?
だったら勉強不足
「ガリンシャ」・・・。ポルトガル語。学名、ミソサザイ。熱帯の密林に住む茶色の鳥。
この鳥―マヌエル・ドス・サントスは肢体不自由という身体障害者として生まれた。
このままでは死に直面したに違いなかったが、名もわからぬ若い医者がイチかバチかの危険な手術により命を救った。
しかし、先天性の欠陥は残ったまま。左右の脚は外側に向かって湾曲し、おまけに左足が少し短かった。
それでもマヌエルは普通の子供たちと一緒に遊んだ。サッカーはもちろんのこと、森にいる鳥、ガリンシャを
パチンコ玉で打ち落とすというかなり残酷なゲームにも興じていた。そしてこのゲームではいつも彼がトップで、
目の動きと同じように鳥を打ち落とすことができたので、みんなは彼をガリンシャと呼ぶようになった。
そしてサッカーでは比類なきドリブルの名人だった。
1953年(昭和28年)、17歳のとき、友人が彼をリオ・デジャネイロに連れていってくれた。
この友人は大胆で、普通はこんな田舎での少年を連れて行くとすれば小さなサッカークラブが相場なのだが、
友人はそこではなくボタフォゴという有名なサッカークラブのあるスタジアムへ連れていった。
ボタフォゴのトレーナーは彼の足を見るなりこう言った。
「いつから俺のところへ足の悪い奴が送り込まれるようになったのかな?俺をからかっているのか?」
トレーナーは嘲笑を浮かべながらも「君の一番得意なポジションはどこだ?」と聞くとガリンシャは「何だってできるよ。
でもライトウィングが一番好きだな」と答えた。トレーナーは薄ら笑いを浮かべて「じゃあやってみろ。
10分後に始めるから準備しな」そう言う。彼はこの足の悪い若造が故郷の密林にすっ飛んで帰るに違いないと思ったのだ
。というのも、テストで彼の相対するポジションにいたのはブラジルのみならず、
当時南米中にその名を轟かせたレフトバック、ニウトン・サントス('58年、'62年、'66年ワールドカップ出場)だったからだ。
だが、字を読むことも書くこともできないガリンシャはそんなことを知るはずもなく、何でこんな奴をと不満そうな
アシスタントトレーナーから投げ捨てるように与えられた、生まれて初めて履くサッカーシューズを見つめていた。
ところがニウトン・サントスとトレーナーたちは5分後にはガリンシャのその驚くべき能力を思い知らされることになる。
ボールがライトウィングの位置にくるとガリンシャはそれをとめてニウトンが近づくまで待つ。
彼が近づくとガリンシャはひょいと左へフェイントをかけ、次の瞬間にはさっとニウトンの右脇をすり抜けるように駆けてゆく。
はたから見ると、それはあたかも素人を相手にしているようで、世界一流のディフェンダーを相手にしているようには見えなかった。
彼はそんなプレーを5回も6回も繰り返し、その度にニウトンはなすすべもなく、ボタフォゴ・スタジアムの
干からびたピッチの上にへたり込み、呆気にとられながらガリンシャの後姿を目で追ってゆくしかなかった。
1時間も経つ頃、ガリンシャは生まれて初めての契約書を鞄にしまいこんだばかりか、彼を尊敬し、
賞賛してくれる生涯の友を得た。その友とはニウトン・サントスである。
彼はガリンシャが誰もがそっぽを向くようになってからも変わらず友情を持ちつづけた。
URLリンク(elparque.cside1.jp)
こういう話がリアルであるんだ
少年漫画はこういう夢を見せる漫画でなくてはならない