07/12/10 13:21:33
前から疑問だったんですが、
なぜ成都防衛の最終決戦に挑むに当たって出向いたのが、
あのメンバー(諸葛瞻ほか実戦向きとはいえない面々)だったんでしょ?
単純に当時の蜀軍における主力が剣閣周辺に集中していたこともあり、
その時点でまともな指揮官クラスが成都にいなかったという理由だったんですかね?
206:無名武将@お腹せっぷく
07/12/10 17:37:54
実戦指揮官はいないし、動揺する兵をまとめるには孔明の息子という虚声が必要なんでしょ
呉の陶濬が王濬艦隊の迎撃に出たとき、戦う前に兵は四散しました
207:Jominian ◆Henri9gNlM
07/12/10 23:03:35
>>203
そもそも、28万戸で94万口って事は、1戸当たり3人強って少なさだから、
戸数や口数、兵数なんかを単純には考えられないだろうね。
こればっかりは、少なくとも自分の読んだ史料には無いから分からんね。
ただ、華陽国志なんかを読むと、益州、特に広漢郡の辺りの収量はものすごいから、
3戸に1人の兵役でも、ある程度何とかなったのかもしれんね。
>>205
諸葛瞻の率いたのは、恐らくは虎の子の近衛兵だと思う。
当時の諸葛瞻は衛将軍・平尚書事だから、最後の決戦を指揮する事になっても、
官職などから言えばおかしくはないし、>>206の言うように、
諸葛亮の嫡子であるという名声もある。
正直、北伐に従軍した面子以外では、ライ降都督くらいしかまともな実戦を経験して無いだろうから、
候補の内で最も勝利の可能性があったのが諸葛瞻だったのかもしれんよ。
208:205
07/12/11 09:49:13
>>206-207
なるほど。
呉とは同盟関係にある以上、対魏戦線のほかというと、
南方対策か内乱鎮圧くらいしか実戦はないですものね。
閻宇が間に合っていれば閻宇だったかもしれませんが。
諸葛瞻率いる軍が自壊しなかったのは彼の名声に負うところも大きかったのかもしれませんね。
それにしても、御曹司にとって初めて大軍を率いるのが名将・鄧艾相手というのは、
やはり死を覚悟しての出陣だったんでしょうかね。
209:無名武将@お腹せっぷく
07/12/11 23:26:51
>>205>>207
成都から綿竹に赴いた面々の中に近衛兵を統轄する羽林右部督の李球がいるね。
それ以前に廖化、張翼、董厥を派遣しているから、おそらくこの時点で成都には
野戦軍としてまともに機能する戦力は無くなってたんじゃないかな。
そのせいで羽林なんていう近衛兵までが動員されたってことだと思うわけで。
210:無名武将@お腹せっぷく
07/12/12 00:49:47
瞻が羽林中郎将やってたよね
そのときまで兼任というのはないか
鄧艾が来たときに、実際どう判断したとかはどこにもないんだよね?
ショウ周の対応はあるけど
211:無名武将@お腹せっぷく
07/12/12 08:01:30
ショウ周伝読む限りじゃトウ艾が現れたときの対策会議で
議題に上がってるのが南方逃亡か呉亡命しかないあたり
諸葛瞻軍がまともな戦力として把握されていたようには思えないんだよね
劉禅が最終決定を下すまでの時間稼ぎでしかなかったんじゃないかなぁ
212:無名武将@お腹せっぷく
07/12/12 20:15:48
ぐだぐだの会議の結果、諸葛瞻が時間稼ぎに選ばれたというのを希望
本人もまじで?という感じで
213:無名武将@お腹せっぷく
07/12/13 06:44:24
>210
衛将軍だからな。形式的には羽林を含む近衛兵を指揮するには適任でしょ。
>211
諸葛瞻軍が破れた結果、対策会議が開かれたんじゃなかったっけ?
214:Jominian ◆Henri9gNlM
07/12/17 23:34:00
対策会議がいつ開かれたか、ってのは難しいね。
譙周伝の該当箇所では、まず鄧艾が江油を突破して長駆前進した事が書かれ、
その後に、鄧艾が既に陰平に入ったのを聞き、人々が山野に逃げ始めた事が書かれてる。
劉禅が群臣を招集した記述はその後の事だから、恐らくは江油が抜かれてからの事なんだろうけど、
「陰平に入ったのを聞き」という記述の扱いがよく分からん。
華陽国志だと「平地に入ったのを聞き」だから自然なんだけどね。
黄崇伝によれば、諸葛瞻は鄧艾が平地に侵入する前に涪に着いている。
地図で見ると、成都から涪までと、江油から涪までは殆ど距離は変わらない。
直線距離だと江油の方が近いけど。
いずれにせよ、江油陥落の報が成都に届いてから諸葛瞻を派遣したとすると、
史実の状況に間に合うか否かはぎりぎりくらいだと思う。
「諸葛瞻が強行軍で、涪に着いた時は軍勢の集結が十分じゃなかったから前進を躊躇した」
ってのは前に述べたけど、もしかすると、諸葛瞻の派遣が決定された時は、
「諸葛瞻は間に合わない」って成都で認識されていたのかもしれない。
ただ、早期に降伏を決めたにしては姜維への報告が遅れているので、
会議がぐだぐだ続き、結論の出ないまま諸葛瞻をとりあえず派遣し、
最終的に降伏が決まったのは鄧艾が雒城に入ってから、って感じかもね。
譙周伝でも、「鄧艾は既に近い位置にいるので降伏を受け入れない」という意見があったと言うし。
215:無名武将@お腹せっぷく
07/12/19 06:23:32
諸葛瞻は行都護も兼ねてるよね。
だから、張翼等が派遣された際に後詰めと言うか、後備のよな感じで涪に派遣されたのではないかな?
姜維、張翼等の後方支援的な立場で。
涪は劉備の入蜀時やショウエン時代も軍事上の要地でしたから。
216:無名武将@お腹せっぷく
07/12/19 19:15:27
>>214
> いずれにせよ、江油陥落の報が成都に届いてから諸葛瞻を派遣したとすると、
> 史実の状況に間に合うか否かはぎりぎりくらいだと思う。
鄧艾伝だと「先登至江由、蜀守将馬毣降。蜀衛将軍諸葛瞻自鄜還竹、列陳待艾」。
つまり江由が落ちたので諸葛瞻は鄜から緜竹に軍を下げたわけで、諸葛瞻を派遣したのは江由が落ちたというのを聞いて朝廷がパニックに陥るよりずっと前だと思うよ。
217:無名武将@お腹せっぷく
07/12/19 19:16:27
あ、「鄜」じゃなくて「涪」だわ。
218:無名武将@お腹せっぷく
07/12/19 19:17:06
「毣」も「邈」だし……
219:Jominian ◆Henri9gNlM
07/12/19 19:43:29
この件はよく分からんのよね。
黄崇の伝だと、涪への到達は鄧艾を防ぐ為に前進した後の事となっているし、
譙周伝だと、そもそも成都が鄧艾の侵入を知ったのが江油の落ちた後であるかのように書かれている。
諸葛瞻の伝だと、彼の派遣した(であろう)先鋒が敗れた為に緜竹に退いたとあり、
鄧艾伝だと鄧艾が江油を抜いた後、涪にいた諸葛瞻が緜竹に退いた事が書かれている。
ただ、鄧艾伝でも、江油を突破する前から諸葛瞻が涪にいたとは必ずしも言えないし、
黄崇伝でも、涪に到ったという記述の直前の、「随衛将軍諸葛瞻拒鄧艾」との関係も、
どこまでなのかは断言できない。
種々の記述を合わせて合理的に解釈するならば、もとより諸葛瞻は成都におらず、
剣閣で防御する姜維らの後詰として雒辺りに入っていたが、
鄧艾の陰平侵入を察知して涪まで前進し、逡巡しつつも先鋒を派遣したが敗れ、
緜竹まで後退すると共に鄧艾の平地侵入を成都に報告した、と考えるのが良いのかもしれない。
220:無名武将@お腹せっぷく
07/12/19 20:14:40
>>219
> 涪への到達は鄧艾を防ぐ為に前進した後の事
「隨衛将軍諸葛瞻拒鄧艾。到涪縣、瞻盤桓未進、崇屢勸瞻宜速行據險、無令敵得入平地。瞻猶與未納、崇至于流涕。
會艾長驅而前、瞻卻戰至綿竹、崇帥厲軍士、期於必死、臨陳見殺」(黄崇伝)
この場合の「隨衛将軍諸葛瞻拒鄧艾」は以下の文の目的ではなく、以下の文の要約とは取れないかな?
「六年冬、魏征西将軍鄧艾伐蜀、自陰平由景谷道旁入。瞻督諸軍至涪停住、前鋒破、退還、住竹」(諸葛瞻伝)
これもそうだけど鄧艾の軍の動きは単に事実を記述しただけで、その後の諸葛瞻の動きはそれを受けたものだとは必ずしも言えないんじゃないかな?
いずれにしても諸葛瞻がいつ成都を進発したかについては「鄧艾が陰平に侵入してくるよりも以前である」としても、どの記述とも矛盾は生じないと思う。
221:Jominian ◆Henri9gNlM
07/12/19 21:01:05
>>219
正直、これはどうとでも取れると思うよ。
読み方によって、黄崇伝や諸葛瞻伝も、鄧艾が来る前から涪にいたとしていなかったとしても、
そう大きな矛盾は生じない。鄧艾伝にしたって同様だしね。
どう解釈するのが最も蓋然性が高いかを、自分で判断するしかないと思う。
どっちをとっても、相手の意見を覆させるほどの違いは無いだろうしね。
222:無名武将@お腹せっぷく
07/12/20 15:26:50
追加の動員とかしてたんだろうか
禁軍を派遣するのは魏も良くやってたけどさ
223:無名武将@お腹せっぷく
07/12/28 00:10:55
全然関係ないんですが、三国鼎立時代の宦官のことを知りたいです。
何か良い本などありませんか?
224:無名武将@お腹せっぷく
07/12/28 02:21:25
「宦官」三田村泰助/中公新書
「宦官」顧容・葛金芳/徳馬書店
古いか…
225:223
07/12/28 23:01:55
>>224
ありがとうございます。
さっそく図書館で探してみます。