07/06/28 23:39:14
戦国時代、四国で興亡を繰り広げた戦国武将について語ろう。
URLリンク(ja.wikipedia.org)(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
東四国(阿波・讃岐)は近畿に近いだけでなく、細川氏の勢力基盤でもあったから、近畿の政争にしばしば巻き込まれた。
しかし、周囲に敵たる勢力は存在せず、長宗我部氏の四国統一戦までほぼ領主の顔ぶれは替わらなかった。
阿波は細川氏が支配した。のち撫養の三好氏に実質的に取って代わられるが、細川氏自体は江戸時代まで阿波屋形とし
て存続した。戦国時代には勝瑞城が阿波統治拠点となった。
讃岐は東讃岐は守護代の安富氏が統括していたが、のち三好氏一族の一存を迎え入れた木田郡・植田一族の十河氏が
三好氏の代官として勢力を伸ばし、早い段階で東讃岐を総括した。西讃岐は守護代の香川氏が毛利氏などと結んで当初は
三好氏と対立するが、善通寺合戦後、三好氏の支配下に入った。しかし三好氏が衰えると彼らは織田氏へなびくようになる。
伊予は守護の河野氏が中予、伊予宇都宮氏が大洲一帯、西園寺氏が南予を割拠したといわれる。地理的に細長く山岳地
帯が多い上に、中国・九州と近いために常に毛利氏・大友氏の干渉に晒されることになり、一国を統一し他国へ侵略するよう
な勢力を持てずに終わった。しかし、長宗我部の侵略に際しては頑強に抵抗した。
土佐の守護は細川氏であるはずだが、七守護と称した豪族が土佐中央部に割拠、幡多郡に疎開してきた一条氏を盟主と
仰いだ。一条氏は七守護の3倍強の力を持って土佐政治に関与した。のち、一条氏の援助によって再興成った長宗我部国
親・長宗我部元親が七守護や一条氏を追放して土佐を統一する。そして信長の協力を得て四国を統一した。
淡路は守護・細川氏が統治していたようだ。 のち、秀吉の四国征伐のため長宗我部氏は土佐一国に押し込められる。戦
後処理を見てみると、秀吉は阿波に蜂須賀家政、讃岐に仙石秀久、伊予に小早川隆景と信任できるメンバーを集めている。