07/04/30 06:30:52
陳国生殖省・辺児子県の人とは別人?
10:無名武将@お腹せっぷく
07/04/30 14:05:07
>>9
陳国生殖省・辺児子県は3世紀の陳国志時代の人
こちらの陳歩は16世紀の人物。火器も発達している。
11:無名武将@お腹せっぷく
07/04/30 14:08:26
【舞蹴瑠・蛇区尊(マイケル・ジャクソン)】
南蛮の人で宣教師。大陸や島国に「てっぽう」というものを伝える。
彼の教えにより島国では男色が流行ったという。
12:無名武将@お腹せっぷく
07/04/30 14:31:29
【ペドロ・リー(厨国名:李姦幼)】
南蛮人と厨国人のハーフで、通訳として舞蹴瑠・蛇区尊に帯同した
13:無名武将@お腹せっぷく
07/04/30 19:35:21
【満臭族(まんしゅうぞく)】
大陸の北方に住む民族。厨国や姦国(尿道炎の姦王朝は別の国。)に度々侵入した。
【弐翻(にほん)】
大陸の西方にある島国。群雄割拠の内乱状態にあるが、諸侯が富国強兵に励んでいる
ため厨国以上の火器を保有する軍事国家になりつつある。
【高砂(たかさご)】
大陸の西方にある小さな島。南蛮人の植民地になりつつある。
14:無名武将@お腹せっぷく
07/04/30 19:40:40
【愛新覚羅・根童夢(あいしんかくら・こんどーむ)】
満臭族の族長。半島に度々侵入し、姦国を征服した。その後、厨国に侵入する
が返り討ちにあい討ち死にする。
15:無名武将@お腹せっぷく
07/05/06 12:55:12
【芙虞莉(ふぐり)】
陳歩に挙兵時からつき従っていた古参武将の一人。
元は一兵卒からの叩きあげで、軍に身を投じたのは
貧しさから抜け出すためである、と公言していた。
義兄弟の黄顔(こうがん)とともに各地を転戦する。
青天関(せいてんかん)の戦いで満臭族の将軍、許靖(きょせい)を
相手に死闘を繰り広げるも玉砕してしまう。
16:無名武将@お腹せっぷく
07/05/06 14:55:18
【淋廟(りんびょう)】
【概要】
西廟の義兄弟で常に先鋒を任されていた猛将。その死まで西廟に付き従った。
当時の人々には「淋廟は西廟の一種なり」と呼ばれるほど親しかったという。
【生涯】
■奴隷から賊将になるまで■
満臭族の出であったが、5歳の頃に厨国人に捕らえられ奴隷として売られる。
10歳の頃、同じ奴隷の境遇に会った西廟と出会い、義兄弟の契り結ぶ。
やがて世の中が混乱してくると主人を殺して脱出、西廟と共に盗賊や乞食を
集めて勢力を興す。なお彼らが賊の大将となれたのは淋廟に武勇があったのおか
げである。
■賊軍の豪将として■
西廟は賊軍として官軍や新興教団、他の盗賊集団と戦いつつ勢力を拡大するが、
淋廟は常に軍の先頭に立って戦い、敵対勢力を震え上がられた。とくにこの時期
賊将梅毒との一騎打ちは名高い。しかし圧倒的な戦力を誇る陳歩軍にはかなわず
西廟軍はその傘下に降ることとなる。
■その死まで■
その後、陳歩軍の将として関中遠征に従軍、異民族討伐にも参加した。
煩悩寺の変により西廟が皇帝の位に就くと国号は「淋」とされた。そして後継者
は淋廟であると宣言している。これは西廟が性的不能であったためであると
共に、いかに淋廟を信頼していたかが伺えることでもある。しかし彼は西廟の
後を継ぐことは無かった、惑珍山の戦いのときに西病の身代わりとなって先に
死んだからである。享年40才であったという。
17:無名武将@お腹せっぷく
07/05/07 18:39:10
【方慶(ほうけい)】
陳歩に挙兵時からつき従っていた古参武将の一人
陳歩とは幼馴染で常に陳歩に付き従い護衛を勤めた忠臣だったが陳歩軍内での
権限が強まるにつれ、しだいに驕慢な態度を見せるようになる
陳華栖(チンカス)、狗催(クサイ)、芙傑(フケツ)らと派閥を組み命令無視や軍令違反
を繰り返すに至り、陳歩も見過ごすことはできなくなり上野(ジョウヤ)に命じ暗殺させる
泣いて方慶を斬るの故事はあまりにも有名である
【上野(ジョウヤ)】
字は栗肉(クリニク)、陳歩配下の武将
方慶との友情から処分に悩む陳歩に「方慶は百害あって一利なしです」と決断を促し、
陳歩の命を受け方慶を斬った人物
陳歩は長年の友である方慶の死を寂しく思ったが、方慶を斬ったことで一皮剥けた
大人の武将へと成長したと言われている
18:無名武将@お腹せっぷく
07/05/07 19:28:32
【腹維汰(はらいた)】
雲国に使える猛将。兵法にも通じており戦場での勘は雲国随一。
外李とは堅い友情で結ばれており、共に先陣を務めることもあった。
痛禁羅守(つうきんらっしゅ)の戦いにおいてわずか100騎で斉魯玩(せいろがん)率いる犯都(ぱんつ)城を奇襲、陥落させた。
この敗戦以来、陳歩は常に身辺警護をつけるようになったという。
この報せを受けた雲香は喜び、雲馳出馬雛破迂亜(うんちでますうはうあ)と呼ばれる名馬を与えた。
19:無名武将@お腹せっぷく
07/05/07 20:15:20
こないだお宝鑑定に陳歩の直筆の書が出てたぞ。鑑定額は400万円だった。
20:無名武将@お腹せっぷく
07/05/07 20:16:03
URLリンク(ja.uncyclopedia.info)
↑アンサイクロペディアの陳歩
21:無名武将@お腹せっぷく
07/05/08 04:33:44
あげ
22:無名武将@お腹せっぷく
07/05/12 06:01:47
笑わすなw
23:無名武将@お腹せっぷく
07/05/13 16:38:51
【陳歩(チンポ)1578~?】
陳の将として精兵、正士(せいし)を率いて北朝の北周や隋との戦いに明け暮
れた。特に隋の将、萬戸(まんこ)との死闘は名高く、「陳に陳歩あり」と隋
の将兵を震え上がらせることとなった。しかし隋の策略家、斉苗(せいびょ
う)の「不能の計」にかかり主君である陳叔宝から隋と通じていると疑われ刑
場の露と消えた。彼の死は陳朝の死といっても過言ではなかった。隋の文帝は
彼の死を大変惜しんでいたという。
24:無名武将@お腹せっぷく
07/05/13 21:46:27
華吏・首
25:無名武将@お腹せっぷく
07/05/14 01:02:00
URLリンク(www.geocities.jp)
これとは別伝?
26:無名武将@お腹せっぷく
07/05/14 02:29:33
結城晶の新技きゃ?
27:無名武将@お腹せっぷく
07/05/14 11:57:22
>>25
時代が違う。
28:無名武将@お腹せっぷく
07/06/01 18:02:55
おい落ちそうだぞ
29:無名武将@お腹せっぷく
07/06/01 18:16:31
陳歩将軍は穴留の計も得意だったんだよな・・・
しかしこれは一か八かの策だった・・・号館の戦いで配下の貴塔将軍が重傷をおってしまうとたちまち軍勢が崩壊して一時は陳歩危うしだったんだから・・・
30:無名武将@お腹せっぷく
07/06/01 22:21:24
貴塔
陳歩配下でその人ありと称された人物。
序盤の陳歩劣勢の時(笛羅の戦い)には陳歩を守るため城を守り切った、陳歩は貴塔を堅貴塔と称した。
陳歩が満戸と戦う際(号館の戦い)に奇襲作戦として穴留の計を提案し実行するが、門が固かった為に攻め落とせず負傷、その傷がもとで死亡してしまう。
陳歩は彼に亀侯と諡をした
31:無名武将@お腹せっぷく
07/06/01 22:25:58
陳解(チンゲ)字は胤猛(インモウ)
陳歩の従弟にあたる人物。陳歩が群雄として動きだしたときにはまだいなかったらしい。
陳歩が十二の時に生まれたとされるが、人によって諸説ある。
妄蝶の戦いにて戦死したが、後の史書にも生きているとして書かれている謎の人物。
32:無名武将@お腹せっぷく
07/06/01 22:31:03
苦李兎利酢(クリトリス)・字は音覚(インカク?)
満戸配下の猛将。ゲリラ戦法を使い、普段は森に隠れているが陳歩軍がやってくるといきなり現れて攻撃を加えたとされる。
陳歩配下の煤武(バイブ)に一刀で斬られてしまう。
33:無名武将@お腹せっぷく
07/06/02 12:55:54
ペレ
言わずと知れたサッカーの神様。
陳歩が満戸との戦いに対して戦意を失ったときCMにて陳歩を励ました伝導師。
34:無名武将@お腹せっぷく
07/06/02 12:58:18
絶麟
陳歩が搭乗していた名馬。
何度倒されても立ち上がる不屈の名馬。
絶麟がいなければ陳歩は満戸を破ることは出来なかったであろうと言われている。
35:無名武将@お腹せっぷく
07/06/03 16:29:49
笛羅の戦いについて詳しく教えて下さい。
36:無名武将@お腹せっぷく
07/06/03 16:45:34
第1試合 HERO'Sルール 5分3R
○J.Z.カルバン (1R:26秒 TKO) ●ナム・ファン
第2試合 HERO'Sルール 5分3R
●イザイア・ヒル (3R:判定 1-2) ○永田克彦
第3試合 プロエリート&ショウタイム提供試合 5分3R
●ティム“ビッグ・パーム”パーシー (2R:50秒 TKO) ○ジョナサン・ウィーゾック
第4試合 ProElite & SHOWTIME提供試合 HERO'Sルール 5分3R
○ジェイク・シールズ (1R:2分6秒 裸締め) ●イド・パリエンテ
第5試合 HERO'Sルール 5分3R
●ジョニー・モートン (1R:38秒 KO) ○ベルナール・アッカ
第6試合 HERO'Sルール 5分3R
○マイティ・モー (1R:1分33秒 TKO) ●ルーベン・”ウォーパス”・ヴィラレアル
第7試合 HERO'Sルール 5分3R
●メルヴィン・マヌーフ (2R:1分17秒 アームバー) ○ユン・ドンシク
第8試合 HERO'Sルール 5分3R
●ブラッド・ピケット (1R:2分41秒 アームバー) ○所 英男
第9試合HERO'Sルール 5分3R
●桜庭和志 (3R:判定 0-3) ○ホイス・グレイシー
第10試合メインイベント HERO'Sルール 5分3R
○ブロック・レスナー (1R:1分9秒 マウントパンチ) ●キム・ミンス
広告ポチでいいだろうが。
37:無名武将@お腹せっぷく
07/06/04 22:03:46
笛羅の戦い
別名・笛羅知欧の戦い
勢いにのる新鋭・陳歩将軍がすでに名のある武将で、深きこと谷の如し、と称された満戸将軍と激突した戦い。
しかし、実際には陳歩軍は満戸将軍とは戦えず、笛羅門の衛兵に破れ去った。
38:無名武将@お腹せっぷく
07/06/04 22:11:26
破れる間際、自棄になった陳歩軍は、笛羅門を後ろから突く強行策・穴留の計を繰り出すが陳歩将軍は配下の貴塔に重傷を負わせてしまう。
満戸将軍は空かさず退却する陳歩に対して奇城異の計を仕掛け、陳歩を追いコンだ。
しかし、ここは陳歩配下の臥幡爾劉(ガマン・ジル)がなんとか食い止めて陳歩は助かった戦い。
39:無名武将@お腹せっぷく
07/06/06 22:12:09
煤武(バイブ)・・・陳歩配下の将。字は巌颶(がんぐ)。通称・音無の巌颶(おとなのがんぐ)
音覚(インカク)を討ち取ったこともある。
駆け引きが巧いことから満戸の配下を数多く斬り殺した猛将。
陳歩の代わりに出陣した際体力切れしたところに満戸本隊があらわれ攻撃され勃ったまま力尽きたと言われている。
諡は揺侯
40:無名武将@お腹せっぷく
07/06/07 17:29:12
勢力とかがわかりづらい
満古は独立勢力じゃなくて隋の武将だったの?
41:無名武将@お腹せっぷく
07/06/07 21:46:24
■陳歩(ちんぽ)■
①伝説化している陳・満・雲時代の陳国の名将。
②下層からはい上がった北陳の皇帝。
③南北朝時代の陳の名将。
42:無名武将@お腹せっぷく
07/06/07 22:10:02
【陳歩(チンポ)1578~?】
姓は陳、名は歩。陳、満、雲鼎立時代や南北朝時代の陳歩とは別人であり、
むろん末裔と言うわけではない。
一代で大陸の半分を征服した傑物。絶倫大将軍の異名を持つ。
【勃起村の自警団時代】
農民の出で、大陸の辺境「勃起村(ぼっきむら)」で生まれる。地元の英雄、陳歩にあや
かって「歩」と名づけられる。成長すると彼は実にまじめな百姓として清く正しく慎ま
しく暮らした。普段は小柄で温厚であったが、怒りで興奮すると何倍を大きく見え村人
から頼られる存在だった。その頃、厨国は北方人や島国の海賊の侵入で衰え治安は極度
に悪化していた。そのため勃起村が盗賊団に襲われることもしばしばあった。村の名士
はそのたびに盗賊団に多額の身代金を払っていたのだが、村人はそれに我慢できずつい
に自警団を組織するにいたる。人気のあった陳歩は村の若者たちによってその自警団の
団長に担ぎ上げられた。陳歩率いる自警団は度々、盗賊団を大破しその名を近隣に知ら
れるようになる。やがて他の村から依頼され複数の村を守備するようになり組織も拡張
されていった。勢力の拡大を危険視され政府から解体命令が出された。
方慶らはこれに反対したが陳歩は仲間たちを説得し軍団を解体し元の生活に戻るのだった。
43:無名武将@お腹せっぷく
07/06/07 22:39:30
陳歩2
【挙兵】
1605年、ついに袁庫の乱(えんこのらん)が勃発、これを機に各地で軍閥の独立、
一揆などが相次ぐ。朝廷には各地の反乱を討伐する力はなく、地方の有力者に
位を与え、鎮圧させる方針を取る。そのような流れの中で陳歩の元にも朝廷の
使者が訪れ、義勇軍を編成して反乱軍を討伐するようにと命ぜられた。
陳歩は自警団時代の仲間を集め義勇軍を編成。さらに彼自身の名声は勃起村周辺
では大変高くなっており、周辺の村々さらにはかつて討伐した盗賊たちも加わり
(元盗賊団も参加したのは、陳歩が降伏したのには極めて寛大であり、敵であって
も戦いの後は打ち解けあえる魅力の持ち主であり、その徳を慕って来たからである。)
たちまち5000人を超える大軍となった。芙虞莉、方慶、上野ら名将はこのときにはすでに
勢ぞろいしていた。
【連戦連勝】
朝廷への忠節を掲げ決起した義勇軍は数多くあったが、陳歩軍の強さはその中で群を抜い
ていた。自警団時代の経験と人材は各地の反乱軍を圧倒し、たちまち1州を押さえ、軍団
は3万人にまで膨れ上がった。だが朝廷は満古によって滅ぼされてしまう。
朝廷の滅亡に陳歩は強い衝撃をうけ泣き崩れたという。彼は逆賊満古を討伐しようとする
が部下に時期尚早であると説得され、まずは北方に地盤を固めることとした。
【北方の覇者】
当時、北方は弁王朝の衰退と崩壊に乗じて満臭族の占領下あった地区と、各地で
蜂起した反乱軍中最強であった西廟軍の勢力圏と陳歩軍の勢力の三つもどえ状態
であった。細かい経緯は省くが、陳歩は満臭、西廟らの勢力を駆逐、吸収し北方
の覇者となる。こうして黄河以北に強力な基盤を得た陳歩は満古との決戦の準備
にかかった。
44:無名武将@お腹せっぷく
07/06/07 23:00:39
陳歩3
【瀬宮州の戦い(せくすのたたかい)】
1610年、瀬宮州の戦いの戦いが始まる。1400年前の陳満雲鼎立時代、名将陳歩
と満の将、満黄が激突したあの瀬宮州である。陳歩と満古の対決は5回、12年余り
に及ぶ激闘であった。とくに第四回、瀬宮州の戦いでは陳歩と満古が一騎打ちに
なってしまうというほどの激しい戦ぶりとなる。陳歩は満古は逆賊として憎みなが
らも宿命のライバルとの戦いに強い快感を感じてしまうのだった。
【北陳皇帝】
1623年、ライバル満古は病死した。陳歩と激しくやり過ぎたの原因と思われる。
陳歩はもう満古の死を聞くと泣き崩れ絶望に打ちひしがれ、一挙に老け込んでし
まい人々はまるで満古とやれなくやって陳歩は縮んだようだと噂した。
満古の子らには陳歩とやり合うほどの人物はなく、まもなく軍門に降る。
また長江以南の諸侯も一応、陳歩に従ったため、陳歩に頑強に抵抗するのは四川
のみとなった。(ただし陳歩の権力が直接及んだのは長江以南のみである。)
陳歩は1625年、陳歩は北陳皇帝に就任する。
45:無名武将@お腹せっぷく
07/06/07 23:13:56
陳歩4
【煩悩寺の変】
陳歩は天下統一に向け四川討伐軍を編成した、陳歩軍本隊、旧満古軍、西廟軍団
南方諸国からなる計50満の大軍である。もう覇業の達成は目前であった。しかし
四川総攻撃の5日前、煩悩寺の変でわずかな部下とともに休息を取っていた陳歩
は突如、西廟の大軍に襲われ殺される。1627年、享年49歳であった。
何故、陳歩は殺されねばならなかったのだろう。近年の研究では単なる西廟
の暴走ではなく、四川や南方諸国ら絡んだ壮大な陰謀であったことが明らか
となっている。陳歩が天下を取れば、西廟のような猛将は不用になるし、北陳の
軍門に降った南方諸国もいずれ解体されることは必定であり、利害の一致により
密約が交わされていたようである。陳歩が死ぬことを事前に知っていたとしか
思えない、その後の南方諸国や四川軍の手際の良すぎる動きにより北陳の勢力は大きく
衰えるととなるのである。このとき北陳にとって一番頼りになったのは満古の残党で
あったことは皮肉なことである。
46:無名武将@お腹せっぷく
07/06/07 23:23:47
股陳歩蚊
この時代の文献によくでてくる蚊。股周辺を好んで刺したらしい。
47:無名武将@お腹せっぷく
07/06/08 01:20:05
御那二(おなに)の戦い
陳歩と三魏手(みぎて)との一騎打ちにより終幕を見た戦い。
三魏手の握力は強く、陳歩は身動きがとれなくなったという。
陳歩も疲れを隠せなかったが、やがて三魏手も退いた。
48:無名武将@お腹せっぷく
07/06/08 01:34:57
突如二人の間に白馬が一頭突っ込んできた。
これ天のおつげか、と二人とも陣に引き上げた。
二人を静止させたので聖子馬とのちに呼ばれることになる。
ちなみにこの馬引き上げる陳歩になつくようについていった。
何かを感じた陳歩はあくる戦いで聖子馬に騎乗、みごと三魏手を斬り倒すのだった。
49:無名武将@お腹せっぷく
07/06/08 17:11:46
【南方諸国(南方諸国)】
長江以南の5ヶ国を南方諸国という。元官軍や蜂起軍などが群雄化した国々。
強い国家の順番に記す。
国号 首都 建国者
任(にん) 南京 袁皓(えんこう)
清(しん) 広州 思多羅(したら)
至(し) 長沙 楚駆(そく)
茶(ちゃ) 武漢 任臣(にんしん)
烏(う) 南昌 士太(した)
50:無名武将@お腹せっぷく
07/06/08 17:13:14
【南方諸国(なんぽうしょこく)】
長江以南の5ヶ国を南方諸国という。元官軍や蜂起軍などが群雄化した国々。
強い国家の順番に記す。
国号 首都 建国者
任(にん) 南京 袁皓(えんこう)
清(しん) 広州 思多羅(したら)
至(し) 長沙 楚駆(そく)
茶(ちゃ) 武漢 任臣(にんしん)
烏(う) 南昌 士太(した)
51:無名武将@お腹せっぷく
07/06/08 17:23:30
【斉翼(せいよく)】
関中に割拠した群雄。陳歩の将、西廟の関中遠征によって討たれる。
■その生涯■
斉翼は弁王朝の西安の長官であった。満古が弁を滅ぼすと斉翼は満古討伐を
宣言し、名望を集め斉翼はいよいよさかんとなった。ところが満古と一戦や
り合うと斉翼はたちまち衰えた。そのため満古と和睦する。
その後、陳歩と満古の戦いが始まると和睦を破り、陳歩と輪姦条約を結び満古
に宣戦する。
斉翼は再びさかんとなったが、またもや満古と一戦すると急速に衰えた。
斉翼は満古と再び和睦する。
斉翼の日和見に怒った陳歩は西廟に関中討伐を命ずる。満古戦いで衰えていた
斉翼はたちまち西廟の餌食となり討たれる。その後、関中は西廟の藩国となった。
52:無名武将@お腹せっぷく
07/06/08 17:28:57
【四川国(しせんこく)】
四川の宗教国家で近寄りがたい雰囲気があった。生贄、食人の儀式もあったという。
建国者は性別、年齢不詳の聖天関なる人物だが実在すら疑わしい。記録に残ってい
るのは周辺国との戦いの際に信徒を率いていた者や他国への使者などで内部事情は
不明な点ばかりである。周辺諸国の併合の試しにも頑強に抵抗し独立を保つ。
53:無名武将@お腹せっぷく
07/06/08 18:21:40
【牌乙(ぱいおつ)】
満古配下の武将、爺割府(じいかっぷ)の出身
山岳地での戦いを得意とし、第一次瀬宮州の戦いにおいて瀬宮州に
進軍する陳歩軍を寡兵で谷間に誘い込み左右から挟み撃ちにした
名高い牌釣り戦法である
陳歩数少ない敗戦であったが、「満古を一目見るまでは逝くわけにはいかん!」と
気合を入れ、不意を突かれて圧倒的不利な地形で被害を最小限にとどめて退却を
果たし、敗戦後すぐに瀬宮州の戦いに向かう辺りは流石陳歩は名将中の名将と
言えるだろう
54:無名武将@お腹せっぷく
07/06/08 19:40:14
>>42-45(訂正)
①陳歩の直轄領は関中、襄陽を除く長江以北である。
②朝廷とは当時の弁王朝のことである。
55:無名武将@お腹せっぷく
07/06/08 19:47:35
【鳥銃(ちょうじゅう)】
西方の大和の国から伝来した新式火器。その殺傷力、命中率は厨国、弁時代の
火器をはるかに凌駕した。陳歩や満古はこの鳥銃の導入に積極的であり、保守的
な臣下の意見を押し切って大規模な生産、配備を推し進めた。
鳥銃の導入は他の群雄を大きく引き離し飛躍する原動力の一つとなった。
56:無名武将@お腹せっぷく
07/06/08 20:06:48
肥の武将ファイルに書かれた陳歩
【陳歩(チンポ)1578~1627年、享年49歳】
統率:89 武力:87 知力:97 政治:97 魅力:91
英雄として名高い陳歩だけにすべての面において高い能力を有す。ただし彼の
覇業は優れた臣下たちを召抱えることができた点が大きく、戦に関しては一般
に思われているほど強いわけではない。彼の本領は政治力と組織力。そして多数
の部下をひきつけ続けた魅力にこそある。だたし最後には部下に裏切られた陳歩
であるので魅力は多少割引して評価した。
■シナリオごとの陳歩軍の戦力と戦略■
自警団時代⇒たかが自警団だが、武将が極めて優秀なのでこのままでも十分乱世で
生き延びられる戦力を有す。
群雄時代⇒周辺に対抗馬となるような勢力はない。早々に滅ぼし拡大を図ろう。
河北の役⇒とにかく人材が優秀なので他の二勢力よりかなり有利。多少の物量差は
簡単にひっくり返すことができる。ただしノロノロしていると満古の大軍が北上して
くるのでそれまでには北方を押さえないとつらい。
瀬宮州の戦い⇒満古軍の武将はとにかく武闘派多くまともに戦うと被害が大きい。
外交で南方や斉翼と結び、徐々に追い詰めていこう。
煩悩寺の変⇒イベントにより西廟、南方は即裏切る。陳歩自身の生還は絶望的なので
正しい後継者の選択が建て直しの鍵となる。
57:無名武将@お腹せっぷく
07/06/09 12:18:49
智楼の戦い(チロウノタタカイ)
陳歩軍と満戸軍のかつてないほどの持久戦である。
決着をつけようと策を用いる両者だったが
戦の後陳歩はしばらく自信を失ったという。
満戸軍といえば敗戦したわけではないが、陳歩とは戦いたくないという雰囲気であった。
58:無名武将@お腹せっぷく
07/06/09 13:18:56
さすがは陳歩スレだ。何度でも蘇る。
59:無名武将@お腹せっぷく
07/06/09 13:41:34
【聖天関(せいてんかん)】
宗教国家四川国の教主。年齢、性別などすべて不詳の謎の人物。実在かどうかも
疑られている。
60:無名武将@お腹せっぷく
07/06/09 20:17:50
【股陳歩蚊(またちんぽか)】
この時代の文献によくでてくる蚊。股周辺を好んで刺したらしい。
そして伝染病を撒き散らした害虫である。
乱世による農村の荒廃により荒れ果てた田畑が増えた。ここを住みかとして
爆発的に増えたものと思われる。
北陳成立以後は地方の再建が進んだためこの害虫は減少した。
なお、厨国の伝説によると陳解(チンゲ)は世界初の衛生政策を行い、股陳歩蚊
の効果的な駆除をおこなったといわれる。
61:無名武将@お腹せっぷく
07/06/09 20:30:31
■1605年の袁庫の乱直後の厨国の情勢■
弁皮 洛陽 ≪弁皇帝・官軍≫
陳歩 天津 ≪義勇軍・官軍≫
満古 陳留 ≪独立勢力・賊軍≫
雲固 蘭州 ≪太守・官軍≫
斉翼 咸陽 ≪太守・官軍≫
西廟 太源 ≪流軍・賊軍≫
聖天関 成都 ≪宗教国家・賊軍≫
満戸 青島 ≪流軍・賊軍≫
袁皓 南京 ≪塩賊・賊軍≫
思多羅 広州 ≪江賊・賊軍≫
楚駆 長沙 ≪賊軍≫
任臣 武漢 ≪賊軍≫
士太 南昌 ≪賊軍≫
満臭族 北京 ≪異民族≫
62:無名武将@お腹せっぷく
07/06/09 20:35:16
■石田三成(せきでん・さんせい)■
大連に住み着く一族の長。弐翻の名族であったが戦に破れ亡命して住み着いていた。
袁庫の乱後に群雄化する。
63:無名武将@お腹せっぷく
07/06/09 20:43:10
【成系(せいけい)】
姓は成、名は系。字は外科。・・・と言われるが確かなことは不明。
謎に包まれるカルト国家、四川国の武将。
64:無名武将@お腹せっぷく
07/06/09 20:46:36
陳歩は童教の主神。
65:無名武将@お腹せっぷく
07/06/09 20:48:31
横山先生の次回作は「北陳帝陳歩」の予定だった。それが読めなくなるとは
実に残念だ。
66:無名武将@お腹せっぷく
07/06/09 20:49:53
むむむ
67:無名武将@お腹せっぷく
07/06/09 20:50:51
むむむ
68:無名武将@お腹せっぷく
07/06/09 20:52:23
あげ
69:無名武将@お腹せっぷく
07/06/09 21:21:42
■満古と陳歩・柴田遼太郎■
「陵辱がゆく」と並ぶ「柴田遼太郎」の代表作の一つ。
猛将満古と人徳の人陳歩の対決を第四次瀬宮州の戦いを中心に描きだす。
70:無名武将@お腹せっぷく
07/06/10 11:06:56
■■■年表■■■
1605年 袁庫の乱
1607年 弁王朝滅亡
1608年 笛羅の戦い
1617年 御那二の戦い
1610~1622年 第一次~第五次、瀬宮州の戦い
1625年 北陳の成立
1627年 煩悩寺の変
71:無名武将@お腹せっぷく
07/06/10 11:18:20
【袁庫(えんこ)・生没年?~1625年】
袁庫は偽名であり。本名は姓は袁(えん)、名は如(じょ) 字は公才(こうさい)
若きころから弁王朝に反感を持っており反政府活動をしていた。
袁庫の乱では一躍盟主的な存在となるが、あまりにも急速に拡大したため制御不能
となる。弁朝の首都洛陽を落とした満古に反乱軍盟主として入場させるように要求
するが「袁庫に入れさえるほど安い満古ではないと」と断られる。
激怒した袁庫は大軍で洛陽に迫るが、親寺狩の戦い(おやじがりのたたかい)で大敗する。
その後は南京の袁皓の元へ逃げ、世話になるが、1625年に袁皓が一時、北陳の軍門へ
降ったときに陳歩に引き渡され、弁王朝に対する最大の逆賊として処刑された。
72:無名武将@お腹せっぷく
07/06/10 13:48:38
破竹の勢いの陳歩だが、多くの兵をどのように養ったのだろうか?
答えは特産の海苔である。陳歩が生産施設を整備したことにより、爆発的に売れたという。ある日本人使者はこれを
「それにしてもこの陳歩海苔の利である。」
と、記録してある。
73:無名武将@お腹せっぷく
07/06/10 16:37:22
兵法書「英武威」について教えてください。
74:無名武将@お腹せっぷく
07/06/10 19:18:47
>>73
英武威って精子に書いてあるアレかあ・・・。
妖艶演技派だから精子のことは詳しくない。
75:無名武将@お腹せっぷく
07/06/10 19:25:17
【雲国(うんこく)】
蘭州を本拠にシルクロード交易で栄えた厨国、西端の国。
初代国主は雲固、二代目は娘の雲香である。特に猛将、腹維汰(はらいた)が有名。
彼の戦いぶりは>>18に詳しく書いてある。
76:無名武将@お腹せっぷく
07/06/10 22:42:21
兀班(パイパン)・・・姓はちがうが満戸の息子である。
満戸が死んだときはまだ幼かったので助かった。
戦知らずで、初めての戦いのときには本陣の幕にまで敵が突撃して来たために負傷してしまうが、そこから一皮向けたのか満戸に並ぶとまで称された。
若くして病死したのが悔やまれる
77:無名武将@お腹せっぷく
07/06/10 23:25:52
虐燕(ギャクエン)・・・満戸が所属していた程の大勢力を持っていた弁王朝の臣。
金なら有る、が口癖。散逸していた陳子兵法・満子兵法・雲子兵法を編纂したことから満戸は彼を評価していたようだ。
彼の死後、若かった満戸に勢力は受け継がれる。
78:無名武将@お腹せっぷく
07/06/10 23:29:10
十八京(ジュウハチキン)・・・最大の都。なんでも揃う楽園。
弁王朝の本拠でもあった。
79:無名武将@お腹せっぷく
07/06/10 23:35:34
封賊城(フウゾクジョウ)・・・十八京を守るの要塞。
幽核地方の中核となる場所でもある。
古来は序楼(ジョロウ)と呼ばれる弁家の別荘だったが冠超の乱(カンチョウのらん)から封賊城へと改築された。
80:無名武将@お腹せっぷく
07/06/10 23:38:48
茂津故李(モッコリ)・・・陳歩が将になったばかりのさいの配下。
後将軍になるが影が薄い。
81:無名武将@お腹せっぷく
07/06/10 23:48:44
巣又(スマタ)・・・封賊城を守る満戸軍の将軍。
満戸とは義兄弟の契りを結んでいる。
満戸から最重要拠点・封賊城を任された点からも信頼の深さが分かる。
満戸が死んだときに封賊城を開城し、自害した。
82:無名武将@お腹せっぷく
07/06/10 23:50:28
丹帆穂(タンポポ)
陳歩が初めて見初めた絶世の美女。夕食に付き合うも本音トークに花が咲き過ぎるため旦那の方が疲れて床に付く毎日が続いたため、良き友人のままであった。
83:無名武将@お腹せっぷく
07/06/10 23:53:35
出利辺流(デリヘル)・・・最大の川である。ここを挟んで様々な戦いが行われたのでも有名。
若き日の陳歩が溺れたのはここである。
84:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 00:00:47
出利辺流は文献によって場所が違いすぎるよな…
未だに場所が特定できない。
85:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 00:49:16
江呂洲の戦い・・・出利辺流を挟んで陳歩・満戸・ 西廟が戦ったとされる戦い。
この戦いで満戸は出利辺流を渡るのを諦めた。
江呂洲は出利辺流の交易には最重要の拠点である。
陳歩がここを得たのはかなり彼を有利にしたとされる。
86:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 01:18:33
糜弐梵(びにぼん)について詳しくしりたいんだが。
87:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 10:25:20
嶺図(レズ)・・・字は美暗(ビアン)。
陳・満には従わない勢力の王だったとされる。
海泡瀬(カイアワセ)の戦いで満戸の大軍に破られ傘下に入る。
満戸陣営ながら、陳歩とは担当方面の違いから戦う事無く満戸が死ぬまで国を守った。
陳歩に会うために十八京を目指している際に西廟によって殺害される。
享年41 諡は擦侯
88:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 10:30:56
牙懿(ゲイ)・・・陳歩配下の武将。
勇猛果敢なムキムキな武将。
通称「フレディ」。陳歩の後方に居たためあまり戦で功績をたてていないが、陳歩は彼を優遇した。
無謀な穴留の計にて弁王朝の残党にたった一騎で立ち向かった話はあまりにも有名。
西廟配下の栄厨(エイズ)により暗殺された。
89:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 10:59:50
【陳歩(チンポ)1578~1627年・北陳の和姦帝】
姓は陳、名は歩。陳、満、雲鼎立時代や南北朝時代の陳歩とは別人であり、
むろん末裔と言うわけではない。
農民から身を起こし、わずか20年で、一代で大陸の半分を征服し四川、蘭州
を除く地域を服属させた。絶倫大将軍の異名を持つ。
現在でも童教の最高神として崇められる存在である。
なお、一世一元の制を制定し、廟号ではなく、元号によって呼ばれるように
なった最初の皇帝でもある。
【勃起村の自警団時代】
農民の出で、大陸の辺境「勃起村(ぼっきむら)」で生まれる。地元の英雄、陳歩にあや
かって「歩」と名づけられる。成長すると彼は実にまじめな百姓として清く正しく慎ま
しく暮らした。普段は小柄で温厚であったが、怒りで興奮すると何倍を大きく見え村人
から頼られる存在だった。その頃、厨国は北方人や島国の海賊の侵入で衰え治安は極度
に悪化していた。そのため勃起村が盗賊団に襲われることもしばしばあった。村の名士
はそのたびに盗賊団に多額の身代金を払ってその場しのぎをしていのた、村人はそれに
我慢できずついに自警団を組織するにいたる。人気のあった陳歩は村の若者たちによっ
てその自警団の 団長に担ぎ上げられた。陳歩率いる自警団は度々、盗賊団を大破しその
名を近隣に知ら れるようになる。特に、大盗賊、斉魯玩を打ち破ったことによりその名声
は跳ね上がった。やがて他の村から依頼され複数の村を守備するようになり組織も拡張され
ていった。
勢力の拡大を危険視され政府から解体命令が出された。
方慶らはこれに反対したが、すでに懐刀となっていた上野が「朝廷の命に逆らっても何の益もない」
と陳歩をさとした。陳歩は納得し、仲間たちを説得し軍団を解体し元の生活に戻るのだった。
90:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 11:15:34
■陳歩2■
【挙兵】
1605年、ついに袁庫の乱(えんこのらん)が勃発、これを機に各地で軍閥の独立、
一揆などが相次ぐ。朝廷には各地の反乱を討伐する力はなく、地方の有力者に
位を与え、鎮圧させる方針を取る。そのような流れの中で陳歩の元にも朝廷の
使者が訪れ、義勇軍を編成して反乱軍を討伐するようにと命ぜられた。
陳歩は自警団時代の仲間を集め義勇軍を編成。さらに彼自身の名声は勃起村周辺
では大変高くなっており、周辺の村々さらにはかつて討伐した斉魯玩ら盗賊たち
も加わり (元盗賊団も参加したのは、陳歩が降伏したのには極めて寛大であり、
敵であって も戦いの後は打ち解けあえる魅力の持ち主であり、その徳を慕って
来たからである。) たちまち5000人を超える大軍となった。芙虞莉、方慶、上野
ら名将はこのときにはすでに 勢ぞろいしていた。
【連戦連勝】
朝廷への忠節を掲げ決起した義勇軍は数多くあったが、陳歩軍の強さはその中で群を抜い
ていた。自警団時代の経験と人材は各地の反乱軍を圧倒し、たちまち1州を押さえ、軍団
は3万人にまで膨れ上がった。だが1607年、弁王朝は満古によって滅ぼされてしまう。
朝廷の滅亡に陳歩は強い衝撃をうけ泣き崩れたという。彼は逆賊満古を討伐しようとする
が部下に時期尚早であると説得され、まずは北方に地盤を固めることとした。
【北方の覇者】
当時、北方は弁王朝の衰退と崩壊に乗じて満臭族の占領下あった地区と、各地で
蜂起した反乱軍中最強であった西廟軍の勢力圏と陳歩軍の勢力の三つもどえ状態
であった。さらに南からは青島の満戸が陳歩領を狙っており、熾烈な覇権争いが
勃発する。
1608年5月、笛羅の戦いで満戸に苦戦すると、その隙をついて西廟軍が来襲する。
だが昌独の戦いで返り討ちとし、将兵身柄の保証を約束し降伏させ吸収する。
1609年、青天関の戦いで股肱の臣、芙虞莉を失うもなんとか満臭族を撃退し、
北方の覇者となる。こうして黄河以北に強力な基盤を得た陳歩は満古との決戦
の準備にかかった。
91:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 11:22:05
陳歩3
【方慶粛清】
満古との決戦前に、方慶と上野の派閥争いが激しくなる。どちらにも非はあったが、
方慶の傲慢は陳歩の許せる一線を超えてしまったらしく、泣く泣く粛清する。
陳歩は旗揚げ以来の同志を斬った罪滅ぼしか、方慶の一族を手厚く保護した。
なお、陳歩は上野にも厳しく叱責し、2ヶ月の謹慎を命じている。
【瀬宮州の戦い(せくすのたたかい)】
1610年、瀬宮州の戦いの戦いが始まる。1400年前の陳満雲鼎立時代、名将陳歩
と満の将、満黄が激突したあの瀬宮州である。陳歩と満古の対決は5回、12年余り
に及ぶ激闘であった。とくに1618年の第四回、瀬宮州の戦いでは陳歩と満古が一騎打ちに
なってしまうというほどの激しい戦ぶりとなる。陳歩は満古は逆賊として憎みなが
らも宿命のライバルとの戦いに強い快感を感じてしまうのだった。
またこの時期、陳歩は満古とのみ戦っていたわけではなく、関中・西安の斉翼、青島
の満戸との戦いも続いていた。特に、1616年の西廟による関中征伐の成功は大陸全体
の勢力図に大きな影響を与え、のちの陳歩と西廟の確執の大きな要因ともなる。
【北陳皇帝】
1623年、ライバル満古は病死した。陳歩と激しくやり過ぎたの原因と思われる。
陳歩はもう満古の死を聞くと泣き崩れ絶望に打ちひしがれ、一挙に老け込んでし
まい人々はまるで満古とやれなくやって陳歩は縮んだようだと噂した。
満古の子らには陳歩とやり合うほどの人物はなく、まもなく軍門に降る。
また長江以南の諸侯も一応、陳歩に従ったため、陳歩に頑強に抵抗するのは四川
と蘭州・雲国のみとなった。(ただし陳歩の権力が直接及んだのは長江以南のみである。)
1625年、軍師、上野らの推挙により陳歩は北陳皇帝に就任する。
92:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 11:26:52
陳歩4
【煩悩寺の変】
陳歩は天下統一に向け四川討伐軍を編成した、陳歩軍本隊、旧満古軍、西廟軍団
南方諸国からなる計50万の大軍である。もう覇業の達成は目前であった。しかし
四川総攻撃の5日前、煩悩寺でわずかな部下とともに休息を取っていた陳歩
は突如、西廟の大軍に襲われ殺される。1627年、享年49歳であった。
何故、陳歩は殺されねばならなかったのだろう。近年の研究では単なる西廟
の暴走ではなく、四川や南方諸国ら絡んだ壮大な陰謀であったことが明らか
となっている。陳歩が天下を取れば、西廟のような猛将は不用になるし(西廟は
方慶粛清の件もあり、世が治まれば次は自分が粛清されるのではないかと恐れていた。)
、北陳の 軍門に降った南方諸国もいずれ解体されることは必定であり、利害の一致により
密約が交わされていたようである。陳歩が死ぬことを事前に知っていたとしか
思えない、その後の南方諸国や四川軍の手際の良すぎる動きにより北陳の勢力は大きく
衰えるととなるのである。このとき北陳にとって一番頼りになったのは満古の残党で
あったことは皮肉なことである。
なお、陳歩の怨敵の一人であった雲香は陳歩の死を聞き「彼は300年の一人の英傑であり
彼の死は厨国全体の損失である。」と語って残念がったという。
93:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 11:40:58
陳歩5
【評価】
陳歩は数多くの矛盾に満ちた人物である。時代の先端を行く合理主義者であり
ながら、情に脆く、その一方で方慶を粛清したように厳しい態度を取ることもあった。
また殺生を嫌いながら、彼の生涯は戦の連続であった。被害の少ない、戦略的な勝利を
最上としながら数々の一騎討ちをし、満古との戦いには快楽を覚えてしまったという。
理想と現実との違いに本人はずいぶん悩んでいたそうである。しかし矛盾もまた彼の
魅力のひとつなのである。
【陳歩は簒奪者?】
陳歩は、皇室の弁一族を手厚く保護したが結局、弁氏を立てて弁朝を再興せず、
自ら帝位についたため、簒奪者の偽善者呼ばわりさせることもあったという。
しかし弁室直系は乱世の中で絶えており、地方貴族に過ぎないその他の弁氏を
立てるのは無理があったといわれる。陳歩が帝位についたのは当時の現実を
考えてのことである。
【政治面の業績】
政治面における陳歩の業績は数知れない。和姦制度によって極端な貧富の差を
是正し、背楠夫李(せくすふり)の政策により自由な商業の発展をそくし流通を
活発化させた。また海苔の生産により兵を養う政策も大変有名である。
陳歩の能力はむしろ戦争より内政で発揮させていたといっても過言ではない。
もっとも上野ら数多くの参謀を抱える陳歩である。陳歩一人がこれらの諸政策を
考えたのではなく、癖の強い参謀たちが献策し、旧来の考えにとらわれない陳歩
が策を受け入れたのである。陳歩の最大の武器はこれらの参謀たちをひきつける
魅力と受け入れる器の大きさだったのかもしれない。
94:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 11:42:55
項目数が増えたので後で整理とかやっときます。
95:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 12:19:30
陳珍(チンチン) 1580~?
陳歩の従弟。陳歩からは常に「一皮向ければ私を越える」とまで言われた人物。
終生 陳歩に従っていたために一皮向けずに終る。
陳歩軍の重要な防衛ラインの禅律線防衛の指揮官として一生を終えたとされる。
陳歩の死後。史書から名が消えるため享年不明。
96:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 12:37:31
海泡瀬の戦い
満戸と満古派・嶺図がぶつかった戦い。
陳歩が関わらない戦いでは最大級の戦いだった。
陳国史では陳歩とはぐれた煤武(バイブ)が満戸陣営にはいり、満古派の異民族・紅灰夷(コウハイイ)の軍を破ったとされる。
結果は一進一退の攻防を制した満戸の勝ちであり、烈将・嶺図は満戸配下に下った。
97:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 12:43:35
弖霊曖(テレクラ)・・・南方諸国の武将。
かつては最強の将だったが、出愛敬(デアイケイ)等の為に勢力を奪われる。
そのためか陳歩に早々と降服の文書を送り、南方支配を認めてもらうしかなかった。
諡は逢侯(アイコウ)
98:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 12:47:45
出愛敬(デアイケイ)
弖霊曖を脅かす若き武将。陳歩に従った後も
密かに西廟と近付き陳歩陣営に西廟派を生み出す工作をしていた。
死ぬまで西廟に重宝されていた。
99:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 14:24:40
孟操(モウソウ)
陳歩配下の参謀。
彼がいなければ陳歩の勢力はあんなに大きくならなかっただろう。といわれている。
陳歩が十二の時に友人となり、後に陳歩が独自の勢力を築き上げると自分の兵を率いて陳歩が満古と戦うのを助けた。
100:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 14:28:44
満虎(マンコ)
歴史書にもあまり記されていない古代の兵法家。
満子兵法は彼の書いたものであるとされる。
満古・満戸共に彼の子孫を名乗っているが関連は不明。
しかし、満古配下の満猪(マンチョ)は間違いなく彼の直系子孫である。
101:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 14:36:13
満猪(マンチョ)
異文化の国からやってきた人物。
古来は満虎に連なる名族だったが故あって異文化の地にいたらしい。
満古が画家・絵無爾貝客(エムジカイキャク)の掛け軸と虐燕が満戸に託し、
満戸から満古に渡った満子兵法の原本を満猪に渡して頼み込んだ結果、喜んで配下になったとされる。
配下の精鋭・御満猪隊(オマンチョ隊)は何でもすり最強最悪の軍として恐れられた。
102:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 14:39:13
平丹蛮(ペニバン)
紅灰夷族らと対立する異民族。
満古と満戸の戦いの際にあっちについたりこっちについたりして戦ったため、弱体化して陳歩に攻められ滅亡した。
103:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 14:46:57
兄・頭津棍(ズッコン)
弟・歯津棍(バッコン)
南方諸国の星醸夷(セイジョウイ)族の王。兄弟喧嘩をしてしまい弖霊曖や出愛敬らに国を奪われたと言われている。
どちらも魏恩(ギオン)出身であるとされる
104:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 14:48:34
すみません。一部記載で満戸と満古がごちゃまぜになってしまいました。
記録整理の際は訂正した上でおねがいします。
105:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 14:54:10
参飛ヰ(さんぴい)
弁王朝の軍人・政治家・書家。小弁(前弁)と、大弁(後弁)は無関係である。とする独自の説を唱えた為に罰として追放される。
幼少期の陳歩が通っていた塾は彼が作ったものである。
106:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 14:57:26
弁飾(ベンショク)
参飛ヰを宮廷から追放した大弁の皇族。
自ら皇帝に成ろうと企むが、その策が裏目に出て諸侯が群雄割拠してしまうことになった。
異常な行動が多すぎることから嫌われる。
西廟によって殺害される。
107:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 15:02:08
杏暮(アングラ)
弁王朝の政治家
弁飾と共に弁王朝末期に独裁政治をした悪人。
南方諸国の出愛敬や弖霊曖に対して様々な悪業を重ねた。
弁飾が死ぬと陳歩の所に逃げるが陳歩の配下・陳珍に殺害された
108:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 15:09:55
栄厨(エイズ)
西廟配下の大将軍
配下ながら実質的に彼が総指揮をとる。
栄厨の名を聞けばあの陳歩や満古ですら縮み上がったと言われている
西廟が陳歩に近づいた際に栄厨は陳歩の配下になったふりをしたが、それが陳歩弱体化に繋がったと言われている
西廟の死後、帝となる。と書物に書かれているが、栄王朝の記載はどこにもない。
109:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 15:29:44
万江(マンコウ)
最大級の河川。
出利辺流と交わっているところが八泰県(ハツタイケン)の江呂洲である。
110:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 16:31:06
一人で書いて楽しいか?
111:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 18:01:29
■陳歩の娘たち■
陳歩にはたくさんの子がいたが、すべて女子だった。
それゆえ、陳歩の死後には北陳は皇帝不在という非常事態に陥った。
それでも陳歩夫人淫蘭(いんらん)のもと諸将は結束し逆賊、西廟打倒に尽力した。
西廟打倒後は本格的な後継者争いとなる。
ただし後継者に名乗りを上げるには絶対の条件があった。
①陳歩の娘を正室にしている。
②陳歩の血を引く嫡子のみを跡継ぎと出来る。
の2点である。
また、絶対の条件ではないが、陳歩夫人から好意を得ることも重要だった。
こうして、陳歩の娘を正室としている重臣たちは自らの野望に突き進むの
だった。
112:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 18:14:30
【主な出来事】
袁庫の乱 1605年
弁朝滅亡 1607年 満古が弁朝帝都、洛陽を占拠。
笛羅の戦い 1608年 3月 満戸と陳歩の戦い
昌独の戦い 1608年 5月 西廟と陳歩の戦い
青天関の戦い 1609年 満臭族と陳歩の戦い
第一次瀬宮州の戦い 1610年 満古と陳歩の戦い
第二次瀬宮州の戦い 1612年 満古と陳歩の戦い
第三次瀬宮州の戦い 1614年 満古と陳歩の戦い
関中征伐 1615年 陳歩の将、西廟と斉翼の戦い
御那二の戦い 1616年 満戸と陳歩の戦い
第四次瀬宮州の戦い 1618年 満古と陳歩の戦い
通禁羅守の戦い 1620年 雲香と陳歩の戦い
第五次瀬宮州の戦い 1622年 満古と陳歩の戦い
北陳王朝の成立 1625年 陳歩、帝位につく
煩悩寺の変 1627年 陳歩、配下の西廟に襲われ死去。
113:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 18:23:04
【満戸(まんこ)】
よく勘違いされるが、軍神満古とは別人。
食い詰め者たちの流族の大将であったが、1605年、青島を占領して群雄化する。
陳歩、満古という列強に挟まれながら勢力を保ったが、1621年、満古によって
国を追われ、陳歩の元に逃げ延びる。
陳歩は元は敵である満戸を厚くもてなし、自分の娘を満戸に与えた。
陳歩の死後は、正室が陳歩の娘であることを主張して後継者を狙い、上野、
尿道炎らと宮廷内、ときには宮廷外での権力闘争に没頭した。
ついには姓を「陳」とし陳戸(ちんこ)と名乗ったが、ついには後継者レースに
破れ、辺境の地に長官に左遷される。
もっとも、一応、陳歩の義理の息子ということでそれほど悪い扱いはされていない。
114:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 18:37:52
【満古(まんこ)1573年~1623年・享年50歳】
姓は満、名は古、字を黒々(くろぐろ)という。陳歩のライバルとして有名である。
体は日に焼けどす黒く、たいへん猛々しかった。
1586年に若干13才で発体建(はつたいけん)の戦い、それ以来80回を越す戦場を駆け
巡った。彼の率いる精兵、黒満(こくまん)は最強の軍団であった。
■その生涯■
満古は弁王朝の武人であったが、1605年に袁庫の乱がおこると、朝廷の使者を
斬って自立する。官軍を次々に蹴散らし、1607年に洛陽を占拠して弁王朝を
滅ぼした。さらに反乱の盟主気取りの袁庫を追い払い。斉翼を降伏させ、
各地に割拠する諸侯を次々に併呑し県城、120城を支配する。さらに1621年には
強豪、満戸から青島の地を奪い、厨国の三分の一を支配した。
1610年から1622年まで続いた陳歩との戦いは5度に及んだが、決着はつかなかった。
第五次瀬宮州の戦いの翌年に死去する。享年50歳であった。
■黒満三万騎■
黒満とは満古に絶対の忠誠を誓う精鋭部隊。その忠誠心は信仰に近いものがある。
「我らが満王」のために命を惜しまず戦い続け全厨国の諸侯を恐れさせた。もっと
も用兵の天才である満古である。彼らを死なせることはまずなかった。
115:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 18:45:17
満古2
【満古の戦いぶり】
満古は常に前線に立って指揮するタイプの武将であったため、顔は日に焼け
どす黒く数多くの傷を持っていた。敵を半包囲する「黒肉壁」の戦法が得意だった。
完全には追い詰めないで一箇所逃げ口を開けておいて敵の敗走を誘った。
満古軍の最盛期には黒満3万騎と一般兵10万あわせて13万の兵を要していた。
満古は兵数に頼った戦が嫌いなためこれ以上兵力が増えることはなかった。遠征時
には雑兵3万人を守備隊として残し、10万の兵で攻めることが多かった。
満古は軍人としては陳歩よりはるかに強い。陳歩がなんとか互角に戦えたのは、上野ら
優秀な参謀と、西廟らの名将を召抱えていたためである。
116:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 18:53:59
肥の陳歩戦記の能力値
【満古】統率:95 武力:99 智謀:73 政治:51 魅力:93
【陳歩】統率:89 武力:87 知力:97 政治:97 魅力:91
【西廟】統率:83 武力:91 智謀:98 政治:53 魅力:89
【満戸】統率:81 武力:90 智謀:83 政治:70 魅力:78
【上野】統率:50 武力:17 智謀:99 政治:98 魅力:60
117:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 18:54:42
【無私憂世(ムシユウセイ)と模細工(モザイク)】
旗揚げした陳歩は各地で無私憂世(乱世を憂い、自らの命を顧みず行動すること)
の英雄と名高い人物を訪ね配下に加えようとしたが、いざ見えてみれば
どれもが私益に走る羊頭狗肉の俗物ばかりであった。
陳歩は「この世に模細工(贋作、にせもの)の何と多いことか!」と嘆息したと言う。
118:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 19:13:27
それだけに初めて満古を見たときの驚きはすさまじかったらしいな。
119:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 19:28:50
>>96
ふりがな、がないので読めません。なんと読むのです?
120:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 19:32:24
何、この民明書房スレ
121:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 19:43:13
陳国初代皇帝の諡号は確か童帝だったよな
122:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 19:59:43
>>121
生涯、満古とかとやってばっか(戦)の皇帝陛下に童帝はないでしょ。
123:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 20:42:45
>>119
かいあわせ、じゃないか?
124:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 21:31:56
【紀騰(きとう)】
字は摩騾(まら)。
陳歩挙兵以来の宿将。
守城兵器・金弩羽矛(こんどうむ)を発明し、猛将・栄厨率いる西廟軍を退けた。
その後も多くの戦に参加し功績をあげた。
満古軍との戦では、敵将の策・包計(ほうけい)にはまり窮地に陥るが、
上野らの助けによりなんとか一命をとりとげる。
その後の精子での記述はないが、この時の傷がもとで亡くなったとみられている。
125:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 21:55:51
海泡瀬(カイアワセ)
清水の万江(マンコウ)の流れと泥水の出利辺流(デリヘル)の流れが大河・武洲川(ブスセン)に流れ込み、そのまま河口になっている場所。
常に泡立っているためこう言われている。
満古(マンコ)の碑(凹型の石碑)が立っているが、これが海泡瀬の戦い時の物かは不明。
ここの北には万江と出利辺流の一部が交じり合う江呂洲(エロス)がある。
126:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 21:57:44
あんまり早く死亡が確定すると話が広がらないということもある。
活躍させたい武将は、最期をぼかした方がその後のエピソードが追加しやすい。
127:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 22:02:24
ポルナレフ
128:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 22:07:46
陳戟(チンポコ)
兵法家・陳子(チンコ)の名のほうが知られているかもしれない。
満虎の弟子とも義理の息子とも言われている。
同じ時代の兵法家の雲千(ウンチ)とは親友とされる。
しかし、時代がそうさせたのか陳戟は雲千により暗殺されたのである。彼は死ぬ間際に生詩(セイシ)の書を残して雲千に対して仕方がないことだったのは分かっている。と伝えた。
129:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 22:11:54
【諸除幕(しょじょまく)】
満古配下の武将
第一次瀬宮州の戦いにおいて本陣近くに陣を構えた、陳歩急襲に際して
素早く刃陣(ばーじん)をひき満古本陣を守ったが逆賊満古を前に猛り狂う
陳歩に刃陣を破られ、陳歩自慢の極太の槍「挙献(きょこん)」に貫かれて討ち死に
130:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 22:14:03
陳子兵法とは。
男子たる者、朝から屹立していなければならん。。という文句から始まる精神論を説いたものである。
しかし、彼は武器も開発していて、それの使い方も書いている。
例えば陳歩支配下の勃起村にてよく製作された「威華九砕」(イカクサイ)は陳子の作、とされる。
このように陳子は多才な人物だったようなのである。
131:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 22:26:30
薫尼(クンニ)
満古配下の尼。
海泡瀬の戦い時に満古と満戸を同盟させようと努力した人物。
満戸配下の爺諏穂戸(ジイスポット)が戦いを始めた為、すべて無駄になったため怒り自ら兵を率いたとも言われる
132:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 22:34:33
相武(アイブ)
陳歩配下の武将。字は善蟻(ゼンギ)。
敵を倒すためいつも先陣をきったとされる。普段は手国死庵(テクニシャン)にて休んでいるが、戦いとなると真っ先に仕掛けた。
先陣を切ることから。先相武(サキアイブ)という言葉が生まれた。
基本的に先陣をきったあとは休んでいることが多い。諡は触侯
133:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 22:47:22
額禄(ヌカロク)
陳歩配下の豪将。字は槍杉(ヤリスギ)。
陳歩軍は当初、軍閥にしては弱々しかった。しかし、額禄が入ると全く退かない強力な軍団と変化する。
知略の孟操に武勇の額禄がいたからこそ陳歩は満古と戦うことが出来たのである。
戦を好みすぎて度々、味方がどんなに死んでも退却しないので、陳歩が死んだあとの陳軍を疲弊させてしまった。
134:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 22:53:15
斉鋼(セイコウ)
字は抜差(ヌキサシ)。
斉翼配下の武将。斉翼の子とも、斉翼の甥とも言われている。
政治には才能がなく、斉翼とは全く別の方面である軍事にしか才能を発揮出来なかった。
わずか12才で初陣をしたという早熟な武将。
135:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 23:03:56
臨平(リンビョウ)
西廟配下の武将。栄厨には及ばないものの名将との呼び声高い。
西廟が最後の最後に陳歩を討てないでいるときに叱咤激励し陳歩を討つべきだと進言した。
136:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 23:22:19
【魯罹(ろり)】
字は辺吐(ぺど)。
慰妄盗道(いもうとどう)の教祖。
肝夫汰(きもをた)と呼ばれる信者を引きつれ、漢長(かんちょう)一帯に大勢力を築く。
137:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 23:24:59
苺独(バイドク)
西廟配下の武将。臨平とは親友である。
臨平が武人ならば彼は生粋の官僚系
西廟死後、栄厨の増長に耐えられなくなり挙兵するがあえなく敗北。
以後不明
138:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 23:37:07
昆白武(コンジローム)
西廟配下の武将。巧みな采配をするいぶし銀キャラ。
臨平や苺独が栄厨に逆らおうとする際に止めようとするが止められずに乱に加担してしまう。
負けても諦めない渋とさが売りのやっかいな武将。
139:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 23:41:55
曹柔(ソウニュウ)
陳歩配下の武将。
満古と陳歩が対峙したさいに精史に初めて現れる。
孟操とは仲が悪く、頭より行動せよ!が曹柔のポリシー。
陳歩の死後、精史から記載が消える
140:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 23:50:43
【満戸(まんこ)1582年~?】
よく勘違いされるが、軍神満古とは別人。
下流士大夫層の青年であったが、大変賢いと評判で、うわさを聞きつけた、
弁王朝の大臣、虐燕の養子となる。虐燕の死後その遺産を使って食い詰め者たち
を集め流賊を組織しその大将となる。1605年、青島を占領して群雄化する。
まもなく近隣で勢力を伸ばしていた官軍派の陳歩と敵対し笛羅の戦いで激突し
勝利を得る。その後、御那二の戦いをはじめ陳歩との衝突を繰り返すが、多くの
戦いで優位であった。(もっとも陳歩は満古という強大な敵を抱えており、多数の
将兵を満戸との戦いには割けないという理由があったため満戸が優位に戦えた面が大きい。)
また満戸は満古に憧れに近い尊敬心を持っており当初は友好的な関係が保たれていたが、
1612年頃から急速に関係が悪化、ついに海泡瀬の戦いに発展する。1621年には満古軍の
総攻撃を食らってしまい、本拠青島を放棄し陳歩の元に逃げ延びる。
陳歩は元は敵である満戸を厚くもてなし、自分の娘を満戸に与えた。
陳歩の死後は、正室が陳歩の娘であることを主張して後継者を狙い、上野、
尿道炎らと宮廷内、ときには宮廷外での権力闘争に没頭した。
ついには姓を「陳」とし陳戸(ちんこ)と名乗ったが、ついには後継者レースに
破れ、辺境の地に長官に左遷される。
もっとも、一応、陳歩の義理の息子ということでそれほど悪い扱いはされていない。
141:無名武将@お腹せっぷく
07/06/11 23:51:43
仁真(ニンシン)
陳歩を滅ぼした西廟をさらに滅ぼした将。
出自は陳・満だと言われている。
国を建てた後、龍山に行くと言い残し消息をたった。
142:無名武将@お腹せっぷく
07/06/12 00:33:40
秘女甫(ひめはじめ)
姓は秘女 名は甫
東から来た仙人。満戸を気に入り配下に入る。
知識を活かして満戸軍を動かし、陳歩軍を苦戦させた。
満戸が陳歩に下ると再び仙人として姿を隠してしまった。
満戸と満古がぶつかる事になった海泡瀬の戦いの際には、対陳歩の陣中だった為に参陣がかなわなかった。
彼が満戸軍に合流し、海泡瀬に陣取っていたら満古も楽には勝てずに、もしかしたら負けていたかもしれない。
143:無名武将@お腹せっぷく
07/06/12 00:43:14
洸文(コウモン)
字は阿盗(アヌス)。雲家に代々使えてきた執事。
輝く星印の旗を掲げて迫りくる姿は陳歩・満古ですら戦いを避けたがった。
栄厨とは親友であり、戦がないときは毎日酒を酌み交わした仲。
城を守らせたら門は絶対開かせない事で有名。
陳歩の世になるとしばらく息を潜めてから南方にて反旗を翻し、陳歩南征を起こさせた。
このことから、洸文が陳歩の死の遠因を作ったのである。といえる。
144:無名武将@お腹せっぷく
07/06/12 00:51:49
胤保(インポ)
字は天津(テンツ)
反陳歩勢力。陳歩軍の士気を下げるようにあちこちで破壊工作を仕掛けた。
一時は陳歩危うし!!と言うところまで追い詰めたが
戸霊(ペレ)の導きによって復活した陳歩によって再起不能にされる。
その後、西廟のもとに逃れると様々な武将と協力して陳歩を苦しめた。
諡は萎侯
145:無名武将@お腹せっぷく
07/06/12 00:56:45
このスレまさにカオスwww
146:無名武将@お腹せっぷく
07/06/12 12:07:56
戸霊(ペレ)
陳歩が諦めようとするたびに現れたなぞの仙人
彼がいなければ陳歩は絶倫大将軍とは呼ばれなかったであろう。
彼自身、絶倫だったのだが、やる気がなくなった人物の気持ちを理解しているようだ。
鞠の達人だという説もある
147:無名武将@お腹せっぷく
07/06/12 19:43:19
【太陀乃(タダノ)】
字は亜通(アツウ)
陳歩配下の武将。
わずかな手勢と共に一大勢力になりつつあった陳歩に仕官を願い出るが
何の後ろ盾も無く、みすぼらしい軍装の彼を快く思わなかった陳歩は
無理な命令をしてこの男を試追い返してやろうと思い、
この場で裸で四つん這いになれと命じた。
太陀乃は「裸で四つん這いになれば仕官させてもらえるんですね」と言うや否や
衆人環視の中たちまち衣服を脱ぎ捨て四つん這いになり菊門を開帳した。
陳歩はその堂々たる態度に恥じ入り、また豪胆さを気に入り配下に加えたという。
漢の名将韓信の「股くぐり」の故事と並んで有名な故事である。
第三次瀬宮州の戦いでは窮地に陥った陳歩を守って奮戦、
陳歩を無事救い出すも、自身は壮絶な最後を遂げる。
死の報せを聞いた陳歩は「惜しいかな亜通!亜通ー!アツー、アッー!アッー!」
と号泣しながら名を呼び続けたという。
148:八戸のぶなが
07/06/12 19:58:07
まさに我がルーツとなるべき偉人達だ。
149:無名武将@お腹せっぷく
07/06/12 20:39:23
∧ ∧
(*‘ω‘ *) 陳歩ッ歩
( )
v v
母音ッ
川
( ( ) )
150:無名武将@お腹せっぷく
07/06/12 20:46:04
社会の上の方に行けば行くほど教養がないと馬鹿にされる。
社会の下の方に行けば行くほど腕力がないと舐められるのと一緒。
151:無名武将@お腹せっぷく
07/06/12 21:56:46
厨国創造史
【蜍聖(ジョセイ)と彈聖(ダンセイ)】
神は二つの人形を作り出し、暇つぶしに戦わせた。この人形を人間達は神と信じた。
人間はこれの女性の神を彈聖。男性の神を蜍聖とした。
二つの神は次第に人間をも巻き込み戦を始めてしまうのである。これが【両聖愚雄の戦い】であり、人々が初めて体験する大戦争であった。
152:無名武将@お腹せっぷく
07/06/12 22:02:47
【両聖愚雄の戦い】(リョウセイグユウのタタカイ)
蜍聖と彈聖が人間を率いてぶつかった戦い。
これにより長きにわたる戦国の世が訪れる。
蜍聖と彈聖は人間を殺したとして神から罰を与えられた、蜍聖は菩聖(ボセイ)、彈聖は虚聖(キョセイ)という人間にされたといわれている。
153:無名武将@お腹せっぷく
07/06/12 22:10:05
菩帯(ボタイ)
神から人間になったとされる菩聖(ボセイ)の子孫を名乗る群雄。
若き日の名将・満古を配下にしていたほど勢力をもっていた。
しかし、晩年に養子の菩慇(ボイン)と実子の菩柔(ボニュウ)の後継ぎを巡る戦いが起きてしまい、介入した満古の勢力が拡大して行くのを止められず失意の内に没した人物
154:無名武将@お腹せっぷく
07/06/12 22:16:54
菩慇(ボイン)
菩帯の養子。もとは魏恩出身の卑しい身分出身。
菩帯の実子の菩柔(ボニュウ)とは本当の兄弟の様であったとされる。
菩慇は本当に菩柔を可愛がったのだが、菩帯が実子を後継ぎにしようとしたために菩家の家臣は両派に別れてしまうのである
菩慇は最終的に満古の助けもあり菩柔を破るが、虚無感に襲われ満古と共に菩家を去った。
後には満古の友・配下として陳歩と対峙する。
155:無名武将@お腹せっぷく
07/06/12 22:19:28
他の歴史板での愚痴を漏らすスレ
スレリンク(nanminhis板)
156:無名武将@お腹せっぷく
07/06/12 22:24:13
菩柔【ボニュウ】
菩帯の実子。
少々、ボ~っとした所があった人物。
義兄・菩慇に家督争いにて破れるが義兄が結局菩柔に家督を譲ったため、菩家の当主となった。
しかし、多くの優秀な人材が満古と共に菩家を去って行ったため菩家は弱体化していった。
弁朝に忠義を尽くしたため諸侯に領土を食い荒らされ大領主・菩家最後の当主となってしまった。
157:無名武将@お腹せっぷく
07/06/12 22:31:11
弁序【ベンジョ】
弁の皇族。陳歩や満古らを利用して弁朝を再興しようとしたが、ことごとく失敗してしまう。
弁飾等に権力争いで破れたのち領地の都威嶺【トイレ】に逃げていった。
158:無名武将@お腹せっぷく
07/06/12 23:35:37
【手鏡(しゅきょう)】
姓名は植田(しょくでん)
字は草代(そうよ)
人物鑑定に長け、「手鏡先生」と呼ばれた。
「下半身を見れば、人物がわかる」と論文を記し、
後の鑑定家たちにも絶大な影響を与えた。「手鏡神」と讃えられている。
陳国志援戯(えんぎ)では
上野らの才を見抜き、陳歩に推薦している。
また満戸を「陳歩や満古に劣らぬ英雄、ただ人徳がなく家臣に恵まれない」と評した。
159:無名武将@お腹せっぷく
07/06/13 00:39:58
余馬懿(ヨバイ)
斉翼の配下の将・斉鋼(セイコウ)の参謀。
夜襲の神。
斉翼に未来は無いことを斉鋼に伝えるが、斉鋼に無視される。
それに絶望したのか斉翼から陳歩陣営へと鞍替えした。
孟操や曹柔らとは友人になり、三賢者と称されるが結局は孟操配下の一参謀としての地位に甘んじる。
その後も野心を持ち続けるが・・・
160:無名武将@お腹せっぷく
07/06/13 00:45:06
序聖都・・・十八京に連なる大都市。
誰しも憧れる都。最近、腰布を短くする輩・美仁巣飼徒(ミニスカウト)が猛威を奮っている。
161:無名武将@お腹せっぷく
07/06/13 01:18:02
【秦躍(しんやく)】
字は湧珍(わくちん)。
陳歩配下、忠義の将。
非常に忠誠心が強く、また容姿に勝れていたため陳歩に寵愛され、側近として常に傍らにあった。
陳歩に降った西廟に対し疑心を抱き、「西廟を信用してはならない」と常に進言していたが、陳歩はこれを受け入れなかった。
1627年四川討伐に向かった陳歩に留守を任された際、
西廟配下の将だった栄厨が四川の使者と内通しているのを知る。
秦躍は煩悩寺で休養をとる陳歩の元へ急報しようと三日三晩馬を走らすが、
彼の眼前にあったのは既に焼け落ちた煩悩寺であった。
「私がついていれば…」と悔やみ自害しようとするが、思い止まり、
雲香に帰順した後、西廟を密殺する。
162:無名武将@お腹せっぷく
07/06/13 03:42:20
【月継(ゲッケイ)と憂吸羽(ウイスパ)と三種の神器】
月継(ゲッケイ)
破翠山に住むといわれる仙人。
忽然と満古のもとに現れ、満古を愚弄し、満古の配下をたぶらかすなどして処断された。
斬られた首元からはおびただしい程の血が吹き出し、七日七晩流れ続けたという。
死んだと思われた月継だが、28日後に再び満古の元に現れ、
「折洩乃(オリモノ)」と呼ばれる呪いをかけ、「また28日後に」と言って消えた。
折洩乃の呪いにより、兵たちは体の不調や痛みを訴えたが、どんな名医にも治すことができなかった。
困り果てた満古は、破翠山の北にある破救山に住まう仙人「憂吸羽(ウイスパ)」の元へ救いを求める使者を送った。
憂吸羽は
「反奔(タンポン)の剣」、「凪布金(ナプキン)の盾」、「紗児谷慰(サニタリ-)の箱」の三つの神器を使者に渡し、こう言った
「凪布金の盾は、あらゆる月継の妖術を防ぎ
反奔の剣で一突きすれば、月継は動きを止める
最後に「覆威飛洩闇進(オオイヒモアンシン)」と三回唱えれば、
月継を紗児谷慰の箱へ封じることができる」と。
こうして約束通り、28日後に現れた月継を
見事紗児谷慰の箱へ封じることに成功する。
しかし暫くは「折洩乃の呪い」がとけることなく続いたと言う。
一説には、五度目の陳歩軍との戦いで満古の精兵が次々と敗れ、
あっさり降服したのは「折洩乃の呪い」により士気低迷が原因ではないかと言われている。
163:無名武将@お腹せっぷく
07/06/13 12:48:41
音進(インシン)
満古配下の将。親子二代で満古に仕える。
親子二代で同じ名前なので父を大音進。子を小音進と呼ぶ。
満古陣営の全線にて戦った将で、実は他国からみた満古の活躍は=音進の努力だったと言われている。
164:無名武将@お腹せっぷく
07/06/13 16:50:54
新旋【ニュウセン】
菩家の家老。若き武将でありながら親から菩家の家老を譲られた。
満古を兄のように慕っていた。弟・新巌(ニュウガン)や父・新暴(ニュウボウ)はかなり有名な学者
165:無名武将@お腹せっぷく
07/06/13 17:06:33
新巌【ニュウガン】
新旋の弟。
兄と同じく菩家の家臣。兄と共に菩慇に忠義を尽くし、菩慇が菩家を去る時に満古に同行した。
兄・新旋と同様に満古の将として奮戦するが、新巌はある時に独断で陣地を変えてしまう。
命令違反をした新巌は兄の懇願むなしく、満古によって死罪とされた。
新巌は兄を越える名将であり、満古も泣く泣く新巌を斬ったのである。ここから【泣いて新巌を斬る】という言葉が出来た。
166:無名武将@お腹せっぷく
07/06/13 17:12:40
新暴【ニュウボウ】
字は杯托【パイタク】
新家の当主として、また、菩家の筆頭家老として政務にはげんだ。
杯托【パイタク】の詩や法律の原文は今だに残るほどのもの。
息子達に後事を託し、隠居した。
菩慇とは対立したため、菩柔が家を継ぐと補佐したが傾いた家運をどうすることも出来なかった
167:無名武将@お腹せっぷく
07/06/13 17:26:03
新麟【ニュウリン】
新暴【ニュウボウ】の末子。若き頃は桜の様な色の頬だったが年ごろになり焦げ茶色の顔になった、その頃から様々な事に敏感になり、すぐ何かあれば立ち上がる程の男になった。
菩家末期の最強の武将であり、菩家の領土を併合しようとした満古を度々押し返した。
しかし、伝説の義士・煤武【バイブ】の子孫・煤武【同じくバイブ】が満古を狙って突進してきた時に重傷を負ってしまう。
168:無名武将@お腹せっぷく
07/06/13 17:34:54
新麟 2
煤武によって傷を負わされた新麟は退却し、その間にとうとう菩柔本陣をも満古に破られてしまい、菩家は満古の支配化にいれられてしまう。
この戦いを暑町の戦い【ショチョウのタタカイ】と呼び、満古はこれを機に最大勢力へと駆け上がった。
菩家は菩慇の下に再編成され、満古軍隷下の国になった。
新麟は仕方なく満古軍の将となった。
後に陳歩と再会した煤武と再戦するが、その際は新麟が勝っている
169:無名武将@お腹せっぷく
07/06/13 17:42:52
新謄【ニュウトウ】
字は瓶缶(ビンカン)
新旋の嫡子
満古からは実子と一緒に可愛がられた。成人してからは陳歩軍との戦いや満戸との「海泡瀬の戦い」に父の代わりに参陣している。
満古が死ぬと白い涙を流したとされる
170:無名武将@お腹せっぷく
07/06/13 18:08:55
虎駒【トラコーマ】
西廟配下の暗美邪【クラミジア】の養子。
凶悪な武将。養父を無視し、尚且つ西廟すらも軽視する人物。
陳歩が西廟に破れ、敗走しようとしたとき、包囲網を迅速に敷き陳歩を逃がさなかった。
彼自身は盲目に近いほど視力がなかったとされる
171:無名武将@お腹せっぷく
07/06/14 11:51:19
暗美邪(クラミジア)
西廟配下の将。
笛羅の戦いにて陳歩を破った武将。
栄厨と共に西廟をもり立てた。
栄厨よりも攻撃を掛けるのが早いが、若干 勢いがない。
172:無名武将@お腹せっぷく
07/06/14 20:05:30
乙武尊(おつ たけるのみこと)
倭国の伝説の英雄。周辺を荒らす大蛇の山田汚露血(ヤマダノオロチ)を討伐するも手足を失う。しかし以降も優れた知性を生かし国の将来を支えた。
陳歩とも交流があり当時の手紙も残っている
173:無名武将@お腹せっぷく
07/06/14 20:53:01
貴須(キス)
字は節奮(セップン)
傭兵の隊長。陳歩・満古らにも通用する武将だったが、深いやりとりや相手に対する読みが足りなかった。
笛羅の戦いに参加しようと出撃したがどっちつかずが満古を怒らせたのか孟操にはめられ敗北する。
以後は盗賊になりあちこち荒らした。
174:無名武将@お腹せっぷく
07/06/15 15:01:57
もし、陳歩が買阿愚裸の戦いで陰歩に敗れていたら歴史は変わっていただろうな
175:無名武将@お腹せっぷく
07/06/15 17:07:54
胤保は戸霊(ペレ)に導かれた陳歩に破れている。
前の方に書いてある
176:無名武将@お腹せっぷく
07/06/16 01:31:15
すげぇ!三戦でまた陳国志の話題を語れるとは!
板違いで怒られんのだろうか。そんときは厨国英武威板に移るのだろうか。
177:無名武将@お腹せっぷく
07/06/16 09:19:15
陳歩は何度でも甦る。
何度でも立ち上がる
178:無名武将@お腹せっぷく
07/06/16 16:08:00
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179:無名武将@お腹せっぷく
07/06/17 15:15:39
あげ
180:無名武将@お腹せっぷく
07/06/17 15:31:31
魏の武将呉!
魏の武将呉!
181:無名武将@お腹せっぷく
07/06/18 21:40:23
須島(スジマン)
満戸軍 右将軍
満戸軍が寄せ集めにすぎないときから満戸を補佐し続けた。
虐燕陣営から多数の人材を引き抜いて満戸軍を立派な群雄に押し上げた功労者である。
その功から満戸軍の右将軍になる。
しかし、満戸が陳歩に下った際に満戸から満古に鞍替えした。
182:無名武将@お腹せっぷく
07/06/18 21:46:00
宿助(ジュクジョ)
虐燕の参謀のち満戸軍左将軍。
虐燕陣営を崩壊させ満戸軍を立ち上げさせた人物。
虐燕からは多大な恩を受けたのに満戸軍に入った。
満戸が陳歩に下った際の動き(独立勢力になろうとした)から考えると自分で虐燕の領土を得るために満戸を利用していたことが伺える。
満戸が陳歩に下った際に独立に失敗。西廟陣営に逃亡する
183:無名武将@お腹せっぷく
07/06/18 21:51:58
ミコスリ・ハーン
北方の英雄。あまりの速さにみなが驚愕する。
幼名は走郎(ソウロウ)
若くして異民族を支配下に従えた伝説の英雄。
彼の嫡流は代々、ミコスリ・ハーンの名を受け継ぐ。
初代の陳歩と二代目ミコスリ・ハーンは親友であり、度々彼からの援軍要請をうけハーンは厨国に援軍を出した。
184:無名武将@お腹せっぷく
07/06/19 18:15:49
あげ
185:無名武将@お腹せっぷく
07/06/19 18:22:18
金玉珍宝(キンギョクチンポウ)を集めるのが趣味です
186:無名武将@お腹せっぷく
07/06/20 16:37:43
あげなきゃ・・・みんなのために、僕は何度でも立ち上がらなきゃいけないんだ!
187:無名武将@お腹せっぷく
07/06/20 20:07:20
>>186
陳歩の一人称って「僕」??
188:無名武将@お腹せっぷく
07/06/20 20:18:10
>>187
朕
189:無名武将@お腹せっぷく
07/06/22 19:11:24
すごい・・・また勃った
190:無名武将@お腹せっぷく
07/06/24 08:38:07
このスレのキーワードは準備中か
191:無名武将@お腹せっぷく
07/06/24 12:22:55
【蘭操(ランソウ)】
後弁の臣。
早くから満古の臣として 精力的に彼に尽くした名参謀。
袁庫の乱が勃発すると、この混乱に乗じて洛陽を占拠するよう進言。
また弁臣や郡県を説得して周り、満古に協力するよう仕向けた。
満古の片腕として尽力した蘭操だが
1615年息子の蘭子(ランシ)、蘭貫(ランカン)と共に突然反旗を翻す。
後顧の憂いを断つため、満古が二度目の漢長(慰妄徒道)討伐に向かった際
留守をついて洛陽の拠城・師宮(シキュウ)を占拠するとこれに呼応するかのように、蘭操が説得して満古配下に加えた元弁臣たちが各地で謀反を起こしたのである。
あらかじめ周到に計画されたかのように師宮の蘭操、そして各地に散らばる元弁臣たちは名のある文官・武官を次々と謀殺。
僅か一日足らずで満古は有能な配下の半数を失ってしまう。
これが「師宮の乱」である。
漢長討伐から戻った満古軍にすぐさま包囲されてしまうが、蘭操は最後まで抵抗する。
ついに捕らえられた蘭操。
満古は再び配下に加えたいと思っていたが、蘭操を自ら処刑台に向かい首を刎ねさせた。各地の弁臣たちも一斉に自害し、こうして多くの謎を残したまま「師宮の乱」は鎮圧された。
192:無名武将@お腹せっぷく
07/06/24 12:26:02
【師宮の乱】
1615年11月 満古配下の重臣、蘭操が突然謀反を起こしたのである。
反乱の理由など一切精史では語られていない。
「満古に尽くした忠臣が何故?」後世の史家の間では論争が尽きない。
もっとも有力な説として、満古が起こした「漢長大虐殺」に原因ではないかと言われている。
193:無名武将@お腹せっぷく
07/06/24 12:28:30
【二侍原(ニジゲン)の戦い】…1
「漢長大虐殺」そして「師宮の乱」を語る上で重要な戦い。
1615年2月、四度目となる陳歩との戦いに向け
満古は後顧の憂いを絶つため、漢長一帯に勢力を誇る、慰妄徒道(イモウトドウ)の教祖・魯罹(ロリ)討伐戦を行った。
この戦は満古の嫡子「満光(マンコウ)」の初陣でもあった。
満光は父・満古に似て、武勇に勝れ将来を期待された人物である。この戦でも初陣ながら先陣をきって戦い
次々と慰妄徒道の信者「肝夫汰(キモヲタ)」を掃討していった。
しかし魯罹の策略にはまり捕らえられてしまう。
満光を人質としてとらえられたが、満古は進撃を止めなかった。
怒った魯罹は見せしめに満光を首刎してしまう。
これが満古の逆鱗に触れ、後の悲劇「漢長大虐殺」へと繋がる。
194:無名武将@お腹せっぷく
07/06/24 13:23:11
【漢長大虐殺、蘭操の真意】
満古の怒りに触れた魯罹は押し寄せる満古軍にかなわないと見て、二侍原から撤退 漢長に籠城する。
鉄壁の要塞と謳われる漢長の城にさすがの満古も攻めあぐねる。
すると焦れた満古は漢長領民を猫の子一匹残らず虐殺してしまう。
皆、肛門をひとつきされ無残な亡骸だったと言う。
この様を見た魯罹は恐れおののき、すぐさま降服を願いでたが満古はそれを受け入れなかった
より一層の恐怖を与えるためか満古はここで一旦兵を退く。
漢長の惨事をまざまざと目にした蘭操はこの時何を思ったのだろうか?
精を尽くして仕えた君主の悪魔の様を見て果たして何を悟ったのだろうか?
ただ「漢長大虐殺」が「師宮の乱」に起因すると考えるにはまだ矛盾が多い。
元弁臣たちが一斉に蜂起した理由もその経緯も。
「漢長大虐殺」から「師宮の乱」までの短期間で計画が練られたとは考えにくい、だとすればそれ以前に計画されていたことになる。
しかし蘭操ほど満古に信頼され重宝された人物なら、満古に近付き秘かに密殺することも可能だったはず。
息子たちまで巻き込んで大規模な謀反を起こすまでもなかった。
では何故?
蘭操の起こした事件について、あまりに不可解で謎が多い。
こればかりは蘭操のみぞ知る…
陳国史至上もっとも謎に包まれた事件である。
195:無名武将@お腹せっぷく
07/06/24 18:37:11
■三大武将(今のところ)の簡単な説明■
【陳歩(チンポ)1578~1627年】
農民から北陳の皇帝にまで上り詰めた男。軍人としても政治家としても優れていた。
軍神満古との対決は厨国史上に残る名勝負だった。煩悩寺の変で部下の西廟に討たれる。
【満古(マンコ)1573年~1623年】
軍事的天才。その軍才は陳歩をも上回る。弁王朝を滅ぼし、袁庫、満戸、斉翼
、蘭操らを蹴散らす。化け物的強さを持つ。
【西廟(セイビョウ)?~?】
陳歩の重臣で、淋(りん)の皇帝。天才的な軍人。煩悩寺の変で陳歩を討ち自立。
しかし彼の栄光は長くは無かったようだ。
196:無名武将@お腹せっぷく
07/06/24 21:40:52
【主な出来事】
袁庫の乱 1605年
弁朝滅亡 1607年 満古が弁朝帝都、洛陽を占拠。
笛羅の戦い 1608年 3月 満戸と陳歩の戦い
昌独の戦い 1608年 5月 西廟と陳歩の戦い
青天関の戦い 1609年 満臭族と陳歩の戦い
第一次瀬宮州の戦い 1610年 満古と陳歩の戦い
第二次瀬宮州の戦い 1612年 満古と陳歩の戦い
第三次瀬宮州の戦い 1614年 満古と陳歩の戦い
関中征伐 1615年 陳歩の将、西廟と斉翼の戦い
漢長討伐戦(二侍原の戦い) 1615年 2月 満古と魯罹の戦い
漢長大虐殺 1615年 ?月 満古、漢長領民を虐殺
第二次漢長討伐戦 1615年 ?月 満古と魯罹の戦い
師宮の乱 1615年11月 満古の臣、蘭操が謀反
御那二の戦い 1616年 満戸と陳歩の戦い
第四次瀬宮州の戦い 1618年 満古と陳歩の戦い
通禁羅守の戦い 1620年 雲香と陳歩の戦い
第五次瀬宮州の戦い 1622年 満古と陳歩の戦い
北陳王朝の成立 1625年 陳歩、帝位につく
煩悩寺の変 1627年 陳歩、配下の西廟に襲われ死去。
【その他、年代不明】
暑町の戦い 菩柔と満古の戦い
山田汚露血討伐 倭国の英雄、 乙武尊と大蛇の戦い
買阿愚裸の戦い 陳歩と陰歩の戦い
197:無名武将@お腹せっぷく
07/06/25 22:08:34
陳歩と陰歩には同一人物説すらあるからなぁ。
陳歩と陰歩の戦いは陳陣営での内乱とみるのが正しい。
陳国史演義じゃあ別の人物になってるけどさ。
198:無名武将@お腹せっぷく
07/06/26 00:44:26
■三大武将に次ぐ主な重要人物■
【雲香(うんこう)?~?】
蘭州を本拠にシルクロード交易で栄えた厨国、西端の国。二代目は当主。
誤解されがちだが雲香は女。
陳歩とは一度は敵対関係にあった。
【袁庫(えんこ)?~1625年】
袁庫は偽名。姓名は袁如(えんじょ)、字は公才(こうさい)。
若きころから弁王朝に反感を持っており反政府活動をしていた。
袁庫の乱では一躍群雄となるが、すぐさま親寺狩の戦いで満古に大敗。
その後、陳歩によって処断される。
【弁皮(べんぴ)?~?】
弁王朝のラストエンペラー?
【満戸(まんこ)】
よく勘違いされるが、軍神満古とは別人。
青島を占領して群雄化する。
もともと満古と親交があったようだが敵対。
満古との戦いに敗れた後、陳歩に降るが最終的には左還された。
【上野(じょうや)】
字は栗肉(くりにく)。陳歩の宿将と見られるが、
詳細な人物はあまり知られていない。
陳歩の名が挙がると必ずと言っていいほど上野の名が出てくることから
かなり高い位、軍師的な位置付けにあったと思われる。謎の多い人物。
199:無名武将@お腹せっぷく
07/06/26 19:53:13
帝王・雪怪(テイオウ・セツカイ)1500?~1591
1570~1600代初頭に蜂起
イキナリ、万江や出利辺流周辺に現れた自称・皇帝。
弁朝の指揮官・弁飾によって鎮圧されたが、残党がいつまでも蜂起し、弁朝を弱体化させた。
200:無名武将@お腹せっぷく
07/06/26 19:57:20
刃通(ジンツウ)
後弁朝の中期に仕えたのち下野し、群雄となりあちこちで暴れた武将。
老後は仙人になった。
仙人になった刃通がある日、若き日の陳歩を一目見て、大将になることを予言したとされる。
201:無名武将@お腹せっぷく
07/06/27 21:16:07
■不能1■
【不能(フノウ)1578~1629年・享年51才】
姓は不、名は能。江南の誤王。誤の小陳歩の異名を持つ。若い頃はなかなか
立たなかったが、賢者、智良(ちりょう)を得てようやく立ち、江南の覇者と
なるが栄厨により暗殺される。
【弁の忠臣】
不能は代々、弁の高官を輩出する名門、不家の一族である。彼もまた18歳に
なると弁の官僚となる。彼は正義感が強く、仲間の官僚たちと共に悪徳官僚
、杏暗(アングラ)を激しく弾劾した。しかし政争に破れ朝廷を追い出される。
彼は故郷に戻り、そこでひっそりと不遇のときを過ごすのだった。
【不能・立たない】
1607年、満古により弁王朝が滅ぼされる。不能は血の涙を流して逆賊、満古の
打倒と、弁朝復興を誓い兵を集め立とうとするが、何度やっても兵の集まりが
悪く立つことができない。こうそうしているうちに、満古の討伐が来襲し不能
は少数の部下と共に命からがら落ち延びる。その後、満古から逃げ回る日々が
始まる。
202:無名武将@お腹せっぷく
07/06/27 21:18:13
■不能2■
【不能の仕官先探し】
自分は立てない、このままでは満古打倒の志を遂げることはできない。そう考えた
不能は満古に対抗できる英雄を探すこととした、その人物に仕え満古を討ち、弁朝
を復興しようと考えたのである。まず彼は青島の満戸のもとを訪れたしかし
「俺の部下に立てない男などいらぬ」とあっけなく断られた。関中の斉翼のところへ
いったが「立てないそなたでは斉翼を維持できまい(斉翼の役に立たないという意味)」
といわれ、雲国を訪れてたときは主君の雲固には気に入られたものの、娘の雲香に
「立たない男に興味は無いわ」などと言われ、また仕官できず。英雄探しどころではなく
食い扶持を得るための旅となってゆく。
最後に陳歩のところへ行った。陳歩は勇敢で誠実そうな不能を気に入り仕官を許そうと思
った。不能も陳歩を求めていた英雄と思い。不能が陳歩臣下となるのは時間の問題かと思
われた。
ところが軍師格の上野(ジョウヤ)が強行に反対し、またも仕官できなかったのである。
不能が失意のままに去った後。陳歩は上野の言った。「あれほどの男を何故仕官させな
かったのだ」それに対し上野はこう答えたという。「あの者は人に仕える種類の男では
ありません。きっと主上の役には立たないでしょう。」そう言ったあとこう付け加えた
「あの男は類まれな貴相を持っていました、私は他にあれほどの貴相は2人しか見たこと
がありませぬ。主上と西廟殿だけです。あの男は他人に仕えてはいけないのです。」
203:無名武将@お腹せっぷく
07/06/27 21:20:28
■不能3■
【師宮の乱】
その後、不能はやる気を無くし漢長で細々と商いをしながら過ごしていた。
そして1615年。漢長にて満古軍による虐殺おこなわれる。不能はその現場にいた。
彼は激怒し再び満古を討つために挙兵しようとするがまたも立たず、失敗する。
1615年11月、師宮の蘭が勃発。首謀者の蘭操は弁王朝の復興を宣言した。
蘭操の使者が弁復興のため力を貸してもらいたいとやって来た。
不能はわかっていた。蘭操は弁の復興を反乱の大義名分にしている以上、形だけ
でも弁の旧臣を集めたいのだと。きっと自分の名前も名簿を見て探したに違いない。
だが、不能は満古と戦えればなんでもよかったのである。さっそくわずかな供と共に
蘭操の元へゆき反乱軍に参加した。
そして満古の大軍と戦った。
不能はここを死に場所だと思っていた。まがい物とはいえ復興した弁朝のために
死ねるなら本望だと思ったのだ。だが彼は生き延びた。川に落ち、気づいたとき
には下流にまで流されていたのだ。そこで蘭操の死を知った。
204:無名武将@お腹せっぷく
07/06/27 21:22:15
■不能4■
【三顧の礼】
不能は一人絶望していた。だがかろうじて生き延びた数人人の部下たちが、再び
彼の元に集い。わずかながら元気を取り戻す。もう最期やるしかない。満古を討つ!
1622年、彼は湖南の奥地に住む賢者、智良のうわさを聞き彼をなんとか仲間にやって
きた。智良の草庵をなんとか探し出し、彼に会うことができた。
「弁朝復興のため力を貸してください。」と不能は頼んだ。しかし智良はあなたには
まだ足りないものがあると断った。
数日後再び草庵を訪ね「逆賊満古を討つため力を貸してください。」と頼んだ。しかし
智良は「まだ足りません。もっと部下のことを考えなさい」といって断った。
そして三度目、不能はこういった。「私の欲望のため力を貸してほしい」
すると智良は「及ばずながら」といってついに不能に仕えた。
つまり智良は「不能はもっと自分のため部下のために出世してやろうという気概が足りぬ
といいたかったのである。活力にあふれた大将の元にこそ人々は集まるのである。」
【齢50にしてついに立つ】
1623年、満古死す。不能は自ら逆賊を斬るという願いがかなわず悔しがる。さらに
1627年煩悩寺の変により陳歩も死んだ。自分を認めてくれた英雄の死に不能は深く
悲しんだ。
・・・そして1628年2月。不能、智良を得て齢50にして初めて立つ!ついに立った!
事の次第はこうだ。南方の群雄の一人である長沙の楚駆は圧政で有名であった。
智良の策により不満に満ちた豪族を集め決起、2県を占領しついに立ったのである。
圧倒的な勢いで3月には長沙を制圧。解放軍として迎えられる。
205:無名武将@お腹せっぷく
07/06/27 21:31:52
■不能5■
【誤王即位】
不能は初立ちして人生50年でたまりに溜まった欲求をはらすように怒涛の進撃を
開始する。4月に南昌を攻略。主君の士太(シタ)は亡命。5月、広州の思太羅が降伏。
ここで不能は苦労を共にした旧臣たちにより王になることを薦められ。ついに誤王
不能と名乗る。
8月、穴違いの戦いで武漢の任臣と南京の袁皓からなる連合軍と決戦する。
ここで袁皓の元に身を寄せていた名将、洸文(こうもん)討ち取るという大勝利
を得て、江南を統一する。
【濫江で栄厨によって崩御】
翌1629年、陳歩の敵を討つべく、不能は大軍を率い西廟領へ侵攻した。智良は
この出兵に反対であった。「まだ兵たちは疲れています。出兵もう少し回復を
待ってからがよろしいでしょう。」と言ったのだが、不能は「智先生、心配
には及びません。私は乱世の元凶西廟を討ち一刻も早く厨国を正常な状態に
戻したいのです」と言ってこれを退けた。
当時、西廟はすでに指揮を取れないほど衰弱しており、実質的な指揮は栄厨が取っていた
10月に不能の率いる誤軍と栄厨の軍は濫江(らんこう)で激突した。
智良の懸念どうり、誤兵の動きは鈍かった。しかし今や立ちまくりの不能の
力量を持ってすればこの程度は何の問題も無かったのである。だが不能は濫江
で死んだ。暗殺であった。不能は今までどんな危機に遭遇しても生き延びてき
た。そのため毒見などさせず何でも平気で食べていたのである。そしてあっけ
なく毒物によって死んだ。
206:無名武将@お腹せっぷく
07/06/27 21:33:14
■不能6■
【不能の補足】
不能の死後、彼には跡継ぎがいなかったため、誤の国は旧臣たちによる緩やかな
連合政権となる。一応、智良を中心としてまとまっていた。彼らは栄厨への復讐
に燃え、継続戦争がおこなわれることとなる。
不能の立たなくても立たなくても、諦めない不屈の精神は後世に多大な影響をも
たらした。わが国でも戦前の教科書には不能の精神力と忠臣ぶりが皇国臣民の
手本としてのせられていた。
不能は陳歩を尊敬していたため小陳歩と呼ばれて喜んでいたという。
207:無名武将@お腹せっぷく
07/06/27 21:36:39
不能は智良(ちりょう)によってついに立ち、欲望を吐き出したが、濫江(らんこう)で
栄厨(えいず)の罠にかかり死んだ。この悲劇を題材にしてのちに多数の戯曲がつくら
れることとなった。
208:無名武将@お腹せっぷく
07/06/27 22:42:47
【洸文(コウモン)~1628年】
字は阿盗(アヌス)。雲家に代々使えてきた執事。のち南京の袁皓の元に行く。
輝く星印の旗を掲げて迫りくる姿は陳歩・満古ですら戦いを避けたがった。
栄厨とは親友であり、戦がないときは毎日酒を酌み交わした仲。
城を守らせたら門は絶対開かせない事で有名。
1624年、主君の雲固が亡くなり、娘の雲香が跡を継ぐ。洸文と雲香はもともと
仲が悪く、ついに雲国から出て行ってしまう。
彼は南京の袁皓の客将となり、同じく、袁皓の元に逃れていた袁庫を陳歩に
引き渡すように進言する。
しかし陳歩は袁庫などより洸文の存在こそを恐れていたため、陳歩南征を起こさせた。
このことから、洸文が陳歩の死の遠因を作ったのである。といえる。
1628年、急速に勢力を拡大する誤の不能と戦うが、その勢いの前に敗死する。
209:無名武将@お腹せっぷく
07/06/28 01:57:48
上野は不能を立てるようにして陳歩とともに満古に当たらせる
天下三比の計(てんかさんぴーのけい)を実行すべきだったと思う
不能が陳歩を越えるほど大きくなるのを恐れたのだろうか
210:無名武将@お腹せっぷく
07/06/28 18:43:04
不能って実質1年しか活躍してないよね・・・。
211:無名武将@お腹せっぷく
07/06/28 18:44:32
スレリンク(warhis板:4番)
スレリンク(warhis板)
三戦板復興プラン
3
三国志スレは立てない、立てさせない。
既存の三国志スレもできるだけ追い出し、戦国一色の板を目指す。
三国志には常に無双の影が付きまとい、それが糞スレ発生の温床となっているから一時的に完全除去する必要がある。
三国志を語りたい住民には一時的に中英板へ疎開してもらい、三戦板の情勢安定を待って戻ってもらう。
理解できましたか?
という事で板の糞化の元凶の三国志関連スレッドは中国英雄板に出て行ってください。
これも三戦板のためなんです。お願いします。
中国英雄板
URLリンク(hobby9.2ch.net)
212:無名武将@お腹せっぷく
07/06/28 18:49:55
>>211
あほか・・・。突っ込む気にもなれない。
213:無名武将@お腹せっぷく
07/06/30 12:25:02
【メモ】
①西廟を殺したとされる人物
仁真、秦躍、尿道炎
②西廟の配下
栄厨、臨平、淋廟、暗美邪、虎駒、昆白武、苺独
214:無名武将@お腹せっぷく
07/06/30 18:01:29
■各勢力の配下武将・関連人物■
【陳歩】
芙虞莉 、方慶、上野、貴塔、煤武、丹帆穂、牙懿、陳解、陳珍、出愛敬、孟操、淫蘭、紀騰、相武、額禄、曹柔、太蛇乃、秦躍
【満古】
牌乙、兀班、満猪、諸除幕、薫尼、音進、新麟、新謄、須島、宿助、(蘭操、蘭子、蘭貫)
【西廟】
淋廟、栄厨、臨平、苺独
、昆白武、虎駒、暗美邪
【雲固・雲香】
腹維汰、洸文
【後弁朝】
虐燕、参飛ヰ、弁飾、杏暮、弁序
【満戸】
嶺図、秘女甫
【その他】
、(斉翼、斉鋼、余馬懿)、(聖天関、成系)、魯罹、仁信、胤保、戸霊、手鏡、(菩帯、菩慇、菩乳、新旋、新巌、新暴)、貴須、ミコスリ・ハーン、刃通、(不能、智良)、袁庫、袁皓
215:無名武将@お腹せっぷく
07/07/01 08:29:24
>>214
ご苦労様です。少し手伝いまする。
216:無名武将@お腹せっぷく
07/07/01 15:12:52
【人名録・その1】
>7 西廟(セイビョウ) 淋の皇帝。天才的な軍人
>8 尿道炎(ニョウドウエン)西廟を殺したとされる人物の一人
>15 芙虞莉(フグリ) 陳歩の古参武将
>16 淋廟(リンビョウ) 西廟の義兄弟で猛将
>17 方慶(ホウケイ) 陳歩の古参武将で、粛清される。
>17 上野(ジョウヤ) 陳歩配下の将。参謀格であるらしい。
>18 腹維太(ハライタ) 雲国の猛将
>30 貴塔(キトウ) 陳歩の将。守りに強い
>31 陳解(チンゲ) 陳歩の従弟。謎の多い人物
>32 苦李兎利酢(クリトリス) 満戸軍の猛将
>39 煤武(バイブ) 陳歩の武将
>51 斉翼(セイヨク) 関中に割拠した群雄
>53 牌乙(パイオツ) 満古配下の将。
217:無名武将@お腹せっぷく
07/07/01 16:33:00
丘間(オカマ)
十八京防衛団団長
袁庫らが十八京(ジュウハチキン)に弁帝追撃の為に進撃した際に交戦した武将。
弁朝の圧政には従わなかったが、他の群雄にも大義なし!と悟り、十八京の防衛を続けた。
陳歩・満戸・満古の諸将から誘われたり、攻められたりしたが最後まで十八京を守りぬいた。
智良(チリョウ)の軍が十八京に来た際に投降し、その翌月、96才で病死。
218:無名武将@お腹せっぷく
07/07/01 16:41:22
狽勢腐(バイセクシャル)
字は二刀(ニトウ)
陳歩と満古に挟まれた地域の豪族。
どちらにも従う態度だったためかあまり当てにはされず、陳歩配下の煤武によって城を奪われた。
すると彼は序聖都(ジョセイト)に逃げる。
序聖都の実力者・戯或(ギャル)の客将になるが客として来た満戸に気に入られ満戸配下になる。
満戸が陳歩配下の将になると煤武とは同僚になるが、彼を没落させようと動く。
219:無名武将@お腹せっぷく
07/07/01 20:00:39
そろそろ満古、西廟らも後付け設定が増えたし、書き直しが必要だな。
220:無名武将@お腹せっぷく
07/07/01 20:51:08
菩帯もな
221:無名武将@お腹せっぷく
07/07/01 21:02:23
雲香が陳歩に熱烈な恋文を送ったが、内容がアレすぎて陳歩は縮みあがったという
エピソードがゲーム開発会社のボッタクリ社製の「満古の野望・腐臭録」の武将フ
ァイルに書いてあったな。
222:無名武将@お腹せっぷく
07/07/01 21:47:32
戯或(ギャル)
序聖都の長。低い身分だった自分が弁帝から序聖都を任された事を誇りに思い任務を全うする。
しかし、煤舜(バイシュン)(煤武の縁戚?)ら罪人を見逃し続けた事で袁家が弁朝に対して反逆を起すきっかけにもなってしまった。
満戸の友人であり、度々彼を序聖都にある自分の屋敷に招いた。
陳歩配下の浅断(アサダチ)によって毒を盛られ体調を崩しながら長生きしたらしい。
223:無名武将@お腹せっぷく
07/07/01 21:55:20
浅断(アサダチ)
聖理幻将(セイリゲンショウ)の一人。
陳歩配下として大活躍する剛将。
歴史上、特に優秀な武将にしか与えられない聖理幻将に数えられるだけあって素晴らしい戦いをした。
特に奇襲の達人であり、朝がきたら浅断がくるとまで言われた
しかし、笛羅の戦いで独断で進撃。敵陣で孤立してしまい包計をかけられて捕まってしまう。
その後、陳歩陣営に帰されたが彼の居場所は既にそこにはなかったため旅に出た。
224:無名武将@お腹せっぷく
07/07/01 22:03:32
雲智(ウンチ)
雲一族の軍師
彼のまわりは常に人々が居たと言われるほど人望があった。中にはならず者もいたが、この中に後の兎慈(ウジ)や崟栄(ギンバエ)といった雲国をさらに発展させた武将がいた。
雲一族の最高権力を握るが雲香に破れ下野した。
225:無名武将@お腹せっぷく
07/07/01 22:09:24
傑勉(ケツベン)
雲国の武将。雲智の武勇に惚れ義兄弟になるが、聖理幻将に数えられた雲智ほどには成れなかった。
しかし、彼も優秀な武将であり、雲国が厨国の群雄とやりあうのに活躍したのは確かである。
226:無名武将@お腹せっぷく
07/07/01 22:12:26
兎慈(ウジ)
雲国の武将。
障害者であり、腕や足がなかった。しかし、差別せずに接してくれた雲智を慕い、彼の下で兵法を学んだ。
雲智が失権したあとに雲国を舵取りし、強力な国にした武将である。
227:佐倉広夢 ◆IENTwyoWGs
07/07/01 22:13:33
【人名録・その2】
>71 袁庫(エンコ) 弁朝に反乱を起こした人物。袁庫の乱は有名
>76 兀班(パイパン) 満戸の子
>77 虐燕(ギャクエン) 弁朝の臣。満戸の義父
>81 巣又(スマタ) 満戸軍
>87 嶺図(レズ) 一代の群雄だったと思われる。
>88 牙懿(ゲイ) 陳歩の将。
>>89-93 陳歩(チンポ) 説明不要の時代を代表する英雄
>95 陳珍(チンチン) 陳歩の従弟
>97 弖霊曖(テレクラ) 南方諸国の将
>98 出愛敬(デアイケイ) 西廟の将
>99 孟操(モウソウ) 陳歩の参謀
>100 満虎(マンコ) 古代の兵法家
>101 満猪(マンチョ) 異文化の国の人物
228:無名武将@お腹せっぷく
07/07/01 22:16:40
崟栄(ギンバエ)
雲国の武将。
組執(クミトリ)の塾で学んだ後に雲智の配下になった。
雲智失権後は崟栄が雲智からの指示を兎慈に伝えた。
光り輝く鎧は戦場でも目立ったとされる、雲固らを護る栄衆(ハエシュウ)の一人として活躍した。
229:佐倉広夢 ◆IENTwyoWGs
07/07/01 22:23:01
>102 平丹蛮(ペニバン) 異民族
>103 頭津棍(ズッコン) 南方の族王
>105 参飛ヰ(サンピイ) 弁王朝の政治家
>106 弁飾(ベンショク) 大弁の皇族
>107 杏暮(アングラ) 弁王朝の悪徳政治家
>108 栄厨(エイズ) 西廟の大将軍
>>114-115 満古(マンコ) この時代を代表する軍神
>124 紀騰(キトウ) 陳歩挙兵以来の宿将
>128 陳戟(チンポコ) 兵法家
>129 諸除幕(ショジョマク) 満古の将
>131 薫尼(クンニ) 満古配下の尼さん
>132 相武(アイブ) 陳歩配下の将。
230:無名武将@お腹せっぷく
07/07/01 22:23:13
組執(クミトリ)
字は沒屯(ボットン)
雲国で塾を開いていた中流の武士。
彼が育てた人物で有名な者には兎慈や崟栄、雲智がいる。
雲固らをクーデターで倒す計画を立てるが雲固の参謀・翠扇(スイセン)によって見破られ追放される(これが遠因となり雲智が失権したらしい。)。
231:無名武将@お腹せっぷく
07/07/01 22:27:30
翠扇(スイセン)
容姿端麗な学者。雲国の大参謀。
組執のクーデターを事前に見破り更に権威が増して参謀から大参謀になった。
魚擦都(ウェシュレット)の都を新たに築き上げ雲国を発展させるが、彼は忠臣ではなかったらしく様々な敵勢力に通じていた。
232:佐倉広夢 ◆IENTwyoWGs
07/07/01 22:32:59
>>229【人名録・その3】
【人名録・その4】
>133 額禄(ヌカロク) 陳歩の将
>134 斉鋼(セイコウ) 斉翼配下の将
>135 臨平(リンビョウ) 西廟の将
>136 魯罹(ロリ) 慰妄盗道教団の教祖
>137 苺独(バイドク) 西廟配下の将
>138 昆白武(コンジローム) 西廟配下の将
>139 曹柔(ソウニュウ) 陳歩配下の将。
>140 満戸(マンコ) 主要な群雄の一人。満古とは別人
>141 仁真(ニンシン) 西廟を滅ぼしたとされる将の一人
>142 秘女甫(ヒメハジメ) 仙人
>144 胤保(インポ) 独立勢力
>146 戸霊(ペレ) 仙人
>147 太陀乃(タダノ) 陳歩配下の武将
233:無名武将@お腹せっぷく
07/07/01 22:34:53
魚擦都(ウェシュレット)×→魚擦都(ウォシュレット)◎
234:夷王侍従統亮(正五位下・蝦夷押領使) ◆qG5Uj1x8xc
07/07/01 22:48:08
夷星(イボヂ)
雲国の右将軍
雲智らをなんとかして追放から助けようとしたが力が及ばなかった。(しかし、夷星のお陰で追放ではなく謹慎で済んだ)
暮らしに困窮する失権後の雲智に生活費を送るなど、何かと面倒をみるやさしい武将。
しかし、戦場では豹変する。味方を犠牲にしても進撃する烈将である。
235:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 00:12:59
芽越路(メコスジ)
地名
陳歩の勢力圏~序聖都~満古の勢力圏を結ぶ巨大な道。
途中、瀬宮洲や出利辺流を通らなければならないため一筋縄ではいかない道。
大体こんな感じの形をしている→→∈。
三又の街道。真ん中の道は延々とジャングルが続いている。
236:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 00:51:33
震魔(ブルマ)
版津賊(パンツゾク)の武将。
芽越路を拠点にしている賊である版津賊。その中でもあちこちから勧誘がくるほど優秀な武将だったのが震魔である。
賊の頭である振怖(ブリーフ)の義弟だがあまり協力はしていない。
振怖が陳歩に降った際には意見の食い違いから満古に降った。
後には衛布将軍という称号を満古から与えられたほど活躍した。
237:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 00:59:43
斗蘭楠(トランクス)
元は弁朝の役人だったが、今は版津賊に入り暴れている武将。
振怖の義理の息子として扱われている。早くから陳歩に注目しており、よしみを通じていた。その為、義父が陳歩に降るのを斡旋した。
238:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 01:04:37
尾睦(オムツ)
版津賊の最強の将とされる。
版津賊が創始されたときに、弁朝の討伐軍が大量におしよせたが無二万の計(ムーニーマンのケイ)や半髪の計(パンパースのケイ)を駆使して版津賊を守った
後には振怖と震魔の対立に嫌気がさして雲国へと旅立った
239:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 01:08:56
振怖(ブリーフ)
版津賊を創設した豪族。
芽越路周辺を荒らし回ったが後に陳歩陣営に降った。
しかし、斗蘭楠の様に重用はされず、斬二王(ザンニョウ)という陳歩配下の人物によって暗殺された。
彼の屋敷は無残にも汚され、破壊され尽くしていた
240:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 01:11:46
弾尼(ビキニ)
版津賊の尼。
振怖の正妻でもある。
際どい世渡りをするため、皆がハラハラしながら見ていた。
夫が陳歩に降った際には彼から離れて満古の下に降った。
241:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 01:17:15
乱背李(ランジェリー)
版津賊の将。敵を惑わす策士として名を馳せる。
震魔の親友であり、共に満古陣営に降った。
なかなか活躍したために惑布将軍の称号を得た。
242:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 01:22:36
蕪羅蛇(ブラジャー)
版津賊の将。
正確には彼は版津賊ではなくれっきとした弁朝の高官。
ただし、版津賊に対して援助を行い、共に暮らしていたため版津賊として扱われる。
弁朝の版津賊討伐軍に先鋒として派遣された際に正式に版津賊に加入した。
のちに震魔と共に満古に降った。満古陣営での称号は飾布将軍。
243:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 01:25:45
縫譜裸(ヌーブラ)
山岳部に住む豪族。普段は山岳部と一体化しているため見つからない。
版津賊と交易しているため版津賊扱いされている。
244:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 01:29:24
濃斑(ノーパン)
弁朝の重臣。
幼い頃から弁朝に仕えているエリート。
版津賊討伐の総司令官だったが、尾睦によって大敗してしまった。
敗走するさいにシャブシャブを食べていたため攻撃され死亡した。
245:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 01:34:33
奮怒士(フンドシ)
版津賊の精鋭隊を奮怒士と称する。
昔からこの地域に住んでいる民中心の兵だが、それを振怖が組織し直し、尾睦が鍛えた厨国屈指の精鋭。
彼らを称して、他国二万の兵に匹敵するは奮怒士百人と言われている。
246:佐倉広夢 ◆IENTwyoWGs
07/07/02 08:04:18
【主な出来事】
袁庫の乱 1605年
弁朝滅亡 1607年 満古が弁朝帝都、洛陽を占拠。
笛羅の戦い 1608年 3月 満戸と陳歩の戦い
昌独の戦い 1608年 5月 西廟と陳歩の戦い
青天関の戦い 1609年 満臭族と陳歩の戦い
第一次瀬宮州の戦い 1610年 満古と陳歩の戦い
第二次瀬宮州の戦い 1612年 満古と陳歩の戦い
第三次瀬宮州の戦い 1614年 満古と陳歩の戦い
関中征伐 1615年 陳歩の将、西廟と斉翼の戦い
漢長討伐戦(二侍原の戦い) 1615年 2月 満古と魯罹の戦い
漢長大虐殺 1615年 ?月 満古、漢長領民を虐殺
第二次漢長討伐戦 1615年 ?月 満古と魯罹の戦い
師宮の乱 1615年11月 満古の臣、蘭操が謀反
御那二の戦い 1616年 満戸と陳歩の戦い
第四次瀬宮州の戦い 1618年 満古と陳歩の戦い
通禁羅守の戦い 1620年 雲香と陳歩の戦い
第五次瀬宮州の戦い 1622年 満古と陳歩の戦い
北陳王朝の成立 1625年 陳歩、帝位につく
煩悩寺の変 1627年 陳歩、配下の西廟に襲われ死去。
【その他、年代不明】
暑町の戦い 菩柔と満古の戦い
山田汚露血討伐 倭国の英雄、 乙武尊と大蛇の戦い
買阿愚裸の戦い 陳歩と陰歩の戦い
247:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 08:07:55
帝王・雪怪(テイオウ・セツカイ)1500?~1591
1570~1600代初頭に蜂起
イキナリ、万江や出利辺流周辺に現れた自称・皇帝。
弁朝の指揮官・弁飾によって鎮圧されたが、残党がいつまでも蜂起し、弁朝を弱体化させた。
刃通(ジンツウ)
後弁朝の中期に仕えたのち下野し、群雄となりあちこちで暴れた武将。
老後は仙人になった。
仙人になった刃通がある日、若き日の陳歩を一目見て、大将になることを予言したとされる。
248:佐倉広夢 ◆IENTwyoWGs
07/07/02 11:36:31
【机上の空論(民明書房・弁末動乱の英傑たち)】
400年前の厨国の2人の軍事的英雄、満古は騎上の将、それに対し西廟は机上の将と呼ばれた。
西廟は机上で天上より地上を見下ろすがごとき見事な軍略を生み出すことができた。
これにより、極めて優れたな戦略を「机上の空論」と呼ぶこととなった。
現在ではまったく逆の意味で使われているが、その原因が文化大革命の影響により本当に厨国
文化が変わり果ててしまったからであることは言うまでも無い。
249:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 13:05:14
西廟は栄厨が勢力拡大していることに気付ければ良かったんだが・・・
大局を見すぎて目先の事に気付かないのは西廟の悪い癖だな。
250:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 13:12:21
重羅史(オモラシ)
弁朝の歴史を綴った歴史書。
弁帝が重羅士(オモラシ)と共に挙兵した時から後弁朝滅亡までが書かれている
もともと重羅士の一人だった弁帝だったが、暗黒王朝として有名な裏(ウラ)の美出王(ビデオ)に対して重羅士が反乱を起こしたさいに権力を握ったために後に皇帝になったのだ
251:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 13:21:50
師艦(シカン)
弁朝の軍人。
杏暮の従弟。
優秀だったが異常な趣味の持ち主だった。その為に配下に嫌われてしまう。
序聖都を攻めている最中に敵の女性に死姦をしようとした際に配下に追放される。
その後、流浪の旅を続け、杏暮の下に帰ろうとしたが消息不明になる。
252:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 13:26:21
十関(ジュウカン)
十八京の周囲を囲む天然の要塞。
十人が関に当たれば百万いても貫くことが出来ないと言われた。
しかし、満古が攻めた際には獣道から入り込まれ十八京は満古が攻め落とした
253:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 13:32:57
賺跳鹵(スカトロ)
弁朝の政治家。弁飾の直臣。
悪政を重ねたため、民衆が飢饉に苦しめられ人が自分の便を食らう様相になった。
弁滅亡時に満古軍に殺害された
254:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 13:38:31
縫怒(ヌウド)
満古の配下。元は弁朝の政治家。
「包み隠さず」がモットーの名政治家。
弁朝滅亡の際に満古が迎え入れた。満古が外征している間、彼は善政を布いた。
255:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 13:47:54
歪摂(ワイセツ)
虐燕配下の武将。
満古がいずれは袁庫らを破り、天下に覇を唱えるのではないかと考えていた。
虐燕に対して満戸を利用して満古を討つように提案したが虐燕には採用されなかった。
歪摂の優秀さに危機感を持った満戸の発言は策を使い虐燕は歪摂を追放してしまった。
歪摂は満戸に対して復讐心を持ち続け、満古の配下になり満戸と戦うため後に海泡瀬に兵を派遣した
256:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 13:50:05
弁貴(ベンキ)
弁の皇族。陳歩に担ぎあげられ弁朝復興の為に利用される。
257:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 13:53:15
弁如(ベンジョ)
弁の皇族。弁朝の南方司令官。
袁が反乱を起こしたさいに真っ先に捕まってしまった。
脱獄して雲国まで手足が縛られたまま逃げた、というタフガイ。
258:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 13:58:46
押芽(オシメ)
版津賊の武将。尾睦と共に版津賊を群雄として成長させた。
尾睦と押芽のふたりは兵十万に匹敵するとさえ言われた。
版津賊の崩壊後は雲国へと落ち延びていった
259:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 14:10:09
四九不満【ヨッキュウフマン】
弁朝末期。弁帝は諸将を呼び集めて会食をしていた。(そこには地方の一豪族だった陳歩もいた。)
次第に酔いが回った虐燕と袁庫が口論をし始めた。お互い忠臣は私だ私だと揉めていた。
仲裁に入った弁帝は「そなた等の言いたいことはわかった。袁庫は四ヶ国、虐燕は九ヶ国を所有している。これが弁朝への忠誠心を現わしているのではないか?」と語ったのである。
袁庫はこれが不満だったらしく、終生忘れなかったとされる。
260:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 15:30:24
歪摂
の発言 という部分は削除を宜しく。
261:無名武将@お腹せっぷく
07/07/02 15:31:35
つーか 二チャンじゃない別の場所にマトメサイトほしいっすな。
これだけのものが出来たのにもったいない
262:佐倉広夢 ◆IENTwyoWGs
07/07/02 17:00:40
>>261
頑張ってね
263:佐倉広夢 ◆IENTwyoWGs
07/07/02 20:41:30
■西廟その1■
【西廟(セイビョウ)1583~1630年】
淋の皇帝、時代を代表する軍事的天才で、机上の西廟と呼ばれる。
【生い立ち】
西方の遊牧民族の族長の子であったが、一族は弁王朝に敗れ、幼い西廟は
厨国商人によって、奴隷として売られた。
西廟は力が弱く、労働には役に立たなかったため、食事は他の奴隷たちの半分
ほどであったという。そのためいつも飢えていたが、同じ境遇であった淋廟と
義兄弟となり、彼から食を分けてもらい生き延びることができたという。
(淋廟は力が強かったため、他の奴隷の倍近い食事をもらっていた。)
やがて世の中が混乱してくると、乱暴な主人を殺して脱走する。お尋ね者となり
役人から逃げ回る日々が続き、彼らは生きるために盗賊としてなった。
【盗賊時代】
そんなある日、ついに追いつかれ、役人の追っ手と戦うことになった。
役人たちの隊長は臨平といい巨漢の豪傑であった。同じく豪傑であった淋廟と
激しく討ちあった。激しい戦いの後、ついに淋廟は勝ち、臨平は捕らわれ、率い
てきた役人たちは驚いて逃げ出した。
西廟はこれほどの男を殺すのは惜しいと、臨平を逃がした。
ところが生きて帰ってきた臨平は、西廟らと繋がりがあると疑われ、反逆罪に
なってしまう。それをかばった友人の苺独もまた、疑われ同罪となった。
二人は処刑される寸前に西廟らに救われ、その後、行動を共にすることとなった。
その後、昆白武の盗賊団と縄張り争いとなったが、西廟の見事な機転で、戦わず
して昆白武らを服従させることに成功する。
この頃から、仲間たちは西廟の類まれなる智謀を知ることとなり、大将に担ぎ上げる
ようになった。