07/03/05 14:55:13
後漢末期の建安年間とその前後には、唐代以前の詩聖・曹植や
曹操・曹丕・曹叡など曹家の偉大な詩人たち、建安の七子などが
たくさんの優れた文学作品を残し、中国文学を著しく発展させました。
三国志の戦いや武将、社会情勢などが、
それらの漢文の重要な題材や背景となっています。
また、後世の中国・日本の文芸の題材にも、
三国志の英雄たちは多く取りあげられています。
文学的な側面からも、歴史・人物的な側面からも、
真面目に語るも気ままにだべるも良し。マターリ楽しみましょう。
三曹でも西晋でも蘇東坡でも土井晩翠でもなんでもおkかとミ ・∀・ ミ
纏めサイトさん・過去ログ
URLリンク(www.geocities.jp)
避難所
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
関連スレ
ねえ、曹操の詩って良いよね(古文・漢文板)
スレリンク(kobun板)
曹操の詩(中国英雄板)
スレリンク(chinahero板)
2:1(ry
07/03/05 14:57:32
前スレ
三国時代の文学スレッド2
スレリンク(warhis板)
三国時代の文学スレッド
スレリンク(warhis板)
前スレの過去ログ
三国時代の文学スレッド2
URLリンク(www.geocities.jp)
三国時代の文学スレッド
URLリンク(www.geocities.jp)
3:無名武将@お腹せっぷく
07/03/05 15:18:41
乙
前スレ夜埋めるならもうこっちでいいかな。
于禁も丁儀も良く取れば取れる物だな。
4:無名武将@お腹せっぷく
07/03/05 16:44:15
>>1
乙です。
5:無名武将@お腹せっぷく
07/03/05 16:59:46
おつーる
6:1(ry
07/03/05 17:11:16
乙であります(`;ω;´)ゝ
_,,..,,,,_ _,,..,,,,_
_,,..,,,_/ ・ω・ヽ/・ω・ ヽ,..,,,,_ 前スレの>>983-から相談したとおり、
./ ・ω_,,..,,,,_ l _,,..,,,,_/ω・ ヽ ひとりの文学者に視点を固定しすぎると
| / ・ヽ /・ ヽ l その文学者にとっての利害が一般化してしまって
`'ー--l ll l---‐´ よりいろんな角度からの鑑賞がむずかしくなってしまうですね。
`'ー---‐´`'ー---‐´ せっかく三世紀の中国の人にたいして中立的な立場にあるしw、
唯一の解がないのが文学のいいところだとおもうので、
いろんな角度からマターリ鑑賞できるように気をつけていきたいですー。
7:無名武将@お腹せっぷく
07/03/05 17:14:51
>>6
乙です。
そんなに気にしなくてもいいんじゃないか?
文学スレなんだし、文学作品の鑑賞に留めておけば
角が立つようなこともないでしょう。
そこに政治や軍事を絡めるからややこしくなる。
8:無名武将@お腹せっぷく
07/03/05 17:16:18
ひよこw
楊修の先祖の雀話が不思議だった
4代しか続かないって予言されてたってことだよね
9:無名武将@お腹せっぷく
07/03/05 17:17:36
ま、作品と人格は必ずしも一致するとは限らないからね。
10:無名武将@お腹せっぷく
07/03/05 17:21:30
前スレの「不良が子犬を拾う~」ワラタ
賈クあたりも、もし彼の文章が残っていたら
「実はかわいい親父じゃないか」ってことがあるのかもな
11:無名武将@お腹せっぷく
07/03/05 17:30:30
>>6
楽しくやってきましょー
三国時代以外でもこのスレのおかげで
王敦とか陸機兄弟など興味持った人いっぱいで幸せだよ('∀')
12:無名武将@お腹せっぷく
07/03/05 17:35:27
>>6
ひよこ饅頭カワイイw
しかし、思っていたよりも前スレが早く埋まってしまったけど
菊慈童うp気長にお待ちしてますー
13:1(ry
07/03/05 17:36:41
>>7,>>9
時代背景と文学作品の鑑賞は絶ちがたいですが、背景の考察は(とくに為政は)
文学側から追うのはむずかしいときも多いですからねー。
せっかく為政系の考察スレがまわりにいっぱいあるので、突っこんで考えたいときには
内容に適したスレがいいかもですね。逆に文化史を為政系のスレで考えるのはむずかしそうですーw。
>>10
賈クは奏請治王立周忠罪というのがあるみたいですが、これはビジネスライクですw。
>>8
後漢書の記述なので、自分もふしぎですー。楊修はちょうど五代目なのが(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
しかし、前スレ>>922さんに教えていただいたとおり、後漢書のあそこのとこを読んでから
野田黄雀行をよむと、曹植たんのもっていたものがどれほど大きなかなわない願望だったのかと思うですー。
その悲しみをあざやかに表現する気骨の太さをもった人が、それをどれだけ悔しく思っていたのかと。・゚・(ノД`)・゚・。
>>11
ずっと思っていたのですが、陸雲たんがただの爆笑ツマヨウジパクラーあつかいなのは
もうしわけないので、陸雲たんの詩をうpしてみるですー(`・ω・´)ゝ
>>12
バランスよくうpしてみるです(`・ω・´)ゝ
14:無名武将@お腹せっぷく
07/03/05 17:42:30
>>10
そういえば賈クも腹黒い軍師というイメージがあるけど
私生活面では娘の相手に役人の家柄を選ばなかったりと
良いお父さんだったらしいですねー
15:無名武将@お腹せっぷく
07/03/05 17:45:36
>>14
官界での権力闘争の怖さを知っているからこそ交友を広げないのは賢いよね
自分は一代限りでプレイヤーから降りますよって宣言すればあとは有り余る資産で悠悠自適だしさ
16:1(ry
07/03/05 18:37:28
>>14-15
陸遜・陸抗・二陸兄弟もプレイヤーからおりてくれれば。・゚・(ノД`)・゚・。
陸雲たんの詩をうpしてみるです。
『答兄機』 陸士龍
悠遠塗可極 別促怨会長
銜思恋行邁 興言在臨觴
南津有絶済 北渚無可梁
神往同逝感 形留悲参商
衡軌若殊跡 牽牛非服箱
(適当書き下しorz)
「塗(みち)は悠遠なるも極(きわ)む可(べ)く、別れは促(すみ)やかに会うは長きを怨む
思いを銜(ふく)みて行邁(こうまい)を恋い、興(た)ちて言(ここ)に觴(さかずき)に臨む在り
南の津(きし)に絶済(ぜっせい)の有るも、北の渚には可梁の無きを
神(しん)は往きて逝く感を同じくし、形は留りて参商(さんしょう)を悲しむ
衡軌(こうき)の跡(あと)を殊(た)つが若(ごと)く、牽牛の箱(くるま)に服(つ)くに非ざる」
(適当訳orz)
「みちのりははるかに遠くても終わりがありますが、お別れはすぐなのに、
お会いできるのははるかに先なのをうらめしく思います。
思いを内に含み、遠くへゆかれることをこいしたいながら、たちあがってこのさかずきにのぞみます。
南の川岸には切りたった舟の渡し場がありますが、北の砂でできた渚にはかけられる橋がありません。
私の精神はいっしょについていって、最期のときも同じことを感じます。
しかし肉体はここに留まり、参星(オリオン座)と商星(金星)のように
常に二人が離れていることを悲しみます。
馬車の横木とそのわだちから、そのわだちの跡がたたれたようなものです。
車をひく牛が、車につながれなくなってしまったようなものなのです」
17:1(ry
07/03/05 19:02:00
>>16
これは、陸雲たんが兄の陸機とわかれることを悲しんで詠んだ作なのです。・゚・(ノД`)・゚・。
前スレ>>852-853さんの黄耳の話のとおり(違うときかも)、陸機はひとりで北(洛陽)に
いかなくてはいけなくて、陸雲たんは兄とわかれて南(呉)に残ることをうらんで詠んだのですね。
なので、さかずきというのはお別れのさかずきだと思うですー。
南部をながれる長江は赤壁があるぐらいなので、切り立った断崖のような川岸で、
その下に宋代の絵にでてくるような船着場のようなものがあるのだと思うのですが、
北部にある黄河は砂漠のなかを流れてくるので、砂洲があって遠浅で、
舟をわたしにくいし橋もかけづらいのではないのかと思ったです(違うかもorz)。
参商というのはオリオン座(深夜に南中)と明けの明星(午後一番に南中)のことで、
いちどに同じときに夜空にのぼることがないので、会えない人をたとえることだそうです。
さいごの句の牽牛は、ヒコボシのことではなくて牛車をひく牛のことだとおもうのですが、
二つ前の句でだした星座によびかたをかけて表現しているのですおね。
衡軌……のくだりは、上海古籍出版の文選の注がなんかよくわからなかったのでorz、
てけとーに訳してしまいますたorz。
とてもロマンチックなわかれの悲しみの詩だと思うですー。
郷土(呉)への憂国と愛情のおもいが薫り、しかしそれ以上に兄について行きたいという別れの悲しみと、
その別れる距離のとおさが、くりかえされる路に関した描写でどれほどのものかと想像させると思うですー。
馬車のあとについてできるわだちの跡が馬車からひきはなされる、
車をひく牛がもう車につながれていないという喪失感の表現は、いままで弟が兄についていき、
ときに助けていたんだなーと思わせ、それが失われるかなしさと淋しさを感じさせるように思いますた。
兄ちゃんと仲よしだったんだろうな。・゚・(ノД`)・゚・。
もし黄耳のときによんだ作ならば、このあと洛しばらくして陽で陸兄弟は合流できるわけで、よかったですー。
18:無名武将@お腹せっぷく
07/03/05 19:23:50
>>17を見るまで恋人と別れる詩かと思ったw
19:無名武将@お腹せっぷく
07/03/05 19:35:19
>>17
時系列的には、
曹操の爪楊枝パクって兄弟でキャッキャッと楽しい日々を過ごすのは
この後になるのかな?
20:無名武将@お腹せっぷく
07/03/05 20:26:34
>>18
俺も俺もノシ
兄貴と何歳違うんだ?どんだけ仲良かったんだ・゚・(ノД`)・゚・
21:無名武将@お腹せっぷく
07/03/05 20:35:17
>>19 兄弟でキャッキャッと楽しい日々
ならいいんだけどね。
手紙をやりとりしてたくらいなので、一緒に暮らした時期は短かったんじゃないかな?
しかも陸機は晋の人士達との間に強烈な軋轢を起こしてるから。
早く呉に帰って、兄弟仲良く東晋で高位に就いてくれていたら…と思うよ
でも、こんなに心惹かれることも無かったかもしれん
>>20
年子。ひとつ違い。お互いに作品を添削しあってたみたいだね
陸雲は兄以外の人に送った手紙も残ってるんだが、やっぱよそよそしいものが。
『平復帖』がさっぱりよくわからんのです
わかるとこまでうpしますが、どなたか助けていただけますか?
22:無名武将@お腹せっぷく
07/03/05 21:09:30
>>21
俺は漢文全く駄目なんで無理だが、誰かが手伝ってくれると思う…
陸雲は兄思いの良いヤシだ。・゚・(ノД`)・゚・。
23:無名武将@お腹せっぷく
07/03/05 21:36:07
>>16-17
兄貴を心底慕っているのがよく伝わってくるね
この兄弟、死ぬ時は一緒なんだよな
24:無名武将@お腹せっぷく
07/03/05 21:41:47
本当に陸一族は真っ直ぐな心を持っているよな…泣ける。
25:無名武将@お腹せっぷく
07/03/05 22:07:15
>>16-17
>衡軌……のくだりは、上海古籍出版の文選の注がなんかよくわからなかったのでorz、
>てけとーに訳してしまいますたorz。
明治書院「新釈漢文大系14文選」では
「衡軌若し跡を殊にせば、牽牛の箱(くるま)に服(つ)くに非ざるごとし」
と訓じ、軌を軛(くびき・轅の端の部分)の誤りとして、
「車の轅(ながえ)の端の横木と車軸とは共に在るべきなのに
迹を殊にするようなことがあっては、牽牛という名の星ばかりで、
車につけられないのと同じである(兄弟も衡軛のごとく一緒にいてこそよいのである)」
と作っているよ。
しかしこれは意味が通り難いので>>16の解釈の方がいいと思う
26:無名武将@お腹せっぷく
07/03/06 02:26:27
新スレage
27:無名武将@お腹せっぷく
07/03/06 10:36:57
某日、歴ゲー板に「無双シリーズ史上最悪の失敗点」というスレが立つ。
しかし良スレだったスレは三国無双2信者によって中盤から荒らされ大変なことに・・
しかし荒らし達はカズ子なるコテが犯人だということにしようとしたものの
明らかに自分達がスレの混乱を招いた張本人であることがバレバレw
好評な無双シリーズの他作品に対するすさまじい嫉妬から、いつもの如く
気持ちよくスレを荒らしてたゴキブリ共であったが
スレ住人らに自分達の厨行為を正当化するのが無理であることを思い知らされ突如豹変。
自分達のスレでコソコソ陰口叩きつつも恥ずかしいログを流すべく、
怒涛の連投で失敗点スレを埋めていくのであったw
この日を境にものすごい勢いで2信者は暴れ出し今も無双関連スレを荒らしてるが、
失敗点スレで論破されたという恥ずかしい過去は消えるのだろうか・・・
彡川三三三ミ
川川 ::::::⌒ ⌒ヽ
川川::::::::ー◎-◎-) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
..川(6|:::::::: ( 。。)) < 2こそ最高w
川川;;;::∴ ノ 3 ノ \__________
ノ\_;;;;;;;;;;;;;;;;ノ ゲプッ
( * ヽー--'ヽ )
(∵ ;) ゚ ノヽ ゚ ):) ○三国無双2信者
(: ・ )--―'⌒ー--`,_). ○36歳
(___)ーニ三三ニ-) ○歴ゲー板の荒らし(そろそろ2年目に突入)
(∴ ー' ̄⌒ヽω ). ○無職
`l ・ . /メ / ○中卒(議論で瞬殺される凄まじい低能ぶり)
ヽ ∵ /~- / ○童貞
(__)))))_))))) ○好きな行為『2を誉めてくれないスレへの荒らし』
. ○嫌いなコテ『カズ子』
28:無名武将@お腹せっぷく
07/03/06 11:22:53
>>25の意味が解らないのでkwsk
29:無名武将@お腹せっぷく
07/03/06 14:52:17
>>18
遅れ馳せながらノシ
こんなに仲のいい兄弟が゚・(ノД`)・゚
30:まとめサイト ◆XoQX5vgfQU
07/03/06 16:08:57
URLリンク(www.geocities.jp)
ここまでUP
31:無名武将@お腹せっぷく
07/03/06 20:01:25
>>30
いつも乙です。
32:無名武将@お腹せっぷく
07/03/06 21:42:52
>>28
轅(ながえ):馬車・牛車(ぎっしゃ)などの前方に長く突き出ている2本の棒。
先端に軛(くびき)をつけて牛や馬に引かせる。
>>16の軌を軛の誤りとして、轅と軛は共にあるべきであると解しているらしい。
しかし軌を原文通り馬車の軌(わだち)と解釈するほうが「若殊跡」が自然に解釈出来るし、
牽牛は>>17氏の如く表現を掛けているだけで実際は荷引き牛と解釈したほうが自然であると思う
33:1(ry
07/03/07 01:11:52
まとめさんいつも乙であります(`・ω・´)ゝ
>>18-
#答兄機(陸雲)
これがいつごろの作なのか、上海古籍出版の文選と文津出版社の陸清河集には
かいてないようなので、自分はよくわかりませんですたorz
「南津有絶済、北渚無可梁」というのは、あきらかに長江流域を去って
黄河のほうへいく兄をさしていると思うので、陸機が洛陽にいって
陸雲は呉にとどまる(そいで陸機が黄耳に手紙をたのむ?)という場面だとおもうのですが……orz
もしそうなのだとしたら、陸雲も晋につかえ、ツマヨウジの手紙をかいたりするのはこのあとですおね。
URLリンク(www.geocities.jp)
↑前スレにうpしたところなのですが、世説新語なので本当かどうかよくしらないのですが、
洛陽ではいそがしくて離れて文通していることも多かったのでせうが、
こうして一緒の寮にすんでいたりできたこともあったみたいで、よかったです(*´Д`)
司馬穎のときに兄弟で呉にかえっていれば……うあーんばかばか。・゚・(ノД`)・゚・。
陸雲はこの作で「南津有絶済、北渚無可梁」として、亡国への愛情をうたっていますが、
しかしあるいは呉をすててでも兄についていきたい、という心情をうかがわせるところが、
陸雲らしいなーと(自分は)思うのですー。すごく兄ちゃんが好きだったんだろうな。・゚・(ノД`)・゚・。
>>25,>>28,>>32
URLリンク(p.pita.st) ←わかりづらくてすまんですが、牛車とかはたぶん
こういうふうになっていると思うのですー。自分も「軌は軛のあやまり」「牽牛=ヒコボシ」とするよりも、
「軌」も「牽牛」ももじどおり「わだち」「車をひく牛」として(牽牛は参商と表現だけをかけことばにして)、
「車(陸機)とわだちの跡(陸雲)がべつべつにされる」「車をひく牛が車につながれていない」としたほうが、
とおりがいいかと思ったのですが、よくわからんです……orz。
>>21
平復帖か、ふっ、まかせたまえ。といえればいいのですが、むりぽですorzw
でもぜし読みたいのでうpきぼんですー(0゜・∀・)wktk
34:無名武将@お腹せっぷく
07/03/07 01:19:35
絵の横に伸びている棒がナガエ?
35:1(ry
07/03/07 01:38:00
>>34
そうなのですー。封筒の裏でみづらくて済みませんorz
ながえの先にくびき(牛の背中をまたいでいる黒いやつ)をつけて、そのくびきを牛にくっつけて(?)
車をひかせるのだと思うですー。中国の三世紀の牛車はちがうかもなのですが……orz orz orz
そいで、牛車(馬車でも)のけつのところを見ていただければ一目瞭然だと思うのですが、
車のわだちは、いつも車のうしろにでっぱったながえの先っぽをおいかけて離れず
ついてできるのですおね。それを、いままで車(兄)をおっていたわだち(弟)にたとえて、
車からわだちをひきはなすなんて、そんな無理な表現をすることで、
兄ちゃんとの別離のかなしさを詠んだのかなーと思ったのですー。
そうすると、つぎの牽牛……にも詩景がむりなくつながるし、全体をとおしてくりかえし
描写される、兄がゆく路のながさを想起させる表現にも合致するかなーと思ったのですが……。
軌(わだち)を軛(くびき)のあやまりとしてしまうと、>>32さんのように、「跡を殊つ」というのが
意味不明になってしまい、しかも次の句でヒコボシを出してくると、もうわけがわからないので
>>16のように解釈してみたです……でも文選も長いあいだ学者のみなさんが研究されている
ことなので、自分がまちがっている可能性はおおきいのであまり信用しないでくだされorz orz
36:無名武将@お腹せっぷく
07/03/07 08:49:14
牛カワイイw
37:無名武将@お腹せっぷく
07/03/07 15:30:16
いい兄弟だな。陸抗もいい父ちゃんだったんだろうな・・・
38:無名武将@お腹せっぷく
07/03/07 15:54:29
おじいちゃんの陸遜も…ゲームじゃ少年のイメージが強いけど
39:無名武将@お腹せっぷく
07/03/07 15:59:20
陸抗・陸機陸雲はゲームじゃどんなイメージになってるの?
40:無名武将@お腹せっぷく
07/03/07 16:28:17
>>39
どっちも未登場。三国志大戦では陸抗が最近になって
出たけど女の子みたいになっていた…
41:無名武将@お腹せっぷく
07/03/07 16:37:56
無双陸遜
URLリンク(www.gamecity.ne.jp)
大戦陸抗
URLリンク(www.geocities.jp)
陸機陸雲は西晋扱いになるから三国志ゲーには出ないのかもな。
42:無名武将@お腹せっぷく
07/03/07 17:52:27
このままじゃ不憫なので大戦の渋い陸遜も貼っておく。
URLリンク(www.geocities.jp)
43:無名武将@お腹せっぷく
07/03/07 18:39:55
歴史の表舞台に顔出した時は40代だしな
そして古代人は食生活の関係で現代日本人に比べると10年ほど年上の内臓年齢の法則
もう既に現代人の50代であるからして大戦陸遜でさえもちょっと若すぎると思うぜ
44:無名武将@お腹せっぷく
07/03/07 18:58:28
じゃあ二陸も可憐な詩人兄弟を想像しとったが、オヤジ同士の文通だった訳か…
…オヤジ兄弟ハァハァw
45:無名武将@お腹せっぷく
07/03/07 19:05:25
>>42
イカ!?
陸兄弟は、いいオッサンが笑い病だったり、追っかけしたりしてるのを想像するのが楽しい
46:無名武将@お腹せっぷく
07/03/07 19:30:30
>>45
それは曹一族などにも当てはまりますなw
このスレはいいオッサンの可愛さに萌えるのが多いしなww
47:1(ry
07/03/08 02:32:50
>>36-
うひー、陸遜も陸抗もなぜかジャニーズ風にw>>42はしぶいww
陸遜はいつ名を議から遜にかえたのかしらないのですが、あざなは伯言さんなので、
陸議と呼応しているあざなですから、大人になってあざなをもってしばらくしてから
名を遜にあらためたのでしょうかー。陸康の家を陸績にかわってとりまとめるように
なったときとか……? 孫権が将軍になって21歳で出仕したらしいので、このへんの
どっかで訳あって、へりくだった名にあらためたのかな……
でも呉軍師スレに陸遜のカエルの民話(陸遜がカエルをいっぱいつかまえてきて、頭に
墨ぬって放したので、いまでも長江流域には頭に墨ぬった模様のカエルがいる)をかいたら、
「それは関羽の使者を油断させるためにやったんだよー」と教えていただいたのですが、
>>43さんのとおりならば、みため50代のオッサンがカエルに色ぬりを……(*´Д`)
関羽への一連の手紙といい、なんか陸遜は苦労の人だ(ノД`)
#後期スレで嵆康の話をみかけたので、平復帖をまっているあいだに
嵆康さんの詩をうpしてみます。
『雑詩』 嵆叔夜
微風清扇 雲気四除
皎皎亮月 麗于高隅
興命公子 携手同車
龍驥翼翼 揚鑣踟蹰
粛粛宵征 造我友廬
光燈吐輝 華幔長舒
鸞觴酌醴 神鼎烹魚
絃超子野 歎過綿駒
流詠太素 俯讃玄虚
孰克英賢 与爾剖符
48:1(ry
07/03/08 02:36:53
(適当書き下しorz)
「微風は清く扇(あお)ぎ、雲気は四(よも)に除(はら)う
皎皎(けいけい)たる亮月(りょうげつ)、高隅にて麗(うるわ)し
公子の命(おお)せに興(た)ちて、手を携え車を同じくす
龍驥(りょうき)は翼翼として、鑣(くつわ)を揚げれば踟蹰(ちろう)す
粛粛として宵(よい)に征き、我が友の廬(いおり)に造(いた)る
燈(あかり)は光りて輝きを吐き、華幔(かまん)は長く舒(の)ぶ
鸞觴(らんしょう)に醴(あまざけ)を酌(く)み、神鼎(しんてい)に魚(うお)を烹(に)る
絃は子野(しや)を超え、歎(たん)は綿駒(めんく)を過ぐ
太素(たいそ)を流詠し、俯して玄虚(げんきょ)を讃(たた)う
孰(いずれ)ぞ克(よ)き英賢なるは、爾(なんじ)に符(ふ)を剖(さ)きて与わん」
(適当訳orz)
「かすかな風がきよらかにそよぎ、雲は四方にふきはらわれました。
こうこうと白くあかるい月は、夜空のすみに美しく光っています。
公子さまのおおせに立ちあがり、手をとって同じ車にのりました。
訓練されたりっぱな駿馬はすばらしく走り、たずなをひけばゆっくりと進みます。
しずかにおごそかに夕ぐれの道をすすみ、我々の友人のいおりにつきました。
あかりは光ってかがやきがこぼれ、きれいなとばりは長くすそをひいています。
鳳凰のようなさかずきにあまざけをくみ、すばらしい鍋で魚を煮ます。
琴のしらべは春秋時代の晋で盲目の琴の名手としられた師曠をもしのぎ、
うたごえは戦国時代の斉で名歌手としられた綿駒よりもすばらしいものです。
列子にかかれたものごとのはじまりについてをのうたをたわむれに詠み、
下をむいては奥深く覗いしれない老荘の原理をたたえます。
もしどこかに賢くすぐれた人がいるのならば、あなたにもこの楽しみの割り符の半分をあげますよ」
49:1(ry
07/03/08 02:39:33
嵆康は黄初四年(223)-景元二年(262)、正始年間の文人で、曹叡たんが病没して
曹芳が即位した239年にはまだ16歳で、司馬師が曹芳を廃位したのは254年で31歳、
39歳で呂安に連座して処刑されているですー。それで、彼は竹林の七賢のひとりで、
奥さんも曹家の人で、思いっきり曹家シンパだったので、この詩にでてくる公子というのは
曹家の皇帝ではないだれかだと思うのですー。誰だろう?w とにかく、曹家のみなさんは、
太祖曹操・高祖曹丕・烈祖曹叡と詩文をよくしたからなのか知らないのですが、
とても文人を大切にする政策をとってくれたのですおね。だから、嵆康みたいな
ヘンクツの隠者めいた人とも、公子みずから遊びにいったりして仲よくしてくれたのですねw。
彼は地位は高かったのですが、清談ばっかしてる人で、哲学を論ずるかたわらで、
謎のくすりをつくってのんだり、鍛冶屋さんのまねごとをしたり、琴をひいたりお酒をのんだりと、
なんつうかリベラル派というかヒッピーというか、J=J.ルソーみたいな人ですおね。
なんか18世期のフランスのごとく、そういう一周したデカダンスがおされとしてはやっていたらしいw。
そういうわけで、この作はクーデター前によまれたもので、友人というのは同じヒッピー仲間の
竹林の七賢の誰かじゃないかな……とか思うのですが、建安から黄初のころの詩文とくらべると、
なんとゴージャスでセレブなおされ文化人の薫りがプンプンではないでせうかw。
孔融の文章を「体気高妙、有過人者。然不能持論、理不勝詞、以至乎雑以嘲戯」と評した曹丕が
これをみたら、ひっくり返るんじゃまいかと思うぐらいですw。
二十世紀前半に苦境のなかでブルースをうたったミュージシャンの人が、
それをルーツとしたロックンロールでくるくる踊る70年代のヒッピーのみなさんをみたら、
おどろいてひっくり返るであろうようなものでせうか……w
「興命公子、携手同車」のところは、おもいっきし曹植たんの↓妾薄命二首其一になぞらえていますね。
URLリンク(www.geocities.jp)
自分はどうしても、嵆康さんとか阮籍さんとかの詩はおされセレブ文化人風にみえますw。
50:無名武将@お腹せっぷく
07/03/08 07:17:27
やっぱり呉軍師スレにもいたのかww
陸議→陸遜への改名時期は色々読んでみたり
調べたりしたけどどうもわからんね
URLリンク(cte.main.jp)
51:無名武将@お腹せっぷく
07/03/08 11:09:48
>>47-49
まじセレブだw
すばらしい鍋って何だwww
52:無名武将@お腹せっぷく
07/03/08 15:06:29
>>48-49
ケイ康って隠者で、本だと「先生」「なんじゃ?」という風に書かれているから
老人のイメージがあったけど、意外と若かったんだね。
>>この作はクーデター前によまれたもので
もしそうなら二十代の詩だwwwww
53:無名武将@お腹せっぷく
07/03/08 20:21:58
恵帝をかばって死んだのがケイ康の息子だっけ?
54:無名武将@お腹せっぷく
07/03/08 22:48:28
鍋までもすばらしいとは流石セレブ
魚も旨いんだろうな
55:1(ry
07/03/09 01:48:54
>>50
Thxです! なるほど、いつ陸遜が名をあらためたのかは謎なのですね。
孫権の弟の孫翊、あざなは叔弼のふるい名は孫儼、魏元帝曹奐のあざなは景明、
ふるい名は曹璜で、どちらのあざなも新しい名と呼応しているのですおねー。
陸遜のあざなは伯言で、ふるい名の議と呼応しているので、ちょっとふしぎですー。
>>51-
「神鼎」というのはなんだかよくわからなかったので、「すばらしい鍋」とてけとーに……(ry
鼎というのは金属製のなべかまのことで、曹丕が薄葬詔で「無蔵金銀銅鉄、一以瓦器
(金銀銅鉄を墓に埋蔵せず、すべてかわらけにしなさい)」といったように、
いくら当時の中国にりっぱな金属をつくる技術があったとしても、金属製品はやっぱ貴重品で、
市井のみなさんはおもに土器をつかっていたのでは……と思うのですー。
そんななかで、>>48に列挙されているものは、りっぱな鼎にりっぱな(おそらく金属の)さかずき、
よく訓練されて緩急も自在なすばらしい馬、洛陽の近郊を音もなく夜道をすすむ馬車、
こうこうと光るともしび、美しいとばり布、伝説的な名人をもしのぐすばらしい音楽と、
これまさに文明の華ぞといった、絢爛たる詩景なのですおね(じっさい、ローマか中国かという
三世紀なのですから、これは当時の文明の頂点をきわめた光景でせう)。
そこで嵆康たちは酒に酔いながら、老荘の思想をたわむれにうたっているのです。
その文明の華たる洛陽で、学問をたっとび、みずからも共に詩文に興じる気さくな公子の姿が
えがかれているのは、皇帝の一族が手厚い文化政策をおこなっていることを象徴した風景ですおね。
嵆康は奥さんが曹家の人というのもあるのですが、それをとてもよいものだと考えているで
あろうことが、公子や友人と仲よく酒宴に興じている詩景からもよくわかると(自分は)思うのですー。
56:1(ry
07/03/09 01:52:17
そいで、>>48の雑詩ですが、なぜこんなに鼻につくほどwそういったぜいたくな酒宴の光景が
えがかれているのかなのですが、自分は嵆康はわざとそうしたのではないかと思うのですー。
魏書王衛二劉傳伝第二十一の王粲伝付嵆康伝にかかれていますが、嵆康は隠者ですが
処世もたくみで、なんというか道楽隠者(?)のような人なのですおね。清談をする人は皆そうですが、
かれらは自身が本当にたっとぶべきだと考えている学問を、生臭い世間に利用されてボロボロにされるのが
いやで、書をもって竹林にひっこんでしまったようなのが清談ムーブメントだと思うのですー。
その竹林で、世俗のものは何もなく、皇族から手厚い保護をうけて、美しい純粋な学問の世界にあそぶ
文明をよろこび、文化政策を施す皇族をよろこび、自分たちのエリート的境遇を満喫し、
学問をたたえたのが、>>47-48の雑詩の詩景のように自分には見えるです。
そいで、最後の「孰克英賢、与爾剖符」は、すべての人の上に平等であるという学問の本質にのっとった句、
酒宴のたのしさをあらわす戯れ言であるとともに、ここまでの全体に世俗をすてた、
ある意味では非生産的で退廃的なうたげの描写に、ふっと水をさす表現であると思うですー。
「このたのしみの割り符をわけてあげる」という表現は、この状況が皇族のお墨付的な保護のもとに
存在しているものであることを暗示しています。しかし、魏書にかかれているように処世にたくみで
聡明な嵆康は、この詩をよんだのが254年以前であっても、司馬氏の不隠さに気づいていたと思われますー。
皇族のうしろだてのもとにこの楽しみがあることをよく知っていた彼は、このような宴がいつまでも
続くものではない可能性もよくわかっており、だからこそこのような刹那的な享楽をよんだのでは……
と、自分には思えたですー。そのへんをストレートに表現せずに、自分たちの未来をも皮肉った諧謔で
ひねってみるあたりが、インテリのあそびだなーと思うのですがw。
>>53
#嵆紹
そうなのですー。しかしウドンがなんとかというのは何なのでせう?(・ω・)
57:無名武将@お腹せっぷく
07/03/09 03:21:50
鍋一つからこういう考察が出来るこのスレが好きだ。
58:無名武将@お腹せっぷく
07/03/09 14:26:35
鍋からという訳でもなかろうw
公子は誰なんかね。曹耄?
59:無名武将@お腹せっぷく
07/03/09 14:31:27
曹髦は年が合わなくね?公子沢山いるからこれだけから特定はむりぽ
60:無名武将@お腹せっぷく
07/03/09 16:34:16
曹家は文学好きな家風なんだな
61:無名武将@お腹せっぷく
07/03/09 17:19:46
>>60
曹彰のような体育系もいるけどなw
62:無名武将@お腹せっぷく
07/03/09 18:33:28
文武両道なのだ
63:無名武将@お腹せっぷく
07/03/09 21:07:14
>>55
陸遜の字か。やはり名前変えたら字も変えるものなのだろうか
64:無名武将@お腹せっぷく
07/03/09 22:07:54
そういえば
甘寧のあざなって、なんかちぐはぐだよね
65:無名武将@お腹せっぷく
07/03/09 23:12:29
よくわからんけど「遜」って良い意味ではないみたいだね
甘寧の字はさすが元ゴロツキという感じが・・・w
66:無名武将@お腹せっぷく
07/03/10 00:36:10
名前が「寧(しずか・おだやか)」なのに、あざなが威勢のいい「興覇」
どこから出てきたんだろう
67:無名武将@お腹せっぷく
07/03/10 01:03:50
>>55-56
相変わらずスレを見ていて良かったと思わせる解説乙です。
曹家の文化政策と言うのは、かなり強力な物だったのかな
68:無名武将@お腹せっぷく
07/03/10 01:04:01
そういや、周瑜も名と字、両方に「美しい球」という意味が入っているらしいね。
さすが美周郎。
69:無名武将@お腹せっぷく
07/03/10 01:10:31
周瑜の名と字、と聞いてつい諸葛瑾が脳裏を過ったのは秘密だ
70:1(ry
07/03/10 02:46:27
#あざな
孫権の弟、孫翊のふるい名は儼なのですが、これは孫権が王さまになったので
それを補佐するんだよーという意味の翊にあらためたのでは……と思うですー。
あざなの叔弼さんも、翊に呼応した字(たすけるよ!)ですおね。
魏元帝、曹奐のふるい名は璜で、なぜあらためたのかは自分は知らないのですが、
あざなは景明さんで、こちらも新しい名の奐(ひろくあきらかだよ!)と呼応しているのですおねー。
蜀の韋曜・あざなは公嗣のふるい名は昭ですが、これは新旧どちらの名も似たような意味だし、
そもそもあざなと名があんまり関係ないような……(関係あるのかもですが)。
陸遜のあざなの伯言さんだけ、ふるい名の議と呼応しているので、やっぱりふしぎですー。
遜はへりくだった意味なので、陸康さんちを陸績にかわって治めるようになったときに、
年齢が上だから家を采配してるだけで家長じゃないよ! とあらためたとか、孫権につかえてから
もう各方面にへりくだってへりくだっての連続だったので。・゚・(ノД`)・゚・。、なんかそのへんで
名もあらためたのかなーとか思ったのですが……でもあざなは変えてないってことは、
生きているあいだはずっと議に呼応した伯言というあざなを使ってたのでせうから、
没後に名を変えたのかも……? なんかやっぱりふしぎですー。
甘寧の寧は、浙江省の海岸にある水上交易都市の寧波と関係あるようなないような……とか思ったですw。
あざなの興覇さんは、「水賊のおやぶんだよ!」みたいでおもしろいですが、何か典故があるのかなw。
呂蒙なんかは、あざなは子明さん(あかるいよ!)なので、蒙(くらいよ!)と正反対の意味なのですねー。
>>69さんのとおり、周瑜・あざなは公瑾さんも、諸葛瑾・あざなは子瑜さんも、
典故は同じ春秋左伝宣公十五年の↓瑾瑜なのですおねw。
どんな美しい宝石にもキズはあるんだよーという話なので、周瑜様といえど虫歯や水虫ぐらいあったかも
しれませんし、諸葛瑾のようにすばらしい才能をもった人でも、顔がちょっとロバうわ何をあqwせdrfg
71:1(ry
07/03/10 02:47:38
(白文)
「十五年春、公孫帰父会楚子于宋。宋人使楽嬰斉告急于晋。晋侯欲救之。
伯宗曰、不可。古人有言曰、雖鞭之長、不及馬腹。天方授楚、未可与争。
雖晋之彊、能違天乎。諺曰、高下在心。川沢納汚、山藪蔵疾、瑾瑜匿瑕、
国君含垢、天之道也。君其待之、乃止。」
(適当書き下しorz)
「十五年春、公孫帰父は楚子と宋にて会す。宋人は楽嬰斉をして晋に急を告げさしめる。
晋侯は之(これ)を救わんと欲す。伯宗は曰く、不可なりと。古人の言に有りて曰く、
鞭の長きと雖も、馬の腹に及ばず。天は方(まさ)に楚に授くに、未だ与(とも)に争う可からず。
晋の彊(つよ)きと雖も、能く天に違わん乎。諺に曰く、高下は心に在りと。
川沢は汚(けが)れを納(い)れ、山藪は疾(きず)を蔵(かく)し、瑾瑜は瑕(きず)を匿(かく)し、
国君は垢(はじ)を含むは、天の道也(なり)。君は其れ之を待てとし、乃ち止む。」
(適当訳orz)
「宣公十五年の春に、魯の公孫帰父は楚の荘王と宋で会いました。宋側は楽嬰斉をつかわして
宋の急をつげさせました。晋の景公はこれをたすけてあげようとしました。部下の伯宗は、
「いけません」といいました。「昔の人は、どんなにムチが長くても、馬の腹までは
とどきませんといっています。天がまさに楚の味方をされているときに、いっしょになって
戦争をしてはいけません。晋がいくら強くても、天にはさからえないのです。ことわざでも、
たかいひくいは心が決めること、といいます。川や沢にはきたない泥水もまざっており、
山や藪はおそろしいわざわいを内包しており、すばらしい宝玉も小さなキズを隠しており、
国の王さまもときには恥をのむことは、天にきめられたありかたなのです」。
(伯宗がこう言ったので、晋の景公は)救援をだすのを中止しました。」
>>67
曹魏は高祖が皇帝の名で、「蓋文章経国之大業、不朽之盛事」と明言してますしねーw。
政策はあまり文学スレむきではないらしいので、公的な面の文化保護はほかのスレむきかもですが、
私的な面では>>60さんのとおり、皇族みずから詩文を愛してたしなむ人が多かったのですから、
皇族手ずからの保護があたえられたという点では、当時としても非常に影響力があったのではないでせうか?
72:無名武将@お腹せっぷく
07/03/10 03:41:07
>周瑜様といえど虫歯や水虫ぐらいあったかもしれませんし
ちょww
73:無名武将@お腹せっぷく
07/03/10 04:03:29
>>66
どっちも国系だよね。
74:無名武将@お腹せっぷく
07/03/10 04:05:38
>>70-71
本当に字は漢字の意味を調べれば調べるほど面白いですね。
まとめサイトにある曹一族の字の話題も貼っておこう。
URLリンク(www.geocities.jp)
周瑜や諸葛瑾の元ネタは初めて知りました。
そのような意味があったとは…確かに周瑜も完全無欠だったとはいえ、
人間ですからねー欠伸や屁をこくことぐらいしてたでしょうな。
(幻滅するようなこと書いてスミマセン…)
そういえば、曹丕の孫にあたる曹髦も文学サロンを開いたりしていたと聞きますし、
文学好きは遺伝し続けていたんでしょうね。
曹丕が長生きしていたら孫と仲良く詩を作ったりしたのかな…と
妄想して泣けてきます。
75:無名武将@お腹せっぷく
07/03/10 04:08:27
おまいら欠伸や屁や虫歯程度なら良いが、水虫はヤメレw
76:無名武将@お腹せっぷく
07/03/10 04:15:23
じゃあ間を取ってワキガで
77:無名武将@お腹せっぷく
07/03/10 04:16:38
おまえら周瑜様のファンに殺されるぞw
78:無名武将@お腹せっぷく
07/03/10 05:27:07
偏頭痛とか腰痛とかだよ、多分!
79:無名武将@お腹せっぷく
07/03/10 08:06:39
周瑜オタですが飛んできますたw
水虫だけは簡便な!
>>68
両方とも美しい珠という意味でも、美しさは瑜>瑾
名前が瑜で字が瑾な周瑜なら謙遜になるがが、
名前が瑾で字が瑜な諸葛瑾は自信家だったんだろうかw
甘寧の字については趙雲とかと同じく何となくカッコイイからでつけてそうだw
80:無名武将@お腹せっぷく
07/03/10 10:05:30
1氏も周瑜オタじゃ無かったか?…w
瑾>亮>均と地道になってる気がする…
81:1(ry
07/03/10 10:54:44
周瑜様オタノシ
曹植たんもシラミがいるし、水虫ぐらいよゆうであります(`・ω・´)
>>79
趙雲さんのあざな子龍は、雲と龍が呼応していますおね。
じつは陸雲たんもあざなが士龍で、おなじパターンだw。
82:無名武将@お腹せっぷく
07/03/10 12:22:58
まあ三国時代の靴じゃ水虫にはとてもなりそうもないけどなw
83:無名武将@お腹せっぷく
07/03/10 13:32:35
どんな靴だったの?
84:無名武将@お腹せっぷく
07/03/10 17:22:14
>>70
ものすごくどうでもいいけど自分の名前が孫匡の字とちょっと似てて意味もなく親近感。
彼も「助ける」って意味合いの名前と字使ってますよね。
みんなでお兄ちゃんを助けるぞ!と思ってたのかな…。
孫朗は孫権の弟としてはひとりだけ異質な感じ。助けるぞー系じゃない。
なんでだろ?
85:無名武将@お腹せっぷく
07/03/10 17:29:26
>>70
公嗣も伯言も単に身分や兄弟順を示してるだけで名との呼応は特に考えられてないんじゃないかな?
86:無名武将@お腹せっぷく
07/03/10 17:44:24
>>85
伯・叔・公は兄弟字だけど、翊と弼、議と言、奐と景明、は呼応しているね。
曜(昭)と嗣は知らんが。
>>81
雲竜型ってあるしなあ。
87:無名武将@お腹せっぷく
07/03/10 17:49:40
>>86
嗣は後継ぎという意味だから公嗣で身分というか立場を表わしてる。
88:86
07/03/10 17:51:20
スマン言葉が足りなかった。曜(昭)と嗣は呼応していないよね。
89:無名武将@お腹せっぷく
07/03/10 17:56:15
呼応はしてないね。
ただ「後継ぎが後を継いで君主となれば下々を照らす存在となるから名と呼応してる」と言えるかもしれない。
ムリありすぎだがw
90:1(ry
07/03/10 23:35:46
>>86
雲と龍は、司馬遷さんのうけうりですが、史記巻第六十一の伯夷列伝第一に、
(白文)
君子疾没世而名不称焉。賈子曰、貪夫徇財、烈士徇名、夸者死権、衆庶馮生。
同明相照、同類相求。雲従龍、風従虎、聖人作而万物睹。伯夷叔斉雖賢、得夫子而名益彰。
顔淵雖篤学、附驥尾而行益顕。厳穴之士、趣舍有時若此、類名堙滅而不称、悲夫。
閭巷之人、欲砥行立名者、非附青雲之士、悪能施於後世哉。
(適当書き下しorz)
「君子は世を疾没せども焉(いずく)んぞ名を称えざるかな。賈子に曰く、
貪夫(たんぷ)は財に徇(したが)い、烈士は名に徇(したが)い、夸者(こしゃ)は権に死し、衆庶は生に馮(よ)る。
明を同じくして相(あい)照らし、同類は相求む。雲は龍に従い、風は虎に従い、聖人は作(な)して万物を睹る。
伯夷と叔斉の賢きと雖も、夫子(ふし)にして彰し益(ますます)名を得る。
顔淵の学に篤きと雖も、驥尾に附して益(ますます)行いを顕ず。厳穴の士の、
趣舍(しゅしゃ)有らば此の時の若くし、類いて名を堙滅(いんめつ)させて称えざる。
悲しい夫(かな)。閭巷の人に、砥ぎ行きて名を立てんと欲す者の、青雲の士に附かざるは、
悪(いずく)んぞ能く後世にて施(あらわ)さん哉。」
91:1(ry
07/03/10 23:36:57
(>>90適当訳orz)
「君子は亡くなって世を去っても、その名を称えるべきなのです。賈子は、
「よくばりな男は財産に殉じ、気性がつよく節義をまもる男は名に殉じ、
おごりたかぶった者は権力のために死に、そこらへんの人は命を惜しがる」といっています。
同じ明かりのもとにいる者はたがいに照らしあい、同類はたがいを求めます。
雲は龍につきしたがい、風は虎につきしたがい、りっぱな人はあらわれて万物をごらんになるのです。
伯夷と叔斉はかしこい兄弟でしたが、(業績を書かれて)あきらかにされたので、
ますますその名を称えられたのです。顔淵はりっぱな学問をした人でしたが、
孔子の弟子だったのでますますそのおこないが知れ渡ったのです。
仙人のようなきびしい暮らしをしているりっぱな人は、(書物に記すのを)取るか捨てるかによって、
このように業績が世に知られもし、あるいは名がうずもれて消えてしまって称えられなくなるのです。
悲しいことです。ちまたの人で、研鑚をつんで名をたてようと思った人は、身分があって
名声の高い人のところに弟子入りしないと後世に業績をのこせないのでしょうか?
(いえ、そんなことのないように、私はこれからこの王侯名族以外の人々についての列伝をかきます)。」
とかいてあるです。趙雲さんと陸雲たんの意外な接点ですねーw。
92:1(ry
07/03/10 23:37:51
#ちなみに陸機たんのあざな士衡は、
後漢書巻二十九の申屠剛鮑永郅惲列伝第十九の郅惲伝に、
「西至長安、乃上書王莽曰、臣聞天地重其人、惜其物、故運機衡、垂日月、含元包一、甄陶品類、
顕表紀世、図録予設。」
「西して長安に至り、乃ち王莽に上書して曰く、臣の聞くに天地は其の人を重んじ、其の物を惜しみ、
故に機衡を運じ、日月(じつげつ)を垂れ、元を含み一を包みて、品類を甄陶(けんとう)し、
紀世を顕表して、図録に予(あた)え設(しつらえ)る。」
「西にいって長安について、王莽に上書して、「私の聞くところによれば、天はそれが人であることを重んじ、
それが物であることを惜しむので、機衡をうごかし、月日をめぐらせ、ものごとを分類し、
そうして分けたものを導いて、世のめぐりをあきらかにあらわし、本に書いておくのです。」
とかいてあって、注に「機衡、北斗也。」とでているので、機衡は北斗七星のことらしい。
さらに、鮮于璜碑にも機衡がどうのと書いてあるらしいです。 by 和漢書法大全さん
陸兄弟は、なんとなく空系というか宇宙系というかSF系(?)の名とあざなをもった兄弟なのですねーw。
曹操・孟徳さんと司馬徽・徳操先生の「徳操」は、荀子の勧学に典故がでているらしいです。by 新字源さん
93:1(ry
07/03/10 23:43:39
そいで、あざなの話ばかりして何がいいたいのかというと、>>86さんのように、
三国時代に名をあらためている人で、名とあざなが呼応している人は、
みんなふるい名でなく新しい名に見合ったあざなを使っているようなのですー。
なのに、陸遜さんだけふるい名(議)に呼応したあざな(伯言)なのがふしぎじゃね?
と、>>47にも>>55にも>>70にもかいたのですが、ひつこくきになって(ry
94:1(ry
07/03/11 00:08:18
>>82-83
ところで三世紀の中国の人は、どんな靴をはいていたのでせうかw
曹操は従者に「履不二采(一色以上のはきものをはかせない)」としたらしいですが、
二色以上のくつってなんだろう……周瑜さんは南部の水軍提督なので、なんか足がむれてそうだと勝手に(ry
95:無名武将@お腹せっぷく
07/03/11 00:20:18
麻と絹を織って作った靴とかがあったようだね。
漢字の銘文が織り込んであったり、何色もの糸を使って模様を織り込んだりとかしたようだ。
木靴やら下駄やらもあったらしいけど。
竹林の七賢とかは、基本的には裸足だと思うけどね。
96:無名武将@お腹せっぷく
07/03/11 00:20:29
陸機の名と字のつながりは初めて知った。北斗七星カッコヨス
周魴が偽投降する際に使用した書簡には陸議と書かれているから
そのときはまだ改名してなかったのかも?
呉志では陸遜で統一されているけど魏蜀の方では陸議表記がちらほら見られるね
97:1(ry
07/03/11 00:34:59
>>96
Thxです!! じゃあ、陸遜はずいぶん遅くに名をあらためたのですねー。ほんとに没後かも?
>>95
Thxです!! 通気性のよさそうなくつですねー。そういうのならムレない(ry
もようとか色糸とか、三世紀にもうそんなぜいたくなくつもあったのですね。
前スレからうpしたくて仕方ない魯迅先生の『魏晋風度及文章与薬及酒之関系』では、
何晏ちゃんとか清談をして五石散をのむ人は、皮膚がよわくなってたびやくつがはけないので
下駄やはだしの生活をはじめて、それが風流ということになったと書いてあるですー。
なので、ふだんはいてたタビやくつはよほどゴツゴツした皮かなにかでできたものと思っていますたが、
男性用にも布のやわらかいぜいたくなくつがあったのですねー。
韓非子には、南部(越)の人は冠をかぶらず、いれずみをしてはだしでいると書いてあるので、
三国時代も呉の人はまた文化がちがったのでせうね。提督がはだしってこともないのでせうがw。
98:無名武将@お腹せっぷく
07/03/11 00:37:19
>>92
感無量です!北斗七星(´;_ゝ;)泣ケタゼ
>>94
『世説新語』雅量編に、阮孚が屐を集めていた
王徽之、王献之兄弟が火事で逃げる時屐を取る暇も無く~
とある。屐(げき)は下駄の事で、晋の時代に大流行したそうです
晋以前では>>95さんの説明のものか、皮で作った靴とか
紐で調節したらしいです
99:1(ry
07/03/11 00:50:01
>>92びみょうに訂正orz
×……本に書いておくのです。」 →◎……本に書いておくのです」といいました。」
#北斗七星
「衡」ははかりなのですが、むかしは北斗七星で時間とか方角(?)をはかったので、
それと「機」のはたらきめぐらせるというのがくっついて、機衡で「北斗七星(が巡る)」らしいです。by 新字源さん改
>>98
Thxです!! 晋の貴族文化は、曹魏の清談がベースになっているぶぶんが
すごくおおきいので、げたも何晏ちゃんとかがはやらせたのが残ったのでせうかね(0゜・∀・)
皮のくつでは、何晏ちゃんのかよわげな足wはすりむけそうですw。
100:無名武将@お腹せっぷく
07/03/11 01:01:49
>>99
糸で作った靴は、「絲履」と呼ばれてる。
>>98氏の補足以外では、残ってるのは草鞋くらいかな?
少し時代が下るが、南北朝時代の顔氏家訓には、当時の貴族が高下駄をよく履いていた事が書かれているらしい。
101:無名武将@お腹せっぷく
07/03/11 01:11:36
>>97
>韓非子には、南部(越)の人は冠をかぶらず、いれずみをしてはだしでいると書いてあるので
冠売りと靴売り夫婦だっけ?
102:無名武将@お腹せっぷく
07/03/11 01:25:06
靴の話題が出たので中国社会風俗史を引っ張り出して見たら
曹真が履をはいて昇殿することを許されていたり、
曹操が北征の帰途に客が来ると知ると驚喜して
早速履を揃えて出迎えたとか書かれていますね。
103:無名武将@お腹せっぷく
07/03/11 01:46:37
>>22さん >>33 1さん お言葉に甘えてうPさせて頂きます
《平復帖》平原内史呉郡陸機士衡書
彦先羸瘵、恐難平復。往屬初病、慮不止此、此巳爲慶。
承使唯男、幸乃復失前憂耳。呉子楊往初來至、吾不能尽。
臨西復来、威儀詳跱、擧動成觀、自軀體之美也。
思識☐愛之邁前、勢所恆有。宜☐稱之。
夏伯榮寇辭之際、聞問不悉。
彦先羸瘵(るいさい)し、平復し難きを恐る。
往(さき)に初め病に属(およ)ぶや、
此に止まらざるを慮(うれ)ふも、此に巳て慶と為す。
唯男を使して、幸ひに爲に復(また)前憂を失ふ耳。
呉子楊往(さき)に初めて來至(いた)るや、吾尽くす能わず。
西より復来るに臨めば、威儀詳(つまび)らかに跱(そな)はり、
挙動観を成し、自ら軀体の美なり。
思識☐愛の邁前なるは、勢の恒に有る所なり。宜しく之を☐称すべし。
夏伯栄寇乱(こうらん)の際なれば、聞問悉(つく)されず。
☐は不明な文字。故宮博物院の解説を参考としました。
104:無名武将@お腹せっぷく
07/03/11 01:47:46
彦先は病で衰弱し、回復が難しいのではないかと恐れておりました。
最初の発病で、このままではすまないだろうと心配しておりましたので
元気になられて本当に嬉しいです。
唯男を使いに出し、幸いな事に前のような心配は無くなりました。
呉子楊は先日初めてやって来たのですが、私は世話が出来ませんでした。
西よりまたやって来たので会ってみれば、威儀が十分備わり、
立ち居振る舞いも目を見張るほどで、体全体に美しさが現れております。
☐愛の前向きな考え方などは、勢いのある者が常に持っているものです。
彼を引き立ててやって下さい、お願いいたします。
夏伯栄は寇乱の時であるので、連絡が満足に出来ません。
彦先さんは古来、顧栄か賀循が諸説あります。二人とも陸機より長生きです。
もう一人の彦先さんは与陸典書を見ると若くして亡くなってます。
そもそもこの書自体署名が無く、陸機のものか陸雲のものか
よくわからないらしいですね
故宮博物院のサイトで見れますよ
URLリンク(www.dpm.org.cn)
105:まとめサイト ◆XoQX5vgfQU
07/03/11 04:11:35
URLリンク(www.geocities.jp)
深夜ですがここまでUP
106:無名武将@お腹せっぷく
07/03/11 05:07:45
>>96-97
228年に陸議と名乗っていたのならば
何故既に高い地位にあった陸遜がその後改名した事に誰も触れていないんだろうね。
>>70氏も言っているが存命中は議に呼応した字を使っていた訳だし、改名は没後でも可笑しくないな。
107:無名武将@お腹せっぷく
07/03/11 12:44:45
>>103-104
乙です。すごい。平復帖の訳文を見たの初めてだ。
これが陸機のものだとしたら、こんな風に友人の健康を気遣う一面が見られて感無量です。
顧栄と賀循、親交のある二人が同じ字でどうやって呼び合っていたんだろう。
ところで、ぶっちゃけ平復帖の字はうまいの?へt(ryなの?
暗愚なもんで真価がわからず見るたびに陸機は字がへt(ryだなと思ってしまうんだけど、
こういうのに詳しい方から見たらうまかったり味があったりするんだろうか
>>106
陸遜の場合はああいう最期なだけに没後に改名されたとしても不思議ではないかも。
おくりなされたのが孫休の時代になってからというのも気になる。
108:無名武将@お腹せっぷく
07/03/11 15:20:23
このスレは初めて見る訳が沢山あって楽しいよね
住人諸氏いつも乙です
109:無名武将@お腹せっぷく
07/03/11 16:08:14
一々葡萄のうまさや酒の作り方について訳しても
面白いが儲からないからなw
110:無名武将@お腹せっぷく
07/03/11 16:38:59
このスレが書籍化したら…
というか、こういう内容の本があったら実に面白いとは思うけどな
ニッチかな…w
111:無名武将@お腹せっぷく
07/03/11 16:44:29
まとめさんがあるじゃないか
112:無名武将@お腹せっぷく
07/03/11 17:23:01
>>105
深夜に更新乙です。
>>110
文庫本にコンパクトにまとめたのを寝転がりながら曹丕の詔勅とかを読みたいw
113:無名武将@お腹せっぷく
07/03/11 20:24:32
また靴の話題で悪いんだけど、
官渡で許攸が投降してきたとき、曹操が靴も履かずに飛び出して迎えたってのは作り話だっけ?
やっぱ紳士?は靴はいてないと駄目だったのかなと
そんで何晏らが裸足生活カッコヨスになったのは相当突拍子もないオサレだったのかなとか
おもいますた
114:無名武将@お腹せっぷく
07/03/11 23:16:06
>>113
それは曹操の詩にもある周公の逸話と同じようなもんじゃないのかな。
とるものもとりあえず飛び出す、それほど嬉しかったっていう。
まあ普段からラフなカッコでフラフラしてるネ申のことだからインパクト薄めになっちゃう
のは否めないわけだがw
115:無名武将@お腹せっぷく
07/03/11 23:21:09
この板ってこのスレ以外糞そのものだね
116:無名武将@お腹せっぷく
07/03/11 23:52:00
手洗いにも消臭剤はあるものさ。
117:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 00:00:12
後期スレなり袁術スレなり、機能してるスレも探せば幾つかあると思うがな。
118:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 00:03:57
華麗にスルーきぼん
119:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 00:23:49
>>113
ネ申は本当にやりそうだからわからないぞw
ところでデカダンス共なんだけど
下駄はともかく裸足だと逆に痛い気がするけどなあ…そうでもないのか?
それともアレが体質に合ってるか分量を守ってた人は炎症がおきなかったのかな
120:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 00:37:54
>>119
ヤバいお薬とは無縁だけど皮膚が摩擦に弱い身としては、裸足ってのはわかる気がする。
足の裏ってかかととか指の股とか足の甲とかよりやっぱ強いんだよな。
そりゃまあ裸足で歩けばそれなりに足の裏痛くはなるんだけど、家の中の土間および
付近を軽く散策程度の場合なら、裸足の方が確実に樂だろう。ガラスとか落ちてないし。
硬い革とか布の鼻緒やベルト使ったサンダルだと、ゴミ捨て場と家の往復だけですでに
水ぶくれとかできる。今の靴下と違って昔の靴下は縫い代とか硬くて太かったろうし、それ
なら靴下履けないってのも頷ける。服のタグとらないと炎症起してすごいことになるし。
121:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 00:40:48
『太平御覽』巻九一○
陸機与弟雲書曰、監徒武庫建始殿諸房中、見有両足猴。真怪物也。
監徒・武庫・建始殿の諸房中に、両足の猴有るを見る。真に怪物なり。
監徒・武庫・建始殿等の部屋の中で、両足で立って歩く猿が居るのを見た。
本当に怪物である。
陸機から陸雲への書簡は残念ながら現存しませんが、断片がこんな形で残ってますよ
二本足の猿に出くわしてびっくり仰天な陸機。それを弟への手紙にしたためる陸機。
受け取った陸雲の運命やいかに!
122:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 00:44:07
>>119
五石散の成分は諸説あるらしいが、一説には、
アメジスト、赤石脂、鍾乳石、白石英、硫黄の五種とある。
これらを服用するとどうなるかは、飲んだ事ないから分からないけど、
きつい服だと皮膚が擦り切れるほど炎症を起こすらしいから、靴は当然履けないだろうね。
裸足と下駄だと分からんが、>>120氏によれば裸足の方が楽そうだ。
123:120
07/03/12 00:56:17
>>122
皮膚が柔らかくなるかどうかはわからんのだけど、想像するに発汗が激しくなるのでは
ないか?と思う。
自分自身かなり汗かきな方なのでその影響はかなりあると思う。
それでどうなるかっていうと、足の場合が顕著なので書くけど、靴(靴下)の中で蒸れて、
まず肌が柔らかくなる。風呂に入ったら手足の皮膚がモロに柔らかくなるだろ?指先とか
しわ寄ったり。あれの若干マシバージョンと思って欲しい。でもその状態で四六時中すごす
ことになる。しかも風呂と違って衣服は身につけてるわけだ。
すると、湿気た皮や布が肌にべったり張り付いて、しかもこすれる。
こすれる肌はふやけてて柔らかくなってる。しかも塩分もある。
するとどうなるか…。
ウールとか繊維硬い布を首とか柔らかい部位に巻いて(マフラーとか最適かと)汗ばむぐらい
運動して、その状態で布を外さずに首を数分こすってみるとどんな感じになるか追体験できる
だろうと思う。
端的に言えば汗疹を掻き壊すのと一緒。
124:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 01:12:28
>>121
ワロスw弟はどう返信したんだろw
125:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 01:19:05
>>123
五石散は、発熱と発汗が激しくなるそうだから、
あなたの言うように、やはり摩擦が良くないんだろうね。
体が熱くなって、冷たいものを食べなきゃならないから、
別名寒食散とも呼ばれるぐらいだし。
死に到る事もあるし、あまり良い事も無いような気がするが、
それでも流行ったって事は、かなり中毒性が高いんだろうね。
126:1(ry
07/03/12 01:20:27
まとめさんいつも乙であります(`・ω・´)ゝ
>>103-104
#平復帖
乙であります!! Sugeeeeee!!!! 陸機たん(陸雲かも?)はいいやつだ。・゚・(ノД`)・゚・。
講談社の中国書蹟大観第一巻『故宮博物院 上』(故宮博物院編)という本では、
「呉子楊往初來至」を「呉子楊往初來主」とつくっていますが、陸機たんは読めるように字をかk(ry
ヒラヒラかろやかでたのしげな草書は、みているだけでなごみますが、自分のようなしろうとには読めn(ry
#そういえば、>>92の陸機たんの名とあざなが北斗七星らしいというのを
(きのう後漢書をななめよみしていて)発見したので思ったのですが、>>16の陸雲たんの答兄機に
星のかけことばを多用しているのは、兄ちゃんの名にも掛けてるのかな……とも思いますた。
もっともこれは推測の域をでないですが……orz orz orz
>>121
#二足歩行猿
Thxです!! バロスwwww陸雲たんは笑いこけて川におちないといいですw
しかしそんなことを手紙でやりとりしているとは、あらためて仲よし兄弟だったんだな……。・゚・(ノД`)・゚・。
>>106-107
#陸遜の改名&あざな
死後になまえをかえられた人というと、孫チンさんとかがいますが、あれは不名誉なことなんですおね……
127:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 01:21:00
五石散はヒ素が入ってたっぽいのがいかんのではないかい
128:1(ry
07/03/12 01:24:20
>>101
#越の人ははだし
そうなのですー。韓非子の説林上第二十二に、↓こう出ているのですー。
(白文)
「魯人身善織屨、妻善織縞、而欲徙於越。或謂之曰、子必窮矣。魯人曰、何也。
曰、屨為履之也、而越人跣行、縞為冠之也、而越人被髪、以子之所長、游於不用之国、
欲使無窮、其可得乎。」
(適当書き下しorz)
「魯人に身(み)善く屨(くつ)を織り、妻は善く縞を織るに、越に徙(うつ)らんと欲す。
或るひとは之(これ)に謂いて曰く、子(し)は必ず窮(きゅう)せんと。魯人曰く、何ぞ也(や)。
曰く、屨は之を履く為なれど、越人は跣(はだし)で行き、縞は之を冠(かむ)る為なれど、
越人は髪を被(こうむ)るに、以って子の長ずる所の、用いざるの国に游ぶならば、
窮することを無からしめんと欲するも、其れ得る可く乎(かな)。」
(適当訳orz)
「魯の人でくつを織るのがうまく、奥さんは絹を織るのはうまい人がいて、
越の国にひっこそうと思いました。あるひとがこれに「あなたはかならず窮乏するでしょう」と
注意していいました。魯の人は「なぜですか?」といいました。あるひとは、
「くつはこれをはくためにありますが、越の人ははだしで歩いています。絹織物はこれを
冠にするためにありますが、越の人はあたまを髪でおおっているので(冠をかぶっていないので)、
あなたがたの特技が必要のない国へいらっしゃるならば、窮乏しないでいようと思っても、
そうはできないのですよ」といいました。」
これはおおむかしの話なので、三世紀には周瑜さんもはだしではなかったのでしょうがw。
129:1(ry 魯迅先生1
07/03/12 01:27:08
>>113-
#くつと五石散
Thxです!! うひー、そいでは五石散とはきもの関連で、ながいのを投下してみますorz。
自分は現代中文がさっぱりダメなので、訳は常にもましていいかげんですが……orz orz orz
『魏晋風度及文章与薬及酒之関系(九月間在広州夏期学術演講会)』 魯迅
(中文)
「……這様下去一直到明帝的時候、文章上起了個重大的変化、因為出了一個何晏。
何晏的名声很大、位置也很高、他喜歓研究老子和易經。至于他是怎様的一個人呢?
那真相現在可很難知道、很難調査。因為他是曹氏一派的人、司馬氏很討厭他、所以他們的記載
対何晏大不満。因此産生許多伝説、有人説何晏的瞼上是搽粉的,又有人説他本来生得白、
不是搽粉的。但究竟何晏搽粉不搽粉呢? 我也不知道。
但何晏有両件事我們是知道的。第一、他喜歓空談、是空談的祖師。第二、他喜歓吃薬、是吃薬的祖師。
此外、他也喜歓談名理。他身子不好、因此不能不服薬。
他吃的不是尋常的薬、是一種名叫「五石散」的薬。「五石散」是一種毒薬、是何晏吃開頭的。
漢時、大家還不敢吃、何晏或者将薬方略加改変、便吃開頭了。五石散的基本、大概是五様薬、
石鐘乳、石硫黄、白石英、紫石英、赤石脂。另外怕還配點別様的薬。
但現在也不必細細研究它、我想各位都是不想吃它的。
従書上看起来、這種薬是很好的、人吃了能転弱為強。因此之故、何晏有銭、他吃起来了、
大家也跟吃。那時五石散的流毒就同清末的鴉片的流毒差不多、看吃薬与否以分闊気与否的。
現在由隋巣元方作的「諸病源候論」的里面可以看到一些。拠此書、可知吃這薬是非常麻煩的、
窮人不能吃、仮使吃了之後、一不小心、就会毒死。先吃下去的時候,倒不怎様的、後来薬的効験既顕、
名曰「散発」。倘若没有「散発」、就有弊而無利。
130:1(ry 魯迅先生2
07/03/12 01:27:59
因此吃了之後不能休息、非走路不可、因走路才能「散発」、所以走路名曰「行散」。
比方我們看六朝人的詩、有雲「至城東行散」、就是此意。後来作詩的人不知其故、以為「行散」
即歩行之意、所以不服薬也以「行散」二字入詩、這是很笑話的。
走了之後、全身発焼、発焼之後又発冷。普通発冷宜多穿衣、吃熱的東西。但吃薬後的発冷剛相反、
衣少、冷食、以冷水澆身。倘穿衣多而食熱物、那就非死不可。因此五石散一名寒食散。
只有一様不必冷吃的、就是酒。
吃了散之後、衣服要脱掉、用冷水澆身、吃冷東西、飲熱酒。這様看起来、五石散吃的人多、
穿厚衣的人就少、比方在広東提倡、一年以後、穿西装的人就没有了。因為皮肉発焼之故、不能穿窄衣。
為予防皮膚被衣服擦傷、就非穿寬大的衣服不可。現在有許多人以為晋人軽裘緩帯、寬衣、
在当時是人們高逸的表現、其実不知他們是吃薬的縁故。一班名人都吃薬、穿的衣都寬大、
于是不吃薬的也跟名人、把衣服寬大起来了。
還有、吃薬之後、因皮膚易于磨破、穿鞋也不方便、故不穿鞋襪而穿屐。所以我們看晋人的
画像或那時的文章、見他衣服寬大、不鞋而屐、以為他一定是很舒服、很飄逸的了、其実他心里都是很苦的。
更因皮膚易破、不能穿新的而宜于穿旧的、衣服便不能常洗。因不洗、便多虱。所以在文章上、虱子的地位很高、
「捫虱而談」、当時竟伝為美事。比方我今天在這里演講的時候、捫起虱来,那是不大好的。
但在那時不要緊,因為習慣不同之故。這正如清朝是提倡抽大煙的、我們看見両肩高聳的人、不覚得奇怪。
現在就不行了、倘若多数学生、他的肩成為一字様、我們就覚得很奇怪了。
此外可見服散的情形及其他種的書、還有葛洪的「抱朴子」。到東晋以後、作假的人就很多、在街旁睡倒、
説是「散発」以示闊気。就像清時尊読書、就有人以墨涂唇、表示他是剛才写了許多字的様子。
故我想、衣大、穿屐,散软等等、後来効之、不吃也学起来、与理論的提倡実在是無関的。」
131:1(ry 魯迅先生3
07/03/12 01:29:15
(>>129-130の適当日本語訳orz)
「……このようなことがいろいろあって曹叡の時代になると、
何晏という人があらわれたために、文章のうえに重大な変化がおこりました。
何晏は名声がはなはだ大きく、地位もはなはだ高く、また老子と易経の研究がすきでした。
では彼個人はどのような人だったのでしょうか? 現在となってはその様子をしるのははなはだ難しく、
調べがたいことです。彼は曹氏の一派の人だったので、司馬氏は彼をはなはだきらって討ったので、
次代(晋)の記録では何晏についてろくなことが書いていないのです。このために伝説が多くうまれ、
ある人は何晏は瞼におしろいをはたいていたといい、またある人は彼はうまれつき色白だったので、
おしろいはしていなかったと言います。では何晏はおしろいをしていたのか、いなかったのか?
私には知るすべはございません。
しかし、何晏について二つのことを我々は知ることができます。第一に、彼は空談(清談)が
好きだったので、空談の祖師といわれます。第二に、彼はまた薬をのむことが好きだったので、
薬をのむことの祖師といわれます。このほか、彼はまた論理的な会話が好きでした。
また、身体が丈夫ではなかったので、薬を服用せずにはいられなかったのです。
彼がのんだ薬はふつうの薬ではなく、「五石散」の名で有名な薬でした。
この五石散というものは一種の毒薬で、これは何晏がはじめてやりはじめたものです。
漢の時代には、人々はそれをのもうとはせず、何晏はあるいは薬方にすこし改変を加えたのかもしれませんが、
とにかく彼がやりはじめました。五石散の基本は、だいたい石鐘乳、石硫黄、白石英、紫石英、赤石脂の
五つの薬で、ほかにまたべつな種類の薬も入っています。ただ、現在はこまかいことを研究する必要は
ありませんし、私はみなさんもこの薬を飲みたくないとお考えであると思います。
132:1(ry 魯迅先生4
07/03/12 01:30:52
書いてあるものを見ますと、こういった薬ははなはだよいもので、人はこれをのめば弱かった者が強く
なれるといいます。こういったわけで、何晏はお金があったので、彼はのみはじめたのです。
人々もあとに続いてのみはじめました。当時の五石散の毒性は清朝末期のアヘンの毒性と同じで大差は
なかったのですが、薬をのんでいるか否かでお金持ちか否かを分けていました。現在は隋の巣元方があらわした
「諸病源候論」において、このことのいくばくかを見ることができます。この本によれば、この薬をのむのは
非常にやっかいなことで、まずしい人はのめませんし、仮にのんだ後も、ちょっとぼやっとしていると、
すぐに毒死してしまいます。のんですぐのときには、そんなことはないのですが、後になってからききめが
あきらかになってくるので、これを「散発」といいます。もしこの「散発」がなければ、害はあれども
利はありません。なので、これをのんだらば休息してはだめで、歩かなければなりません、歩かなくては
「散発」しないので、ここから歩くことを「行散(散歩)」と呼ぶようになりました。たとえばわれわれの
六朝時代の人の詩をみますと、(鮑昭に)「至城東行散」などとあります。
後世の詩人はこの由来を知らないので、「行散」を歩くという意味にして、薬を服用していないのに
「行散」の二文字を詩にいれますが、これはとても笑ってしまう話です。
歩いた後は、全身から発熱し、発熱の後は寒気がします。ふつうは寒気がすれば衣類をかさねて着て、
熱いものを食べます。ただしこの薬をのんだ後は、寒気がするといっても、薄着をして冷たいものを食べ、
冷水で身をすすぎます。もし重ね着をして熱いものを食べたら、死ぬことは避けられません。
これにちなんで五石散は一名を寒食散といいます。ただ、ゆいいつお酒だけは冷たい必要はありません。
133:1(ry 魯迅先生5
07/03/12 01:31:52
五石散をのみおわった後は、衣服は脱ぐ必要があり、冷水で身をすすぎ、冷たいものを食べ、
熱いお酒をのみます。こういったわけで、五石散をのむ人が多いと、厚着をする人が少なくなり、
もしこの広東でこれを提唱したらば、一年の後には、洋装をしている人はいなくなってしまうでしょう。
こういうふうに全身が発熱するので、ぴったりした服はだめです。皮膚が衣服によって擦傷をうけるのを
予防するために、ぴったりとしていないゆったりした衣服でないといけないのです。現在では多くの人が
晋の人のラフな皮ごろもとゆるやかな帯、くつろいだ衣服を、当時の人たちの高尚なかっこいよさを
表現したものだと思っていますが、そのじつは彼らがのんだ薬によるものだということを知らないのです。
ひとにぎりの名のある人が薬をのんで、くつろいだ衣服をきるようになったので、
薬をのんでいない者においても名のある人に続いて、ラフな衣服を着るようになったのです。
また、薬をのんだあとは、皮膚がすりむけやすくなってしまい、くつをはくのは不便なので、
くつではなくて下駄をはくようになりました。我々がみる晋の人の絵や当時の文章では、
くつろいだ衣服で、くつではなく下駄をはいているのが見られるので、彼らはとても心地がいいだろう、
なんと飄々としていることかと思いますが、そのじつ彼らの心中はとても苦しんでいるのです。
さらにこうして皮膚が破損しやすく、新しい衣服をきられなくてふるいものを着ているので、
衣服はあまりいつも洗えません。洗えないので、虱が多くなります。こうしたわけで文章の上で、
虱の地位がはなはだ高くなり、「虱をつぶしながら話す」というが、当時は意外にもすばらしいこと
だったので伝わりました。たとえば私が今日ここで講演をするときに、虱をつぶしはじめたら、
それはきっとよくないことでしょう。しかし往時は気にする必要のないことで、習慣が昔はちがっていたのです。
これはまさに清朝ではアヘンをすうことが提唱され、我々が肩をいからせて歩く人をみても、
へんだと思わなかったようなものです。今はもうそういうことは行われていませんが、もし多数の学生さんが
みなで肩を「一」の字のようにしていたら、我々はきっとはなはだ奇怪であると思うことでしょう。
134:1(ry 魯迅先生5
07/03/12 01:35:05
このほか、五石散を服用したようすやほかの種々のことを書いたものに、また葛洪の「抱朴子」があります。
東晋になって以降は、ふりをする人がはなはだ多くなり、街の路傍でいきなり寝て「散発」であるといい、
お金持ちのふりをするのです。清朝のときに読書をたっとぶがゆえに、くちびるに墨をぬって、
さっきまで読書をして字をたくさん書いていたのだと見せたようなものです。ゆえに私は、ぶかぶかの衣服をきて、
下駄をはき、おかしな行動をとるなどなどは、後から来る効果であって、薬をのんでもいないのに
そんなことをするのは、理論の提唱とはじつは関係がなかったと思っています。」
#ながくて済みませんorz。魯迅先生(*´Д`)ハァハァ
これは、魯迅先生が講演ではなしたことをおこしたものなのですー。
前スレでも一部をちょっとうpしたのですが、すごくおもしろいです(*´Д`)
魯迅は文人であると同時に医師なので、この五石散のはなしはわかりやすいと思うですー。
135:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 01:35:58
>>128
つっても中原の人でもまだ北方騎馬民族の風習が入ってなかった漢代だと家の中
とかくつろぐと裸足なんだよね。
「席」ってのはおひな様のお内裏様夫妻が座ってるようなやつで、あれに座るなら
当然靴履いたままは不自然。
劉備が売ってた「むしろ」もそれの簡易バージョンと思われる。
周瑜はもちろん曹操たち中原の民だって、家の中じゃ裸足だろう。
宮中は裸足がデフォだし。
つーわけで遠征中以外はあんまり水虫の心配はなさそう。
136:120
07/03/12 01:38:20
どうでもいいけどシラミは経験ないからわからんけど犬についたノミが大繁殖して
酷い目にあった記憶から言えば、シラミにたかられるぐらいなら洗いざらしの衣服で
皮膚がスレた方がマシだと思う…。
当時の人の感覚はわからんけど。
137:1(ry
07/03/12 01:45:04
>>134の名前欄は×5→◎6ですたorz
>>102さんの中国社会風俗史というのは、尚乗和著、秋田成明訳の平凡社刊行のやつでせうか?
きょう見かけたので買ってみますたが、テラオモシロスwwwww。すげー。
>>135
Thxです!! なるほどー、いまの日本の「夏ざぶとん」みたいなものでせうか?
それか、平安時代のひとがつかってる、たたみの元になったようなやつ
(部屋じゅうにしかないで、床のうえに一畳だけとかおくやつ)でせうか……
中国社会風俗史にいろいろでているので、読んでみるですー。周瑜様が水虫でなくてよかったようなw
>>120
フランスも19世紀ぐらいまでノミ・シラミがセクシーかつエレガント(?)ないきもので、
「あこがれのあの人からうつったシラミの、なんとかわいらしいことでしょう!」
「ああ、ぼくは彼女のベッドのノミになりたい」とか書いているので、慣れというものはほそろしいですおねw。
なんか、自分はどうしても清談=ヒッピーだろーと思えてしまいますw。
138:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 01:48:07
>>131-134
うひー魯迅先生の文が出てくるとは思わなかった。
何晏についてが詳しく書かれていて面白いですね。
薬を飲むと肌が荒れやすいからそれを隠すために
おしろいをしていたのかな?
>>136
そういえば、現在はシラミをあまり見かけませんね~
自分も高校生の時、学校の流し台にシラミが
大量発生したのを見たっきりだ…。
139:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 01:48:54
>>137
まさにその「平安時代のひとがつかってる、たたみの元になったようなやつ」であると
何かで読んだことがあるです。
ちなみに戦国~江戸時代の時代劇とかを中国人が見ると、なんか髪型とかは別に
して漢代の時代劇っぽく見えたりするそうな。
日本は騎馬民族の影響を受けずに南方系習俗と中華の折衷様式でずっと来てるんで。
140:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 01:53:50
>>137
あ、宮中じゃ裸足がデフォってのは「爆笑三国志」シリーズwのどれかで読んだです。
あと他の本(忘れたけど)でも読んだんでまず間違いないのかなと。
だもんで曹操が「裸足で飛び出した」のも「お魚くわえたドラネコおっかけて」みたいな
感じで「咄嗟にとるものもとりあえず飛び出した」みたいな状況だろうなと思います。
ノミは地獄ですよー…。かゆさが汗疹の5倍ぐらいひどい。
寝てても起きるぐらいかゆい。
んで皮膚が弱いとか関係あるのか知らないけどかゆくて掻いた3年経っても傷痕が
残ってるぐらいひどい。
141:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 02:03:56
>>138
誰かがすいとん食わせて大汗かかせても
真っ白だったとかいう話を思い出した
142:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 02:05:19
>>141
たぶんそれだけ皮膚が弱いから、直射日光にも弱かったんじゃないかな。
肌自体が大丈夫でも、目がちかちかして耐えられないとか。
んで夜行性っぽくなってて日焼けしなかったとかさ。
143:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 02:09:03
>>136
曹植は読書しながら自分に付いたシラミを食べたって言うから貴賤に関わらずそういう衛生環境だったんだろう
極めて関係ないが夏目漱石は読書しながら鼻毛を抜いて本の綴じに挟む癖があった
しおりの代わりになって便利だったらしい
144:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 02:09:52
>>129-134
gj!!このスレで出た疑問の答えが全部解る名文だね。
PCの画面上で読むのは大変だが皆良く読もうぜw
145:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 02:18:17
>>143
記念すべき1スレの冒頭。
10 :総合スレの135:2006/09/04(月) 01:00:10
蓮の花が咲く夏の夜、贅を凝らした銅雀台の庭で
>>3-6の詩を応返する仲が良い若い公子の兄弟という図は、
想像するだに優雅というか、絵になります。
13 :無名武将@お腹せっぷく :2006/09/04(月) 13:34:39
>>10
>>絵になります
同意。まあ実際の曹植は虱を食う男だった訳だがw
17 :総合スレの135:2006/09/05(火) 17:37:00
>>13
……夏目漱石の鼻毛みたいなもので、それも愛嬌w
シラミ・ミズムシ・鼻毛に挫けるようでは此のスレには住めないらしいw
146:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 02:22:40
デカダンス着物洗わないって・・・orz
まめに洗って、洗いたてを柔らかくなるまで嫁と妾に着てもらって
(寝転がってもらえば結構早い気がする)
着古しをローテーションで着りゃいいのにな
>131-134
俺の知ってるオッサン臭い訳と違って読みやすいw
147:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 02:27:23
>>143
衛生環境っていうか、靴擦れのかゆみよりシラミのかゆみの方がひどそうだけどな…。
シラミに耐えられたら靴擦れぐらい平気、靴擦れに耐えられなかったらシラミなんか
耐えられるかヴォケー!と…。
ノミは強烈だけどシラミは案外「痛くないし、痒いだけ」なのかね。蚊でものたうち回るのに。
靴擦れで水ぶくれ潰しながら5km歩くのとノミにさされて1時間掻いちゃダメって言われる
のなkら水ぶくれに耐えますマジに。
汚いとか以前の問題で、痒いのは耐え難い。
掻き壊すと痛くなるし。
148:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 02:33:05
>>145
2スレ目から参加した者だけどそんなやり取りがあったとは…w
このスレのお陰でもう何にも挫けなくなりましたよw
149:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 02:38:27
>>129-134
乙。流石医師兼文人の文章だけあって素晴らしい。
差し出喧しいようだが訂正箇所発見。
>不是搽粉的。但究竟何晏搽粉不搽粉呢?
これは
>不是搽粉的。但究竟何晏搽粉不搽粉呢?
こうだなw
150:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 02:39:54
魯迅は医者だけあって詳しいな
151:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 03:00:53
>>135
>遠征中以外はあんまり水虫の心配はなさそう。
周瑜は遠征ばかりしていたんだぞw
152:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 03:10:38
シラミは当時の人なら誰でも多かれ少なかれついてたろうし、今更水虫など!!
ネ申が水虫でも驚かな……というかあのおっさんの場合納得するな、最初から。
153:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 03:13:43
ここまで話題が続くと華陀も水虫の治療とかしてたんだろうか…と
ふと思ってしまった。
154:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 03:19:08
表面は水虫で引っ張っているが、よく読むと清談の本質と広まりについての議論だぞ
このスレは非常に柔らかいレスの応酬に見えて、実は硬派な内容の議論をしているから困る。w
155:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 04:22:21
そうか・・・てっきり周瑜が水虫持ちか否かを追求しているのかと(ry
156:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 05:05:44
>>121
笑死(憤死の逆)
157:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 07:12:35
ブーツとか革靴みたいな密閉している靴なら分かるんだが
当時の靴で水虫になれるのかが疑問だw
158:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 07:49:30
ネ申は虱飼ってなかったと信じたいお・・・
華佗が出てきたからアレだけど、
ネ申の偏頭痛って息子には遺伝しなかったのかね
偏頭痛って遺伝するもんじゃないのか
159:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 08:20:53
>>158
言われて見れば…病弱だったという曹熊や曹沖には偏頭痛が
あったという様子は無かったそうですし曹操だけが悩まされたのかな…。
早死にしたイメージが強い曹丕や曹植や曹彰が病気に苦しんだ
記録とかはあるのでしょうか?
曹丕には郭皇后が甄夫人が夫に呪いを掛けている為、病気が
治りにくくなっているという讒言をしたという話はありますが…
160:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 12:28:53
ヒッピーといったらクスリだけどもw
植物系のものじゃなく(一番手軽そう)、鉱物ってのが不思議だね。
161:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 12:48:05
魯迅の文脈だと、昔から五石散のレシピはあったが
誰もやらなくて、改良して流行らせたのが何晏て感じだね
162:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 14:57:28
話は戻るけど、陸遜の字。
梁代に『何遜(字・仲言)』という人がいるんだけど、
『遜』と『言』は実は呼応しているってことは?
陸家の人ってあんまり捻った字にしないしさ。
163:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 17:12:33
Σ(゚Д゚)
164:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 18:38:59
ネ申の偏頭痛遺伝云々は原因にもよるよな
脳腫瘍か糖尿か老眼か…はたまたストレス、冷え性、貧血のような
ちょっと乙女ちっくな原因かもしれないしw
>>162
出仕当時18歳で字は貰ってただろうから言は本名の議に合わせてるんじゃないかな
遜は字に合わせるというより謙る(遜る)意味を含めてつけたっぽい
ただやたら上手い文字選びなので文人肌の孫権はこれだけでも気に入りそうだ
165:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 19:38:12
>>164
>乙女ちっくな原因
関羽への恋心!?
166:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 20:14:02
吉川の曹操の関羽フェチは凄いよな。
まあ前スレで崔エンや太史慈のヒゲフェチだったしなw
167:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 22:41:59
美しい港町 青森市 人口30万人
URLリンク(www.syasinkikaku.co.jp)
チベット高原 盛岡市 人口29万人
URLリンク(www.syasinkikaku.co.jp)
海と山が両立する中核市 秋田市 人口34万人
URLリンク(www.syasinkikaku.co.jp)
仙台市の隣で期待と夢がふくらむ山形市 人口25万人
URLリンク(www.syasinkikaku.co.jp)
県庁のある大都市 福島市 人口29万人
URLリンク(www.syasinkikaku.co.jp)
東北2位の郡山市 2位の大都会 人口34万人
URLリンク(www.syasinkikaku.co.jp)
東北で一番住みやすい いわき市 人口35万人
URLリンク(www.syasinkikaku.co.jp)
168:1(ry
07/03/12 22:50:15
>>162
#陸遜のあざな
Thxです!! うひー、ほんとだ。いま後漢書をみていたら、
後漢書巻四十四の鄧張徐張胡列伝第三十四の胡広伝に、
「時年已八十、而心力克壮。継母在堂、朝夕瞻省、傍無几杖、言不称老。
及母卒、居喪盡哀、率禮無愆。性温柔謹素、常遜言恭色。」
「時に年已に八十にして、心力は克壮とす。継母が堂に在るに、朝夕に瞻省し、傍には几杖の無く、言うに老と称さず。
母の卒するに及び、喪に居て哀を尽くし、率礼に愆(あやま)り無き。性は温柔にして謹素、常に遜言恭色す。」
「八十歳になってもなお、心身ともに力強く元気でした。父親の再婚相手である母親と同居していましたが、
朝夕にあいさつをかかさず、つえも必要とせず、言うことも年よりめいてはいませんでした。
母親が亡くなるにあたっては、喪中にとても悲しみ、葬礼を完璧にとりしきりました。
温厚でつつしみぶかく質素な性質で、いつも謙遜したうやうやしい人でした。」
とかいてありますたorz orz orz。言は議にも遜にも呼応したあざなだったのかー。カッコヨス。
この後漢の胡広さんは、明の文人の胡広さんとは同姓同名の別人ですおね……まさか幽r(ry
169:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 23:03:22
便利な字だw
170:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 23:38:13
少しズレるが以前読んだ論文では韋曜の呉書と陳寿の呉書を比較して、
前者には元の名が議であることが書かれていないと指摘されていたな。
韋曜の呉書といっても引用元は世説新語の注だが。
171:無名武将@お腹せっぷく
07/03/12 23:50:57
実は陸議と陸遜て別にいたんじゃない?
172:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 00:04:55
それは難しくないか?ww
173:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 01:11:23
字の元ネタは
曹操&司馬徽=荀子
陸雲&趙雲=史記
周瑜&諸葛瑾=春秋左氏伝
陸機&陸遜=後漢書か。
この辺が当時の知識人の愛読書だったのかな。
174:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 01:20:58
陸遜の時代に後漢書は無い罠
175:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 01:32:20
何晏ちゃんの字は養父の曹操が付けたと思うんだけど
何(かろうじて可)
晏(何事もなく穏やか、静か、安らか)
平(たいらか、穏やか)
叔(控えめ、静か、拾ったお豆)
もしかしてわざと叔を付けて養子って意味を含んでるのだろうか・・・
でもネ申がそんな意地悪するなんてやだ(´・ω・`)
「叔」については
同義の「粛」で(正しい)「淑」は通常女子に使用する文字なので避けたと考えて
「淑」の意味を含むのなら(善良、美しくて優しい、しとやか、控えめ)
ネ申的には穏やかで控えめな何晏ちゃんキボンヌって感じなのかな
176:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 01:35:27
>>175
いずれにせよ名に対応した字であることは間違いないのだろうけど
そういえばその「叔」の所以が気にはなっていた
177:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 01:41:30
>>175
へえ、何晏ちゃんの名づけ親は曹操だったのか。
でも、曹操は叔という字を意地悪したつもりで付けたのでは無かったとしても
曹丕に「貰い子」と呼ばれて嫌われる辺りは皮肉ですね…
178:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 01:45:20
姓を変え家督も継がせるくらいでないと貰い子とは認めない
それが曹丕ルール
179:1(ry
07/03/13 01:52:53
ネ申ポン酒のみますた(゚∀。)
>>139
なつほどー、日本じゃ和服をあつかうのはいまだに呉服商ですもんねー。
韓非子の越の人のようすも、魏志倭人伝の日本の人のようすにそっくりだし、
宋代にはいると政権ごと南下してくるので、皇帝のたべものや衣服まで外国とはおもえない親近感w。
>>174
げっorz orz orz
そういえば陸機の時代にだって後漢書はない罠。orz orz orz
まあなんかもっと前にも出典があったのだろうとしんじたい……orz orz orz
陸抗、あざな幼節さんの抗節は漢書賈誼伝だからおkですおね(゚∀。)
>>175-176
何晏ちゃんのあざな平叔はだれが与えたのかしらないのですが、由来は論語の
「子曰、晏平仲善与人交、久而人敬之。」
「子曰く、晏平仲は善く人と交わり、久しくして人之(これ)を敬う。」
「孔子先生は、晏嬰は人とまじわるのがうまいので、人は彼をうまやうようになりますた。」
かと思っていますた(゚∀。)よくかんがえたら違うか……orz
でも晏と平でやすらか、で呼応はしていますおね。叔は伯仲叔季の兄弟順かと……
ちなみに斉の宰相として諸葛丞相も梁甫吟でうたった晏嬰さんは、
すごくりっぱな人ですが身長は六尺に満たなかったので、いや別になにも曹sうわあqwせdrfgt
180:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 02:16:06
>>137
曹植がレノンで孔融がマッカートニーで五石散がマリファナなら、何晏は誰だw
181:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 02:26:56
ジムモリソン
182:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 02:29:45
叔は成り立ちが良ろしくない文字なのに何で兄弟順に使われてるのかわからん
何晏平叔は音も文字も綺麗だけど何かおさまりが悪い気がしてムズムズする
中国では問題無いのかなあ
183:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 02:30:32
気まずい雰囲気になるのは悪いと思うのですが、眠る前に勇気を持って言います。
1さんはこのスレになってから曹丕の話題に徹底的に触れないようにしている印象を受けます。
前スレで注意を受けたからと、そんなにピリピリと意識しなくても良いと思うのですが…。
三国時代の文学を語るのに外せない人物の一人ですし、
1さんが語る曹丕の話題が好きだった者の一人としては寂しく思っています。
……思い違いでしたら本当に申し訳ないです。
184:1(ry
07/03/13 02:38:22
>>180
ジェリー・ガルシアあたりでせうか?w
ジムモリソンは潘岳でw
いやしかしマジなはなし、曹魏の清談が東晋にいたった>>131-134のながれは、
ヒッピー→ヤッピー→ジェネレーションX→ネオ・ヒッピーのながれに似ていると(自分は)思うのです(゚∀。)
>>183
そんなことはないですたが、そういえばさいきんは西晋よりですた。すみませんですたorz
けっこう曹丕曹丕といっているような気がしていたのですが……orz w
三世紀の中国の文人のみなさんはいっぱいいて、いろいろとおもしろいので、
いろんな人の文章が鑑賞できたらたのしいと自分は思うです……(゚∀。)
そういえばまだ建安七子もでそろっていないのですおね。
185:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 02:41:52
前スレでワーワー言って楽しんだから
今はサカナを別に移して楽しんでるだけさ
186:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 02:52:27
>>179
所以が気になった、ってのは、
要するに家族に関してあまり詳しい話を聞いたためしがないので、
実は上に二人いたのか、親の兄弟とかがいたのか、
それともまったく例外で深い意味はないのかとか、
いや意味はあるのだろうけど
それにしても有名な爺さんは兎も角、親父なんか名前すら
マトモに出てこないとか……
187:1(ry
07/03/13 03:06:03
そいでは曹丕のブログをちょっとだけうpしてみます。
全三国文巻六魏六の文帝三より
「江東為葛、寧可比羅紈綺穀。」(御覧八百十八)
「江東の葛(くず)為(た)るや、寧(いず)くんぞ羅紈綺穀と比ぶる可(べ)きか。」
「江東の葛といったら、すばらしいうすぎぬ、しらぎぬ、あやぎぬ、あやおりものと比べるべきなほどです。」
葛といっても、葉や茎をガシガシとかじったのではなく、葛湯みたいにするでんぷんの葛粉のことですおねw。
葛粉が白くきめこまかいことか、それでつくった葛切りとか葛湯かなにかが滑らかなことを、
絹織物にたとえたのでせう。江東はあたたかくて湿気がおおいので、
いまでも日本と同じく葛がばんばん生えていますが、三世紀にもきっとそうだったのかと思います。
曹丕は南部にいたころに食べたのか、それともいつもの孫権の使者がくれたのでせうかw。
逆にいえば、洛陽なんかは葛がそんなに生えないほどにさむくて乾燥しているのですおねー。
曹丕は蜀錦についてもいろいろ熱くかたっているので、布についても一家言があったらしいですw。
188:1(ry
07/03/13 03:13:40
>>186
たしかに、何晏ちゃんに実家で兄弟がいたのかとか、曹氏の外戚ってことで
兄弟の順番が叔だったのかとか、このへんは魯迅先生もわからんといっているぐらいなので、
自分のようなしろうとにはぜんぜんわからないですー。
何進さん関係で、どこかになにかでてないのでせうかね。
189:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 03:27:04
>>179
字を与えたのが曹操だとしたら、養子に晏嬰の名を付けるかねえ
まあ論語から引いただけかも知らんけど。
>>187
グルメは相変わらずだなw
190:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 03:30:23
えっそうなの?気づかなかったわw
ここでいつ誰が誰(の作品)を語ろうと自由だと思うし
また1さんが1さんの名前で曹丕話したくなったら、書き込んでくれりゃいいと思うけどな
いや名無しでも無問題なんだけど
なに分析してるのか知らんがリクエストとかエールだけじゃ駄目なの?
勝手に他人の気持ち想像して決めつけたり
自己の判断でしてることに口出しするのは野暮なんじゃね
191:190
07/03/13 03:32:22
ごめん
>>183に遅レス
192:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 03:38:02
まあマターリしようぜ(´∀`)
音楽に国境は無いが言葉には国境が有るこの世界で
中国語が解らなくても漢文が読めれば
美しい原文を楽しめる日本語圏に生まれたことに感謝!
そして「くずきり」旨そう!
193:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 03:44:20
くずきり(゚Д゚) ジュルリ
相変わらずぴぃ様のブログは素晴らしいな
何かもう食べ物が美味しそうで美味しそうで
流石ブログの帝王だ
194:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 03:56:09
>>121
遅レスだけど猿ワロスwwwww
>>187
くずきり(゚Д゚)ンマソダナー・・・・
>それともいつもの孫権の使者がくれたのでせうかw。
ツボに嵌ったwwww孫権の使者って色んなもん持って来るよなwwwww
195:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 06:23:53
孫権のミカンは酸っぱくてぴぃ様のお気に召さなかったんだよなw
196:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 07:26:33
現代日本の品種改良されてめちゃめちゃ甘くなった果物類をぴぃ様に食わせたら
どんなブログができるのか気になってきた。
永久にその疑問が解決されることはないけど。
197:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 07:45:41
しかし何「晏」に「平」叔という字を付ける時に
晏平仲のことが思い浮かばなかった知識人はいるまいよ
198:197
07/03/13 07:47:41
スマソ>>179と>>189あてね
199:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 07:58:39
>>179
宮城谷昌光三国志で、
ネ申が貧弱で「あんな大将じゃだめだ」とガカーリした兵士が文句言ってるところに
我らが鮑信様が
「晏子だってちっちゃかったんだぞ! 人間背丈じゃない!」
みたいなこと言うシーンがあったことを思い出したわけで・・・
200:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 11:09:43
何晏は論語集解やってるしね、孔子に縁があるのかも。
201:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 11:12:05
くずきり!(゚∀゚)
ちょー食いてぇw
202:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 11:18:33
葛湯とか葛餅かも知れんぞ(゚∀゚)
203:まとめサイト ◆XoQX5vgfQU
07/03/13 12:51:46
URLリンク(www.geocities.jp)
ここまでUP
204:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 18:16:06
うはー、葛を絹に例える曹丕はオサレだw
205:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 18:30:35
分かる!葛粉て龍角散みたく細かくてキラキラしてるもんね。
206:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 18:43:57
>>187
葛は洛陽にはないの?あんなの何処にでも生えてんのかとオモタw
207:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 22:56:44
>>205
何で龍角散www
ゴホンときてるのか?
208:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 23:18:19
葛粉は粒がきめ細かいからじゃねw
209:1(ry
07/03/14 01:10:16
まとめさんいつも乙であります(`・ω・´)ゝ
#江東の葛
自分もはじめは、デンプンのこな(⊇葛粉≒片栗粉≒コーンスターチ)そのものの
龍角散のようなw粒子の白さとキラキラしたきめこまかい輝きを上等の絹織物にたとえたのかと思って、
「すげーうまい修辞だ!」とおもったですー。でもよく考えたら、三世紀の中国で、
身分のたかい成年男子が自分で台所にはいって、加工されるまえの葛粉いじったりはしないかも……
とおもって、葛湯かくずきりかあんかけか分かりませんが、料理されたあとの葛粉の滑らかな舌ざわりと
つややかな光沢を絹にたとえたのかなーと思って、いちおう両方かいておきますたorz。
でも、孫権からの献上品wならばその場で検分したり、あとは弓術とかのすべりどめ(?)とかに
片栗粉みたいなのを使ったりするのならば、曹丕が自身で葛粉をいじくったりするのかもですおねw。
洛陽は葛がよく育つには、さむくて乾燥しすぎだと思うですー。
だからいつもの孫権の使者wは、温暖な南部の海山の幸をいつも献上してくるのですねw。
大国である魏のトップが気むずかしいと、献上品も気をつかうので孫権も大変ですおね。
曹操なんて、干しアワビ(トコブシ?)でおおよろこびしてたのになーw。
#何晏ちゃんのあざな
たしかに、>>189さんのように晏嬰の名を外戚の何晏ちゃんにつけるかなーというと不思議ですおね。
でも>>197さんのように、曹丕も「余是以少誦詩論」と論語を暗唱しているといっているし、
「子曰晏平仲善与人交……」を失念している人は、曹操をふくめいなさそうですおね。
>>200さんのように何晏ちゃんは論語集解の編纂までやっているので、あざなをもらう以前の若いころから
論語についての評判が高くて、それじゃあっつうんで名の晏にひっかけて、論語にちなんだ文字を
あざなにもらったんだよー、とかかもしれないですおね。
叔はほんとに何なんでせうね……実家の何氏では三男だったのかな。
210:無名武将@お腹せっぷく
07/03/14 01:22:56
とこぶしで喜ぶネ申カワユスww
211:無名武将@お腹せっぷく
07/03/14 01:35:02
>弓術とかのすべりどめ
野球のロージンは松脂だっけ?
212:無名武将@お腹せっぷく
07/03/14 02:01:40
>>211
松脂だね。
>>199
へえ読んでみよう。
213:無名武将@お腹せっぷく
07/03/14 03:33:07
くそう葛とかとこぶしとか
美味そうな話題の大攻勢じゃないか(゚∀゚)じゅる
214:無名武将@お腹せっぷく
07/03/14 03:35:47
ふと気になったのですが、呉から魏への献上品が海山の幸だったのなら
逆の魏から呉への献上品は何が多かったのでしょうか?
215:無名武将@お腹せっぷく
07/03/14 03:43:36
献上っていうか下賜ってことになるんだろうけど、やっぱ文化的なものじゃないかな?
布とか、それこそ鏡とか、珍しい書物とか、最先端のファッションに身を包んだ美女とか。
あー都で今こんなのが流行してんだ!すげ!って感じの。
216:無名武将@お腹せっぷく
07/03/14 03:47:30
あ、曹丕なら自分の典論を献上品に加えていそうだなw
217:無名武将@お腹せっぷく
07/03/14 07:52:37
孫権が像をネ申に送ってたけど
お返しに北の謎の動物を送り返したりしたんだろうか。
北方産の名馬とか
218:無名武将@お腹せっぷく
07/03/14 08:09:35
そういやその象の体重を量る話が小学6年の時の算数の教科書に載ってたな…
あのころはまさかネ申がらみとは思わなかった…。
219:無名武将@お腹せっぷく
07/03/14 08:31:06
>>218
自分も読んだ。当時は、昔は面白いこと考えるおっさんがいたんだなあ、って廷臣の誰かが考えたんだとばかり思ってた。
まさか八歳(だったかな)の、しかもネ申の子供が考えてたなんて……
220:無名武将@お腹せっぷく
07/03/14 09:49:23
>>216
つか、実際に典論は下賜してるw
呉主伝注の『呉歴』に
「文帝報使、致鼲子裘、明光鎧、騑馬、又以素書所作典論及詩賦与権」
つまり、高級ファッションと馬、
そして曹丕ご自慢の『典論』に詩賦まで付けてプレゼント
221:無名武将@お腹せっぷく
07/03/14 10:19:25
孫権的には典論よりネ申の「おいしいお酒のつくりかた」が
欲しかったに違いない
222:無名武将@お腹せっぷく
07/03/14 10:32:31
呉にはうまい酒は無かったのだろうか
223:無名武将@お腹せっぷく
07/03/14 10:34:10
他人の迷惑かえりみず、自作の同人誌をあちこちに配り回る曹丕たん
が思い浮かんだ
224:無名武将@お腹せっぷく
07/03/14 10:46:22
ぴぃ様ブロガー通り越してついに同人男にされたwww
…うん、ぶっちゃけそうかも。ネ申もある意味孫子の二次創作かも…。
あの親子コミケとか好きそうだよな。