赤壁~夷陵まで 呉蜀対立at WARHIS
赤壁~夷陵まで 呉蜀対立 - 暇つぶし2ch19:名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中
07/02/02 14:23:33
>>15
呉のものだと認めちゃったというか、返す約束をするのは借りた時にするであろう事から、
あの時点で認めたというよりは江陵及び南郡を借り受けたときに結んだ条約じゃなかろうか。
こっからは想像込みの話だが、
借り受けた当時の劉備勢力は呉と比べ弱小なので、江陵と南郡を借りるだけで将来的には南部四郡を利子として
荊州領を返却するという無茶苦茶な条約を結ばされたと。

これを劉備側から見れば当時の荊州の人材が劉備に流れていた事、呉の荊州における領土は少なく、
単独での蜀遠征なんて不可能と判断しており、借りた事に大して恩義を感じていなかったと思う、
なので力関係が対等になれば荊州領を全部返せという呉の論理に従えないもの道理であったろう。
私見ではるが事実南郡+江夏+その他程度しか領有していない呉では荊州防衛さえままなったかは疑問である。
対して孫権側ではわざわざ切り取った地域を劉備に貸し出すことに対する不満が根付いててもおかしくはない、
周瑜という呉の重鎮が切り取った土地+蜀遠征を企画してたり劉備を抑えつける戦略を提唱していたのも大きく、
一部の不満はかなりのものであったろうし、その上で江陵を貸し出したからには劉備が恩義を感じるのも当然という
思いもあったであろうと思う、また蜀遠征では裏をかかれ事にも憤慨している。
こうなれば南部四郡を切り取ったかつての劉備の行動さえねこばばに見えたのかもしれないし、
荊州は蜀が呉に返すべきものであるっていう意識が強くなっても不思議は無い。

総括して考えれば同盟初期の圧迫外交が蜀の反発を生み、また魯粛のとった戦略や劉備の躍進が呉内部の反発を生み、
それが同盟中期の三国鼎立した段階で噴出したと見ると、同盟の初段階で互いの歩み寄りが必要だった気がする。
それでも劉備が当初の荊州三郡譲渡を飲んでいればまた違う形へと進展した期待もあるが。
まあ互いの視点なんてほぼ俺の想像なんでアレな話だが。


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