07/02/23 23:43:58
>>616
酒の発酵してるところは知らないけど金魚の水槽がヤバいことになって表面に
泡浮いてた時のことと、小学校の中庭の池の浮き草のこと想像したらなんとなく
わかる気がする。
大きめの泡が水面に安定して漂ってるってことだと思うお。
622:無名武将@お腹せっぷく
07/02/23 23:54:39
619さんじゃないけど>>620
『文選』<魏文帝與鍾大理書>
丕白、良玉比德君子、珪璋見美詩人。
晉之垂棘、魯之璵璠、宋之結綠、楚之和璞、
價越萬金、貴重都城。有稱疇昔、流聲將來。
是以垂棘出晉、虞虢雙禽、和璧入秦、相如抗節。
竊見玉書、稱美玉白如截肪、黑譬純漆、赤擬雞冠、黄侔蒸栗。
側聞斯語、未見厥状、雖德非君子、義無詩人、高山景行、私所仰慕。
然四寶邈焉已遠、秦漢未聞有良比也。
求之曠年、不遇厥真、私願不果、飢渇未副。
近日南陽宗惠叔稱、君侯昔有美玦。聞之驚喜、笑與抃會。
當自白書、恐傳言未審。是以令舍弟子建因荀仲茂、時從容喩鄙旨。
乃不忽遺、厚見周稱。鄴騎既到、寶玦初至。捧匣跪發、五内震駭。
繩窮匣開、爛然滿目。猥以蒙鄙之姿、得覩希世之寶。
不煩一介之使、不損連城之價。既有秦昭章臺之觀、而無藺生詭奪之誑。
嘉貺益腆、敢不欽承。謹奉賦一篇、以讚揚麗質。丕白。
623:無名武将@お腹せっぷく
07/02/23 23:55:38
適当な訳↓
宝玉は君子の徳に比べられ、珪や璋の宝玉は詩人に褒め称えられる。
晉の垂棘、魯の璵璠、宋の結綠、楚の和璞、その価値は万金を越え貴重さは都市の城郭以上とされる。
昔から貴ばれ、将来に名声を保っている。垂棘が晉より出ると虞と虢は共に滅ぼされ、
和璧が秦に入ると、相如は節義を世に示した。
四宝は到底見る事は出来ないので、書で読み想像していた。
美玉の白は脂肪を切った様で、黒は混じり気の無い漆、赤は鶏冠に似て、黄は蒸し栗の様だと述べられている。
噂に伝え聞くことはあっても、まだ本物を見た事は無い。
君子の徳は無く、義も詩人のようでは無いのだが、君子の徳と美玉とを仰ぎ慕っている。
しかし四宝は既に遠く、秦漢の時代にそれと比較出来る物を聞かない。
長い間これを求めていたが、まだ本物に出会った事が無く、私の願いは叶わず、欲しくて欲しくてたまらない。
近頃南陽の宗惠叔に聞いたのだが、貴方は昔美玉をお持ちだったとか。
これを驚いて聞き、笑いを抑える事が出来ず、喜んで手を叩いた。
自ら書で申し上げるべきであるが、恐らく書面では言い尽くせないと
思った。弟子建に命じ、荀仲茂を通し、時を選び私の気持ちを伝えた。
忘れず丁重な返事を頂いた。鄴より使いが来て、宝玉が届いた。
箱を手に取り開けようとして跪くと、全身が震えた。
紐を解くのももどかしく箱を開けると、燦然と輝く光が眼に満ち、類稀な宝を見る事が出来た。
一人の使者を煩わすことなく、連城の代価を損なう事もなく。
秦の昭王が章台で見た眺めを得て、藺生に欺かれ取り返される心配はない。
良い賜り物とご厚情に感謝している。
謹んで賦一篇を奉じ、美玉の様子を讚揚してみた。
鐘繇が宝玉を持っている、と聞いた時点で大喜びな曹丕。まだ貰えると決まったわけじゃないのに…
でも、あからさまに取り上げる事は出来なかった曹丕。
“書面では言い尽くせない”なんて、モノはいいようだなvv
624:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 00:02:07
>>623
すげーテンション…
子供どころか乙女になってないか?
625:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 00:04:02
>>615
鍾ヨウが美女の幽霊に取り憑かれた事件も
陸雲が甥っ子に話したから現代まで残っているんだよな
ネ申の使いかけ綿棒をパクったり、魏の幽霊話をネタにしたり・・・
どんだけ魏オタなんだw
626:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 00:27:28
>>623
その喜びようを見て鍾ヨウも「あげて良かったわい」と思っただろうなw
627:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 01:50:01
普通目にする三国志世界の視点て、戦争面からなんだなあと思う。
角度を変えて文学視点にしたらイメージ変わりまくりんぐですよw
628:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 02:07:30
>>605
>「やっぱ嘘じゃん」「でもちょっと不思議」
華佗伝読んで来た!兄弟でそれぞれ
「やっぱ嘘じゃん!・・・でもちょっと不思議」って
言ってるwwwwwモエスwwwwwww
629:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 03:26:10
対酒当歌オフはこれで飲もうぜ
URLリンク(page11.auctions.yahoo.co.jp)
630:1(ry 典論自叙1
07/02/24 08:34:07
>>622-623
Thxであります!! ( ゚∀゚)o彡゜
自分もとりあえずサトウキビをうpしておくですー。なげー……orz
魏書文帝紀第二の裴注より
(白文)
「典論帝自叙曰、初平之元、董卓殺主鴆后、蕩覆王室。
是時四海既困中平之政、兼悪卓之凶逆、家家思乱、人人自危。
山東牧守、咸以春秋之義、衛人討州吁于濮、言人人皆得討賊。
於是大興義兵、名豪大侠、富室強族、飄揚雲会、万里相赴。
兗予之師戦于滎陽、河内之甲軍于孟津。卓遂遷大駕、西都長安。
而山東大者連郡国、中者嬰城邑、小者聚阡陌、以還相呑滅。会黄巾盛於海岱、山寇暴於并冀、
乗勝転攻、席巻而南、郷邑望煙而奔、城郭睹塵而潰、百姓死亡、暴骨如莽。
余時年五歳、上以世方擾乱、教余学射、六歳而知射、又教余騎馬、八歳而能騎射矣。
以時之多故、毎征余常従。建安初、上南征荊州、至宛張繍降。旬日而反、亡兄孝廉子修、
従兄安民遇害。時余年十歳、乗馬得脱。夫文武之道、各随時而用、生于中平之季、長于戎旅之間、
是以少好弓馬、于今不衰。遂禽輒十里、馳射常百歩、日多体健、心毎不厭。建安十年、
始定冀州、濊貊貢良弓、燕代献名馬。時歳之暮春、勾芒司節、和風扇物、弓燥手柔、
草浅獣肥、与族兄子丹猟于鄴西、終日手獲麞鹿九、雉兎三十。
後軍南征次曲蠡、尚書令荀彧奉使犒軍、見余談論之末、彧言、聞君善左右射、
此実難能。余言、執事末睹夫項発口縦、俯馬蹄而仰月支也。彧喜笑曰、乃爾。余曰、
埒有常径、的有常所、雖毎発輒中、非至妙也。若馳平原、赴豊草、要狡獣、截軽禽、
使弓不虚彎、所中必洞、斯則妙矣。時軍祭酒張京在坐、顧彧拊手曰、善。
631:1(ry 典論自叙2
07/02/24 08:35:15
余又学撃剣、閲師多矣、四方之法各異、唯京師為善。桓霊之間、有虎賁王越善斯術、称於京師。
河南史阿言昔与越遊、具得其法、余従阿学之精熟。嘗与平虜将軍劉勲、奮威将軍鄧展等共飲、
宿聞展善有手臂、暁五兵、又称其能空手入白刃。余与論剣良久、謂言将軍法非也、余顧嘗好之、
又得善術、因求与余対。時酒酣耳熱、方食芊蔗、便以為杖、下殿数交、三中其臂、左右大笑。
展意不平、求更為之。余言吾法急属、難相中面、故斉臂耳。展言願復一交、余知其欲突以取交中也、
因偽深進、展果尋前、余却脚[巣+オオザト]、正截其顙、坐中驚視。余還坐、笑曰、
昔陽慶使淳于意去其故方、更授以秘術、今余又願鄧将軍捐棄故伎、更受要道也。一坐尽歓。
夫事不可自謂己長、余少暁持複、自謂無対、俗名双戟為坐鉄室、鑲楯為蔽木戸。
後従陳国袁敏学、以単攻複、毎為若神、対家不知所出、先日若逢敏於狭路、直決耳。
余於他戯弄之事少所喜、唯弾棊略尽其巧、少為之賦。昔京師先工有馬合郷侯、東方安世、
張公子、常恨不得与彼数子者対。上雅好詩書交籍、雖在軍旅、手不釈巻、毎毎定省従客、
常言人少好学則思専、長則善忘、長大而能勤学者、唯吾与袁伯業耳。余是以少誦詩論、
及長而備歴五経、四部、史、漢、諸子百家之言、靡不畢覧。」
632:1(ry 典論自叙3
07/02/24 08:36:35
(適当書き下しorz)
「帝は典論の自叙に曰く、初平の元、董卓は主を殺め后を鴆し、王室を蕩覆す。
是の時四海は既に中平の政に困(くるし)み、兼ねて卓の凶逆を悪(にく)み、家家は乱を思い、人人は自ら危ぶむ。
山東の牧守、咸(みな)春秋の義を以って、衛人の濮の州吁を討つとし、人人は皆賊を討つを得るを言う。
是の義兵の大興に於(よ)り、名豪大侠、富室強族、飄揚と雲に会し、万里相赴く。
兗予の師(すい)は滎陽に戦い、河内の甲は孟津に軍(たたか)う。卓は遂に大駕を還し、
都を長安に西(せい)す。而して山東の大者は郡国を連ね、中者は城邑を嬰(つら)ね、小者は阡陌に聚(あつま)り、
以って相(あい)呑滅に還す。黄巾は海岱に盛し、山寇は并冀に暴るに会し、
勝つに乗じて攻を転じ、席巻して南し、郷邑は煙を望めど奔し、城郭は塵を睹て潰れ、百姓(ひゃくせい)は死亡し、
骨を暴(さら)すは莽(くさ)の如し。余は時に年五歳、上は世方の擾乱を以って、余に射を学ぶを教(おお)せられ、
六歳にして射るを知り、又余に騎馬を教(おお)せ、八歳にして騎射に能う矣(かな)。
時の故(ゆえ)多きを以って、余は征の毎(たび)に常に従う。建安の初め、上は荊州に南征し、
宛に至りて張繍が降(くだ)る。旬日にして反し、兄の孝廉子修、従兄の安民は害に遇し亡す。
時に余は年十歳、馬に乗して脱(のが)れるを得る。夫(そ)れ文武の道、各(おのおの)随時にして用い、
中平の季(すえ)に生まれ、戎旅の間に長じ、是れ少しく以って弓馬を好み、今にも衰えず。
禽に輒(すなわ)ち十里を遂げ、常に百歩を馳せ射し、日を多(かさ)ねて体は健やか、心は毎(つね)に厭わず。
633:1(ry 典論自叙3
07/02/24 08:38:29
建安十年、始めて冀州を定むるに、濊貊は良弓を貢じ、燕代は名馬を献ず。
時に歳(とし)の暮春、勾芒(こうぼう)は節を司り、和風は物を扇ぎ、弓は燥して手は柔かく、草は浅く獣は肥え、
族兄の子丹と与(くみ)し鄴の西に猟し、終日に手(てずか)ら麞鹿(のろじか)の九、雉兎の三十を獲(え)る。
後に軍の南征し曲蠡に次すに、尚書令の荀彧は使を奉じ軍を犒(ねぎら)い、余に見まえ談論の末に、
彧は言うに、聞けば君は左右に射るを善くす、此れ実に能うに難し。余は言うに、
執事(しつじ)は末だ夫(そ)の項に発し口に縦(はな)ち、俯して馬蹄せども仰ぎて月支するを睹(み)ざる也(なり)。
彧は喜笑して曰く、乃(すなわ)ち爾(しか)りと。余は曰く、埒(らつ)に常径の有り、的に常所の有るに、
発す毎(ごと)に輒(すなわ)ち中(あた)ると雖(いえど)も、至妙たらざる也。
若(も)し平原を馳せ、草の豊(しげ)るに赴き、狡(ずる)い獣を要(ねら)い、軽やかな禽を截(た)つに、
弓の虚ろに彎(ま)げしめず、中(あた)る所必ず洞(つらぬ)くは、斯れ則ち妙矣(かな)。
時の軍祭酒の張京が坐に在り、彧を顧(かえり)み手を拊(う)ち曰く、善(おお)いにと。
余は又(また)撃剣(げっけん)を学び、師を多く閲(へ)るに、四方の法は各(おのおの)に異り、
唯(ただ)京の師を善きを為す。桓霊の間に、虎賁(こはん)の王越が斯の術に善く有り、京の師に於いて称(たた)う。
河南の史阿が昔(むかし)越に与(くみ)し遊び、其の法を具(そろ)い得ると言うに、余は阿に従いて学び之(これ)に精熟す。
嘗(かつ)て平虜将軍の劉勲、奮威将軍の鄧展等と共に飲み、宿(もと)より展に手臂(しゅひ)の善く有り、
五兵に暁し、又(また)其の空手で白刃に入るを能うと称すを聞く。余は良く剣を論ずること久しく、
謂うに将軍の法に非ざるを言い、余は嘗(かつ)ての之(これ)に好(よ)きを顧りみて、
又(また)善き術を得るに、因りて余と対するを求む。時に酒酣し耳は熱し、方(まさ)に芊蔗を食らうに、
以って杖に便ずるを為し、殿を下り数交し、三を其の臂に中(あ)て、左右は大笑す。
634:1(ry 典論自叙3
07/02/24 08:39:38
展は意を不平とし、更に之(これ)を為すを求む。余が言うに吾が法は属(つ)くに急(はや)く、
面に相(あい)中(あて)るは難く、故に斉て臂(ひじ)耳(のみ)と。展が復(ま)た一交を願うと言うに、
余は其の突きを以って交を取り中(あ)てるを欲すを知り、因りて偽りて深く進み、
展は果たして前に尋(おとず)れ、余は却(しりぞ)いて脚を[巣+オオザト](?)し、
正に其の顙(ひたい)を截(き)り、坐中は驚き視る。
余は坐に還り、笑いて曰く、昔(むかし)陽慶は淳于意に其の故(ふる)き方(ほう)を去らしめ、
以って更に秘術を授くに、今(いま)余は又(また)鄧将軍の故き伎(わざ)を捐棄するを願い、
更に要道を受くる也と。一坐は歓びに尽く。
夫(そもそも)事に自ら己の長ずるを謂う可(べ)からず、余は少しく複(かさ)ねて持つに暁し、
自ら対する無きを謂うに、俗名に双戟の鉄室に坐すを為し、鑲楯は木戸を蔽うを為すと。
後(のち)に陳国の袁敏に従い学び、単を以って複を攻めるは、毎(つね)に神の若(ごと)く為(た)り、
対家は出(い)ずる所を知らず、日に先んじて若し狭路で敏と逢わば、直(すぐ)に決まる耳(のみ)。
余は他に於いて戯弄の事に喜ぶ所少なく、唯(ただ)弾棊は其の巧の略を尽くし、少しく賦を為す。
昔(むかし)京の師の先工に馬合郷侯、東方安世、張公子の有るに、常に彼の数子の者と対するを得ずを恨む。
上は雅(つね)に詩書交籍を好み、軍旅に在りと雖も、手に巻を釈(す)てず、毎毎客に従いて定省(ていしょう)するに、
常に言うに人の好(よ)く学に則し思に専す少なく、長じて則ち善く忘れ、長大すれども学者の勤めに能うは、
唯だ吾と袁伯業耳(のみ)。余は是れを以って少しく詩論を誦し、長ずるに及べども五経を歴備し、
四部、史、漢、諸子百家の言、靡き覧て畢(おわ)らざる。」
635:1(ry 典論自叙4
07/02/24 08:44:01
(適当訳orz)
「曹丕の典論の自叙にいわく、
劉協が帝位についた初平元年に、董卓は主君をころし皇后に毒鳥の羽でつくった毒酒をのませて
王室をやぶりくつがえした。このとき国内はすでに劉宏が皇帝であった中平年間の為政にくるしんでおり、
さらに董卓の道にはずれた極悪な行為をにくんだために、家々はすべて反乱をしようと思い、
人々は自分の身を危ぶんだ。山東の州や郡の長官たちは、こぞって春秋に
「衛の人は、荘公の庶子であったのに異母兄の桓公をころして王位をについた濮の州吁を処刑した」と
書いてあることを主張し、人々はみな賊(董卓)を討伐してもよいのだと言った。
この正義の兵がさかんにふるいたったことで、名のある者や勢力のある者、やくざの親分、
お金持ち、強い部族は、風にひるがえりあがって雲にあつまり、万里をそれぞれに赴いた。
兗州と予州の人々は滎陽でたたかい、河内の兵士は孟津に布陣した。
董卓はついに皇帝をつれだし、都を洛陽から西にある長安に遷都した。しかし、山東では
勢力の大きな者は郡や国をならべ、中ほどの者は城や邑をならべ、小さい者はあぜみちにあつまり、
そうやって互いに呑みこみあって滅んでいった。黄巾賊は海と岱で勢力をさかんにし、
山賊が并州と冀州で暴れまわっており、彼等は勝つたびにまたほかのところを攻め、
あたりを席巻すると南に行き、村々は燃えて煙がたちのぼり人々は逃げ、城郭は賊軍の砂塵をみて降伏し、
国民は死んでしまい、草むす骨がそのへんにたくさんころがっていた。
余はそのとき五歳であったが、父上は世間がみだれさわいでいることから、余に弓術を学ぶようにおおせられ、
六歳にして弓道ができるようになり、また父上は余に馬術をするようにおおせられたので、
八歳にして騎射がたいへんうまくなった。ゴタゴタした時代だったので、余は遠征のあるたびにいつも従軍した。
636:1(ry 典論自叙5
07/02/24 08:48:26
建安のはじめごろ、父上は荊州に南征し、宛まで来たところで張繍がくだってきた。
しかし十日たって反乱をおこし、兄の曹昂と従兄の曹安民がその反乱にあって亡くなった。
余が十歳のときのことで、馬にのって逃れることができた。
こうやって文武の道をそれぞれ状況にあわせて使い、中平年間のすえに生まれ、
軍隊で戦いながら成長したので、小さなうちから弓道と馬術が好きで、今でも熱心である。
鳥を十里もおいかけ、いつも百歩のところから馬にのりながら射ており、
ずっとそれを続けてきているが体は健康、心もぜんぜんいやにならぬ。
建安十年に、はじめて冀州を平定したときに、濊と貊からは名弓が貢ぜられ、
燕と代からは名馬が献上された。春の暮れごろの季節のときで、春の神は季節をつかさどり、
なごやかな風にものはそよぎ、弓は乾燥していて腕は凝っておらず、草はみじかく獣は肥えており、
族兄の曹真と鄴の西で猟にでて、終日に自分たちでノロジカを9頭とキジやウサギの30羽をとった。
のちに軍を南征させて曲蠡に宿営したときに、尚書令の荀彧が使者の役をたてまつって
軍をねぎらったときに、余にあっておしゃべりした末に、荀彧が「わが君(曹丕)は左右にスイッチして
弓を射ることが上手くあられるそうですが、これをなさるのはじつに難しいことでしょうね?」と言った。
余は、「貴官は弓をうなじでひいて口で矢をはなち、うつむいて馬蹄をみながら
ふりかえって絹の的を射るというものをまだ見たことがないであろう?」と言った。
荀彧はおもしろがって笑い、「まったくそうです」と言った。
余は、「馬場の囲いのはばは一定であり、マトの場所も一定なのだから、
矢を放てばかならずあたるといっても、そんなにすごいというわけではないのだ。
もし平原に馬をはしらせ、草のしげっているところに行って、ずるい獣をねらい、身軽な鳥をとるのに、
弓をむだにうたず、かならずあてて射抜くならば、これはまったくすばらしい技術だ」と言った。
ときの軍祭酒の張京が宴席にいたのだが、荀彧にふりかえって手を打って「まったくです!」と言った。
637:1(ry 典論自叙6
07/02/24 08:52:11
余はまた太刀による剣術を学び、多くの師についたが、地方によって流儀がそれぞれに異なっており、
ただ都の先生だけがよいものであった。後漢の桓帝(劉志)と霊帝(劉宏)のころに、
近衛兵の王越というこの術がとてもうまい者がいて、都の先生の中でも賞賛されていた。
河南の史阿という者が、むかし王越のところに遊学し、その技術をすっかり学んだというので、
余は史阿のところで学んでこれにとても詳しくなった。
かつて平虜将軍の劉勲、奮威将軍の鄧展たちと共にお酒を飲み、
かねてより鄧展が手だれの者で、五つの武器につうじ、
また彼は丸腰で白刃のみだれる中に入れると称しているのを聞いていた。
余は剣について長いあいだ議論をし、将軍の流儀はいまいちであり、余はかつて剣が好きであったし、
またよい流儀も体得しているのでと、余と対戦することを求めた。
そのとき酒もたけなわで熱くなっており、ちょうど青々としたサトウキビを食べていたので、
これを杖のかわりに使って、座を下りて数合交じえ、三合を彼のひじにあてたので、左右の皆は大笑いした。
鄧展は不満をもち、もういちどやることを求めた。
余は「わたしの流儀は突きの動きがはやく、面にあてるのは難しいので、ひじにしか当てないのだ」と言った。
なお鄧展が「もう一戦を願います」というので、余は彼が突きによって一本を取ろうとしているとわかり、
わざと彼のふところ深くに進み、鄧展は果たして前進してきたので、余はしりぞいて脚を[巣+オオザト](?)し、
ばっちりと彼のひたいを(サトウキビで)きったので、宴席のものはみな驚いて注目した。
余は座にかえって、笑って「むかし史記にでてくる名医の陽慶は、おなじく名医の淳于意に彼のふるい技術を捨てさせ、
そうして改めて秘術を授けたが、いま余はまた、鄧将軍がふるい技術ををすてさって、
あたらめてきちんとした道の教えを受けられることを願う」と言った。宴席の者は全員が大喜びした。
638:1(ry 典論自叙7
07/02/24 08:55:36
そもそも、自分がみずから何かが上手であると言ってはいけなくて、
余は若いころに二刀流にすぐれ、自分にかなうものはいないと言っていたが、それは俗に
「双戟は鉄の部屋にいるようであり、鋳物の楯は木戸はるかにしのぐ」と言うものであった。
のちに陳国の袁敏のところで学んだが、彼が一刀で二刀を攻めることは、いつも神のようであって、
対戦相手の剣術家は袁敏の刀がどう出るかが分からず、
たちあいのまえでももし袁敏と狭い路地で遭遇したら、すぐに一本をとられてしまう。
余は他の遊びで楽しいと思ったところは少ないが、ただオハジキはそのわざのほとんどがうまくできるようになり、
若いころに賦もよんだ。むかし都の先生で上手な者に、馬合郷侯、東方安世、張公子という人がいたが、
いつもこれら数人と試合のできないことを恨めしくおもっている。
父上はつねに詩をよんだりだり書をしたためたり本を読んだりなさることを好まれ、
軍の遠征中にも、手から巻き物をはなざず、朝晩に他人とともに挨拶をするたびに、
いつも「人にはよく学問をおさめてりっぱな考えをもつ者は少なく、年月がたてばきれいに忘れてしまい、
大人になってからも学ぶ者としてのつとめを果たしている者は、ただ私と袁伯業だけだ」と仰られた。
余はこの言葉にしたがって若いうちは詩経や論語を暗誦し、大人になっても五経をそろえてよく読み、
四部、史記、漢書、諸子百家の言にいつもふれあって読んでおり、読んでいないものはない。」
サトウキビおわり△
639:1(ry
07/02/24 09:00:33
週末のおまけ
>>616,>>621
それは、炊飯器で甘酒をつくってみるとわかるかもです( ゚∀゚)o彡゜
この曹操の幼名をとっていうところのいわゆる「阿瞞粥」は、アルコール分が1%以上にはぜったいになりません。
【自己責任型阿瞞粥のかんたんなつくりかた】
1.デパ地下とかで、酒麹を買ってきます。
2.炊飯器でお米をやわらかめに炊きます。皮のやわらかい雑穀(粟とかキビ)をまぜるとなおブラボー
硬い皮とか麦のまんなかの軸みたいな部分がある穀物も、圧力釜でふかせばおk
3.お米が炊けたら炊飯器を保温にして、炊けたお米と同じぐらいの体積の熱湯をそそいで粥状にまぜます。
4.3に全体の1/3量の麹をよくまぜます。ただし沸騰中の作業はダメで、70℃ぐらいがよろし
(炊飯器の保温は勝手に70℃ぐらいに設定されてるらしい)。
5.保温しつつ、一時間に一回ぐらい味見してみます。麹の種類とかお米や雑穀の加減によって、
3時間ぐらいで醗酵がおわったり半日以上かかったりいろいろみたいです。
やりすぎると酸っぱくなるので、コツをつかむまでは味見していろいろ試すのみ
コツをつかめば、朝しこんで放置しておけば帰宅時にできているようになるです。
6.完成 オリが浮いて泡のういたアルコール分1%以下のかんばしい液体がうはぁぁぅぁぃへはぁ(ry
ただし二十歳以下の人は、成長期にこのような栄養がたりないかもしれないお粥をたべていると
阿瞞少年のように大きくなれないので、このお粥を国内では口にしてはいけないでしょう。
レシピおわり△
640:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 09:09:27
大きくなれない阿瞞粥wwwwwwww
おまえら! 週末に一度は作ってうp祭だ!!!!
俺も早速酒麹を買(ry
641:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 09:59:14
酒麹も白米も雑穀もあるのに自分の年齢が足りなかったw身長は惜しいから自粛w
だれか作ったらどんな味だったか教え(ry
642:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 11:09:03
>>629
銅中毒になるよ!だから昔の皇帝は早死にしたのかな
643:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 12:23:40
>>618
うろおぼえでスマソ。綿棒じゃないや…orz
与平原書<其一>
一日案行、忸視曹公器物。牀薦席具、寒夏被七枚。
介幘如寞幘、平天冠蘚蓆冠具在。
嚴器方七八寸、高四寸餘、中無鬲、如寞小人嚴具寔。
刷膩處尚可識。擴批剔齒殲綖皆在。拭目乱絮二在。
垢垢僂目撃所沾洿。手衣臥籠挽蒲棋局書箱亦在。
奏案大小五枚書車。又作歧案、以臥視書。
扇如呉扇、要扇亦在。書箱想兄識牋高書箱、甚似之。
筆亦如寞筆、硯亦爾。書刀五枚。琉璃筆一枚、所希聞、
景初三年七月、劉婕妤析之。見此期、復使人悵然有感處。
器物皆素。今膣鄴宮大尺間。數前巳白其繐帳及望墓田處。
是厳河時臺上諸奇變無方。常欲問曹公。
使賊得上臺、而公但以變譎、因旋避之。
若焚台、當云何。此公似亦不能止。文昌殿北有閣道、去殿丈。
内中在東。殿東便屬陳留王、内不可得見也。
644:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 12:24:27
先日鄴宮を巡察し、曹公の遺品を見てきました。
寝台と敷物があり、冬夏用の寝衣が七枚ありました。
呉の頭巾と似たような文官用の頭巾もあり、冠も揃っていました。
化粧箱は七八寸の四角で高さは四寸余り、中に仕切りはなく
呉の人たちが使っているものと同じような造りです。
使い込まれて手垢が付いたり擦り減って所も目に付きます。
くしや爪楊枝、冠の被いなども全て揃っていました。
目を拭う黄色の綿入れが二つありました。
涙の汚れて黒ずんでしまっています。
手甲や竹製の寝台、挽蒲、碁盤、文箱もありました。
上奏文を載せる机が大小五つ。書籍を運ぶための車もあり、
書見台は横になって本を読めるようになっていました。
645:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 12:25:41
扇は呉のものと同じです。開閉が出来る腰にさす携帯用の扇もあります。
書を納める箱は兄上も見覚えのある牋高の書箱にとても似ています。
筆も硯も呉のものと同じです。書刀が五本、ガラス製の筆が一本あり、
小耳にはさんだ所では景初三年七月に劉婕妤が折ったそうです。
これを見るとその逸話に心打たれることうけあいです。
曹公の遺品はすべて質素なものでした。
この便で鄴宮の今尺の見取り図を送ります。
以前曹公が遺言した銅雀臺の斎場の事を申し上げましたが、
この臺の仕掛けは清河で見た臺とは比較になりません。
いつも曹公に質問したいと思っておりましたが、
賊を臺上に上がらせた時、公は賊を欺いて逃げておいででしたが、
臺を焼かれたらどうなさるおつもりだったのでしょう?
曹公の英知をもってしても火災だけは防げなかったのではないでしょうか。
文昌殿の北に高い渡り廊下が続いており、殿より一尺高いです。
東には後庭の室があり、陳留王のお住まいなので中を覗くことは出来ません。
646:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 12:26:18
与平原書<其二>
一日上三臺。曹公欟石豈數十萬斤。云燒此消復可用。
然煙中人不知。兄頗見之不。今膣二螺。
省曹公蠑事、天下多意長才、乃當爾。作幣屋向百年、于今正平意夷。
塘乃不可得壞、便以斧斫之耳。爾定以知、吏稱其職、民安其業也。
先日鄴城西の銅雀、金虎、冰井の三台に上りました。
曹公は冰井臺に石墨(石炭)を数十万斤も貯蔵していました。
これは焼いたものを消してから使うものだそうですが、
煙がものすごくて人の姿も見えないくらいです。
私は存じませんでしたが兄上は少しでもご覧になったことがありますか?
今二個を送ります。曹公の残した業績を省みると
才に長けていると世間の人達は申しますが、本当にその通りだと思います。
粗末な我が家は築百年で崩れ落ち、平らになってしまいました。
ところが曹公の堤は壊すことが不可能で斧で破るしかありません。
役人も人民も良い仕事をしていた事がよくわかります。
647:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 12:30:17
>>630-639
1さん大変乙であります!
実は『典論』<自敘>には続きがある。 『大平御覧』巻九十三
所著書、論、賦、凡六十篇。
至若智而能愚、勇而能怯、仁以接物、恕以及下、以付後之良史。
著した所の書、論、賦、およそ六十篇になる。
知的な事を言ったり、馬鹿な事を言ったり、
勇ましい事を言ったかと思えば、怯えて物を言っている事もある。
仁愛で万物に接し、思いやりが民に及んだ部分もあるだろう。
批評は後世の史家に託す事とする。
わざと切られたのか?あるのとないのでは印象が違っ!
漢籍読んでると酔いませんか?みなさんどうですか?
どうせ酔うなら酒の方が…
648:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 12:53:01
>>647
自分が読んだ典論自叙(平凡社『漢魏晋六朝散文集』)にはその部分も載ってた。
文献によって差があるのかな?
649:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 12:53:50
裴松之ヒデェw
650:649
07/02/24 13:02:31
>>648氏の「漢魏~」は>>630-639の正史に
>>647の太平御覧を補足したもの
裴松之がうっかり最後の一行忘れたのかも知れんがヒデェw
>>640
ちょwそれドブロk(ry
…いやドブロクじゃねーな。1%以外なら法律問題無しだもんw
阿瞞が言うんだから間違い無く1%以下だなァwww
でも20歳以下は(ry
651:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 13:06:16
阿瞞(・∀・)うそつかない!
652:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 15:28:43
>>651の才能に嫉妬
653:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 15:40:16
>>643-646
うわーすごいものアップしてくれてありがとう!
陸雲の情景描写すげー! なんか目に浮かぶようだ・・
曹操は質素だね。曹操のガラスの筆折られたとか変な逸話残されてて笑えるww
陸機はこんな手紙読んでさぞかしwktkしたことだろう・・
654:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 15:41:08
で、陸雲たんは結局何をパクったんだろう(・∀・)
655:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 15:52:18
>>642
まじか!
中国の土産物屋でこういうの買って
時々ニヤニヤしながら飲んでいる
やはり置物として生きてもらうか・・・
656:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 16:19:05
1さん、今回もうpご苦労様です!!
>>630-638
待ってましたー!サトウキビで一騎討ちに目がいきがちだけど、
自分で語る小さい頃の様子や剣術、狩り、父の事が分かりますね。
何気に九死に一生を経験している…
>>647>>648
しかし、「批評は後世の史家に託す事とする」と書いてあるからって
最後を切るのは…確かに印象が全然違うっ!
現に妻殺し、弟苛めなどの悪い印象が先行してしまっているとは
曹丕も思っていなかっただろうなあ…
>>639
レジピをありがとうです!買い物をしに行くのが面倒なので作るのはまた今度(ry
>>643-646
微笑ましい手紙だな~これを読むと曹操様の生活を妄想する
陸機のような気持ちになるw
657:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 16:56:06
>>654
墨だな。今書道で使う墨と違って石炭の煤で書いていたらしい。
『水經注』巻十に「石墨は書す可し。又これを燃せば盡き難し。
亦たこれを石炭と謂う」とある。
658:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 17:28:17
>>629
それ何故かうちのベランダに放置されてる…
659:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 18:10:16
沖縄県民の俺に云わせりゃ
青い砂糖黍をかじれるのはゴリラだぜ
堅いの何の
660:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 22:42:47
曹丕…面白皇帝すぎるwwwww
いちいち得意げな所がたまんねwwww
661:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 23:05:54
弓とか全く出来なさそうなジュンイクに萌えたw
662:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 00:57:44
よく劉備や魯粛は正史読むとイメージ変わるていうけど
曹丕は文学作品まで読まないと変わらないね
埋もれた面白皇帝!
663:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 03:16:48
曹植がちーちゃんなら曹丕はぴーちゃん?
664:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 04:38:23
>>自叙
一人称が「余」だと皇帝みたいだなw
実際皇帝なんだがww
665:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 09:10:21
余だと皇帝じゃない
皇帝の一人称は朕
666:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 09:18:03
曹丕は自叙書いたときまだ皇帝ではなかったんだが……
667:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 10:08:19
まじ?典論自叙は何時頃書いた物なの?
668:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 11:27:07
うp祭まとめw
>465 >490 >558-559 >566-567 九ウン酒法(曹操)
>491 >499 列異傳 ネズミ(曹丕)
>518 曹操の幽霊
>521 列異傳 蒋済(曹丕)
>528-529 孔融与魏武帝禁酒書
>538 >540 美女の幽霊と鍾ヨウ
>612 廓落帯
>622-623 魏文帝與鍾大理書
>630-638 典論自叙
669:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 12:18:35
>>668GJ!!ゆっくり楽しもう('∀`)
>>636
>わが君(曹丕)は左右にスイッチして 弓を射ることが上手くあられるそうですが
「やつはきっと黄巾賊のスパイにちがいない」みたいだなw
670:補足
07/02/25 12:20:48
>>643-646 与平原書
>>647 典論自敘
671:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 13:06:46
>>663
ぴぃ様(;´Д`)ハァハァ
672:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 13:31:51
,
曹 cao
_
操 cao
_
丕 pi
,
植 zhi
、
叡 rui
現代中国語ならこれでおk
673:1(ry
07/02/25 15:51:11
>>647
#典論自叙
Thxです!! うあー続きがあるんですねorz orz orz
>>650さんのように、魏書のは裴松之がさいごの一文をうっかり忘れたんでしょうかorz
それにしてもイメージがちがいすぎwひでーw
>>669
済みません、てけとーに「わが君」と直訳してしまいますたが、ここで荀彧は
献帝の使者として訪れているので、「聞君善左右射」の「君」は「若殿」みたいな感じですおね。
自分は弓道とかぜんぜんわからないので、「矢をつがえる手を左右でスイッチできた(スイッチヒッター風)」のか、
「自身の左右どちらにでも矢を射ることができた(広角打者風)」なのかはよく分からなかったですorz
曹丕は剣道も二刀流だし、器用すね。スイッチヒッターで広角打者というとセギノールうゎごめんな何をあqws(ry
サトウキビは南方の作物なので、当時はけっこう高級品ですおね…
台湾では皮をむいたスティック状のが道ばたで売っていますが、>>659さんのとおり、
よほどアゴが頑丈でないとぜったいかじれないです。曹丕はアゴが丈夫だったのかー。
>>643
Thxです!! SUGEEEeeee!!
そいでは自分も陸雲与兄平原書其三をうpしてみます(文津出版社の陸清河集より)。
「近日復案行曹公器物、取其剔歯殲一箇、今以送兄。」
「近日復(また)曹公の器物を案行(あんこう)し、其の剔歯殲の一箇を取り、今以って兄に送る。」
「さいきんまた曹公のものを調べてまわり、くしや爪楊枝、冠の被いをひとつずつひろったので、
いまこれを兄上にお送りいたします。」
自分は長いあいだ「剔歯殲」を「曹操の虫歯でとれた歯」だと思ってガクブr(ry orz orz orz
674:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 16:30:28
そうか
ぴぃ様 = セギノールか!
うわあああああぁぁぁぁぁ
675:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 16:46:24
>>674
あー、バナナ好きそうだよな。
676:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 16:49:03
>>488の何処がセギノールだ何処がwwwwww
677:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 16:49:48
>>673
現代人の感覚でアゴの強さ考えちゃダメでしょ
古代の連中は食い物が固いし糒とか平気で戻さず食ってたみたいだし
幼少期の曹丕は曹操の苦難を見てれば食うや食わずの日もあっただろうし
木の皮とかも食った経験あるんじゃないかな
葛食った感想文残ってるし食える野草とか調べてたんじゃない?
サトウキビくらい余裕余裕
678:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 16:54:51
うむ、セギノールなら砂糖稷程度バリボリと噛み砕く。
679:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 16:56:03
>>677
なるほど、幼少の頃の苦しみの影響であんなグルメ皇帝に…
680:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 17:04:20
【フルーツ】甘いもの食って遊ぼうぜOFF【スィーツ】
1 名前:面白皇帝@お腹せっぷく[sage] 投稿日:224/02/24(庚申)
珍しいもの、おいしいものを持ち寄って
詩でもうたいながらサトウキビでチャンバラでもしませんか。
二次会は怖い話ナイトを予定しています。
主催者は中原人なので、辺境からの珍しいネタは大歓迎です。
詳しくはこちらのブログにて
URLリンク(ameblo.gi)
681:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 17:07:13
>>680
きれいなガラスのおはじきセットと田舎の名物とうきびチョコ持参で行きてええええ
682:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 17:09:30
>>679
よっぽど特殊な家庭環境でなければ基本的に食い物に拘る奴は食い物で苦労した奴だよ
683:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 17:12:51
>>682に追記すると幼少期にゲームとかマンガを禁止された奴は
大人になって金を持ち始めるとタガが外れてヤバイ量のコレクションとか始める
飢餓感を一度覚えると終生それを追い求めるようになってしまうのが人間の習性
684:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 17:16:55
あーそういや私事ですまんが戦中戦後のどさくさで食い物に苦労したうちの親父
はやたらグルメで、そのグルメ親父にあっちこっち連れ回されて小さい頃から美味い
モン食いつけてた私は逆に大抵のものは美味い美味いって食える大変適当な舌に
育ったな…。
そしてファミコン買って貰えない派だったんで高校入ってバイト始めて以来すっかり
ゲーオタになった…
確かにそういう面はあるな。
685:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 17:17:36
>>680
ちょwww芸が細かいww
皇帝に喜ばれる美味しいものをこれから探しに行くわ!
686:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 17:20:45
>>673
結局陸雲たんがかっぱらったものは
曹操の石墨
曹操のくし
曹操の爪楊枝
曹操の冠の被い
の四点ですね!
ミーハー心は1700年前も現在と大して変わらないようだ。
しかし陸雲たんは兄思いなよい子(*´∀`)
687:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 17:23:14
>>683
十歳になるかならないかのうちから戦場に従軍して
思春期の頃には曹操の跡継ぎとして学問に励み身を慎み・・・
その反動で大人になっても怪談や弾棊にはまってたのか
何となく納得だ
688:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 17:29:54
ボリス・ヴィアンの「うたかたの日々」に出てくる、シックのような奴だ>陸機
689:1(ry
07/02/25 17:30:25
>>677,>>682-
なるほどー、三世紀のひとはアゴが頑丈なのがデフォなのですね。たしかに。
自分は生サトウキビかじって奥歯が欠けますたが……orz orz orz
国民の登記数が1/10ぐらにい減るような(ほんとうにへったのか登記がへっただけか知らないのですが)
乱世にそだったら、アゴも丈夫になるし食べ物にも執念がめばえますおね……
>>680
ひぇー、超行きたいような超怖いようなw
しかし、>>672さんとくらべると、曹の字の表記はcao とtsao とあるのですねー。
ツァオインペリアルブログ読みたいw
>>686
曹操の抜けた歯じゃなくてよかったです……>>643さんthxであります!
陸雲たんが兄さんにだした大量の手紙は、そりはもう可憐でありますおね
(ほかの修辞がおもいつかなくて済みませんorz)
690:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 17:32:43
そういう側面で曹丕を見ると文学への傾倒は(あくまでも曹植に比してだけど)文才に優れなかった曹丕の飢餓感の現れという見方も出来る
逆に天才である曹植が詩吟をどうでもいい、それより国政したいということは日常に己の文才が存在し
文才がある事が普通であったが故の文学の軽視だと考えることもできる
飢餓感を持った対象にどこまでも貪欲になるように意図して得ようとしなかった己の才能に対して人はかなり軽んじる傾向があるのもまた事実
要するに自慢は劣等感の裏返しということだな
曹丕の多芸、面白趣味は何か巨大な劣等感の穴埋めに見える
691:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 17:33:13
>>683
となると、曹叡の建築しまくりな部分も…
692:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 17:33:39
>>668&670
乙です!そして早っ!
『与平原書』は文字鏡を使った部分が化けてるんで直します。
ふかくおわびしますです。お手数かけてすいません
『与平原書』<其一>
一日案行、并視曹公器物。牀薦席具、寒夏被七枚。
介幘如呉幘、平天冠遠遊冠具在。
嚴器方七八寸、高四寸餘、中無鬲、如呉小人嚴具寔。
刷膩處尚可識。☐批剔齒殲綖皆在。拭目黄絮二在。
垢垢黒目涙所沾洿。手衣臥籠挽蒲棋局書箱亦在。
奏案大小五枚書車。又作歧案、以臥視書。
扇如呉扇、要扇亦在。書箱想兄識牋高書箱、甚似之。
筆亦如寞筆、硯亦爾。書刀五枚。琉璃筆一枚、所希聞、
景初三年七月、劉婕妤析之。見此期、復使人悵然有感處。
器物皆素。今送鄴宮大尺間。數前巳白其繐帳及望墓田處。
是清河時臺上諸奇變無方。常欲問曹公。
使賊得上臺、而公但以變譎、因旋避之。
若焚台、當云何。此公似亦不能止。文昌殿北有閣道、去殿丈。
内中在東。殿東便屬陳留王、内不可得見也。
693:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 17:35:14
『与平原書』<其二>
一日上三臺。曹公蔵石墨數十萬斤。云燒此消復可用。
然煙中人不知。兄頗見之不。今送二螺。
省曹公蠑事、天下多意長才、乃當爾。作幣屋向百年、于今正平意夷。
塘乃不可得壞、便以斧斫之耳。爾定以知、吏稱其職、民安其業也。
四部叢刊本『陸士龍文集』を底本に
嚴可均『全晉文』中華書局
『陸機文集 陸雲文集』上海社会科学院出版社を参照
>>673
『四庫全書総目提要』に「當時所傳之本、巳有異同。」とある程
当時からすでに写本によって違ってたんですねー乙です!!
694:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 17:41:52
>>691
それは違うぞ
曹丕、曹叡の代にようやっと屯田が軌道に乗って魏帝国の国庫は潤ってたという話しがある
税金は農奴階級以外は物凄い安かったそうで一説によると収入の5%程度でよかったという話しだ
現代日本よりも安い
曹叡はその金で前王朝末期に放置されて荒れたインフラを整備して建築に力を入れていたという側面もある
戦争準備としての街道、運河の整備にも力を入れていたが陳寿はそれを華麗にスルーして三国志を書いている
そもそもインフラ整備という観念が無かったんじゃないかな
また蜀という国家で生まれ育った陳さんの観念だと、インフラ整備してる余裕があったら軍備だろ!的なところもあるかもしれん
現代日本だと悪の権化の如く言われてる公共工事だが、これはとても大事なものだよ
曹丕は文化事業で乱世の終結を、曹叡は公共事業で生活の充実を、と似たもの親子で頭いいよこいつら
695:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 17:50:38
>>690
魏文之才、洋洋清綺、舊談抑之、謂去植千里。
然子建思捷而才儁、詩麗而表逸。子桓慮詳而力緩、故不競於先鳴、
而樂府清越、典論辯要、迭用短長、亦無?焉。但俗情抑揚、雷同一響、
遂令文帝以位尊減才、思王以勢窘益價、未為篤論也。
『文心雕龍』卷十/才略 第四十七/第三段/第一節
魏の文帝の才能は、ゆったりとして清らかで美しい。
昔からこの評価は抑えられ、弟の曹植とは千里の差があるという。
曹植は敏捷で才能にすぐれ、詩も麗しく上表文も群を抜く。
曹丕は思慮深いが気力が弱いので、先陣を切り名乗りを上げ競う事が出来なかった。
曹丕の楽譜は調子が高く澄んでいて、典論は要を得ている。
二人の長所と短所を考慮しなければ、明らかに出来ない。
ただ世間一般では、二人を褒めたり貶したり、誰かの一言をよく考えもせずただ鵜呑みにする。
文帝は位が高いので才能を過小評価され、曹植は差し迫った境遇から
評判を増したのである。これは行き届いた議論とは言えない。
※典論→『文心雕龍(ぶんしんちょうりゅう)』の著者である劉勰(りゅうきょう)は序志篇第四段で、
「典論は綿密ではあるが論説の対象が部分的に限られており、曹植の書簡は能弁である
が的外れ」と言っている。
696:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 17:51:31
鐘嶸は『詩品』の中で曹丕を評してこう言っている。
其源出於李陵、頗有仲宣之體則。新奇百許篇、率皆鄙直如偶語。
唯西北有浮雲十餘首、殊美瞻可玩、始見其工矣。
不然、何以銓衡郡彦、對揚厥弟者耶。
その源は李陵より出て、非常に王粲の体則が有る。
新奇な百篇の詩は、ほとんどが卑俗で会話のようである。
ただそのうちの十首ほどは、特に美しく豊かで鑑賞出来、
始めてその巧さが見える。
でなければどうして多くの優れた人を測ったり、
その弟に、君命に応えその意を天下に表明させる事が出来るだろうか。
697:1(ry
07/02/25 17:53:26
>>690-691,>>694
そうですおね。曹叡たんの政策の話はなぜかいつもあれてしまうのでorz
また別のところで……と思いますが(済みませんorz)、
曹丕の典論は(ひつこくて済みませんorz)、自分には曹丕が自身の名をのこして
存在をあきらかなものにするための、文学による中原のレコンキスタに思えます。
>>692-693
Thxであります!!(`;ω;´)ゝ
>『陸機文集 陸雲文集』上海社会科学院出版社
うひー、↑これ読んでみたいですww
文津出版社の陸清河集は、ページにでかい穴がいっぱい(ry orz orz orz
>>695
うあーい文心雕龍だ! Thxであります!!
陸雲たんが典論についてかいている文章もありましたおね(記憶ちがいだったら済みません……orz)
698:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 17:56:16
>>695
うわー
今でも、この兄弟に限らなくても、通じる話だな
699:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 17:56:22
>>694
いわゆる“蕭何の大略”ってやつですね。
700:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 18:01:42
>文学による中原のレコンキスタ
「このスレを見ていて良かった」と、今思った。
701:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 18:08:40
>>695
こう言う文章を著す必要がある程に当時の評価は曹植>>>>>>>>>>>>>>>曹丕だったわけだよね
702:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 18:13:21
今でもそんなもんじゃね?1スレの頃は
まさか曹丕好きがこんなに集まると思わなかったもんw
703:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 18:22:38
>>695
この評は的を得ているな…
704:1(ry
07/02/25 18:28:21
>>686
あれーすまんです。>>692さんをみてみたら、やっぱ違うかもorz
>>644さんの「くしや爪楊枝、冠の被いなども全て揃っていました。」
は、「☐批剔齒殲綖皆在」をどう訓読したのでせうかorz orz orz
>>673の「其の剔歯殲の一箇を取り」の「剔歯殲」がわかってないですorz orz orz
低レベルな話ですみません……orz orz orz
705:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 18:40:34
>>690と>>288は同じ事を違う角度で捉えた面だね。
典論は「文学による中原のレコンキスタ」つまり
曹操が武で制圧し曹植が武で継ごうとした魏の
曹丕の文による再征服と支配の象徴だと考えられる。
文学に唯一の解は無い。しかしこれは美しい一つの解だね。
706:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 18:52:53
一方では肉の食い方もメモってるけどなw
707:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 18:59:57
その多面性がたまらんのよ
708:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 19:06:08
>>704
「剔歯殲」は“爪楊枝”だそうですぜ
大漢和さんがそう仰ってます
低レベルどころか!当時は誰でも知ってるわざわざ書き記す必要ない言葉が
現在は使われてないとなると、全くわからんですもん
709:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 19:08:20
食べかすとか根こそぎえぐり尽くしちゃうよ!ってことなんだろうな。
なんか名前だけ見ると痛そうw
710:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 19:10:01
>>708
じゃあ陸雲は墨とツマヨウジをパクったんだねw
711:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 19:12:08
曹操の歯(>>673)じゃなくてヨカタwww
712:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 19:13:30
黄初五年(224)夏侯尚の愛妾を、曹丕が人をやって絞殺させたという事件が起こる。夏侯尚の正妻は曹操の娘、徳陽郷主
愛妾を殺されたことで夏侯尚は悲しみのあまり気がふれ、翌年病気で亡くなってしまう。
埋葬した愛妾の遺体を掘り起こして顔を見る、と言う程の執着ぶりだった
それを聞き及んだ曹丕は「杜襲が彼を軽蔑するのも最もな事だ」と激怒。
それでも曹丕は夏侯尚が重態に陥ると、彼の邸へ何度も見舞っている
『三国志』〔夏侯尚伝〕裴注『魏書』曹丕の詔
尚自少侍從 盡誠竭節 雖云異姓 其猶骨肉 是以入為腹心 出當爪牙。
智略深敏 謀謨過人 不幸早殞 命也奈何。贈征南大將軍﹑昌陵侯印綬。
(前略)知略は深遠俊敏、策謀は人より優れていたのに、不幸にも早死にした。運命はどうにもならない。(後略)
..... アナタ、コレ運命イイマスカ?ヒドイヒトネ。
※夏侯尚は夏侯淵の従子。夏侯玄は息子。
※杜襲は曹丕に「夏侯尚は人に益を与える友人ではない」と言上〔杜襲伝〕
※夏侯尚の娘の徽は司馬師の妻。司馬懿は彼女を青龍二年に毒殺している〔晋書夏侯皇后伝〕
713:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 19:23:56
>>701が嫁に飯作ったから食えとせっつかれてて一行レスになってすまん
俺が言いたかったことは当時の評価が曹植>曹丕で
曹丕もまたそう評価していたのではないかってこと
俺自身は曹丕の詩、文章の方が思考が現代的で大好きなんだが
曹植に負けていると曹丕自身も思っているからこその>>690の劣等感で、また文学サロンの推奨
文芸復興ということでの穴埋めに繋がるんじゃなかろうかってことで
714:1(ry
07/02/25 19:46:31
>>705
自分が勝手におもっているだけですが……チョット ウレシイ
>>708-711
Thxであります!! ひー、「剔歯殲」=ツマヨウジなのですね。
大漢和さんは図書館にいかないといらっしゃらず……(ry orz orz orz
そいでは>>673は、
「さいきんまた曹公のものを調べてまわり、ツマヨウジを一本ひろったので、
いまこれを兄上にお送りいたします。」
ですorz。歯じゃなくて良かったです。私事ですが、5年ぐらい歯をひろったんだと信じて(ry orz orz orz
>>712
曹丕がろくでもないようにみえることをいっぱいやっているのも、また事実なんですおね。
自分はそのへんの政治背景が複雑すぎて、よくわかっていないですorz。
>>713
曹丕自身が孔融の(その内容ではなく)文章そのものをあれだけ評価していたように、
曹植たんの詩賦には(曹丕とどっちがいいというのではなくて)、
あざやかで生き生きとした、曹丕にはない天賦の美しさがありますおね。
曹丕は自身で弟の文章の価値をしっていたからこそ
(だから逆に、自身の文章で曹植たんよりすぐれている面も大きいを客観的にしっていて
「而文非一体、鮮能備善」「至於引気不斉、巧拙有素、雖在父兄、不能以移子弟」としたとおもうですが)、
「曹植はライバル!」みたいに思ったのではないでせうかと思うですー。
サロンにあつめた人の文章の価値を、曹丕はよくわかっていたのですね。
このへんはほんとうに、誰がなんといおうとマンガをかいた昭和のマンガ家さんみたいだと思うですー。
715:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 19:57:45
>>708
>>714
大漢和さんは偉いなあw
一応国文出だけどとても揃えられね_| ̄|○
716:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 20:00:12
>>712
さすがにこれはフォローの仕様が無い。
だが、曹丕が評価されるのが気に入らないので水を差したとしか思えないのだが。
717:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 20:04:59
>>714
なるほど
多様性の価値を知っていたということですか
そうすると曹丕という人がますます現代的な思考、価値観の持ち主に見えてきますな
718:1(ry
07/02/25 20:17:14
>>712,>>716
水をさしたなんてことはないですおね……
曹丕もいろんなことをやらないと、三世紀の為政はできないですおね。
ただ、悪いようにみえる記述の理由を個人的な性質にもとめるのはかんたんですが、
そうするとその行動にいたった歴史的な背景がみえづらいですおね……
「曹丕がひねくれた悪いヤシで」とするのはかんたんですが、
そうすると本当はなにがあったのかが見えづらいですおね。
ただ、このへんは文学方面から追っていくのが難しいので、
黒ジュンイクスレむきかも……
719:1(ry
07/02/25 20:25:16
>>717
自分は典論論文ではそう言っているように理解しますた(が、読解力があやしいです)orz
でも、くだものは甘味至上主義のようですおねw
720:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 20:31:10
好きかな好きかな
素朴なギモン。
陸雲は何故曹操の爪楊枝だと分かった?!
夏侯惇のだったらどうするんだw
721:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 20:34:02
名前が書いてあったんじゃねww
722:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 20:40:17
曹丕の雑詩二首でも翻訳しようと思って原文探してたら先達のスレがありんした
URLリンク(curry.2ch.net)
今はライターとして三戦板にゃ滅多に来ない地雷魚さんが翻訳してたんでそのままアドレス張っときます
ちなみに雑詩の一つはそのスレの87でごんす
723:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 20:40:33
当時のツマヨウジは使い捨てじゃなくて携帯していたってことか。
てか使用済みのツマヨウジをパクるってどんだけヲタなんだと(ry
724:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 20:46:25
爪楊枝に小さく 操 と書いてあったんだよw
725:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 20:52:41
>>723
爪楊枝が使い捨てになったのは昭和に入ってからですぜ
昔の爪楊枝は高級品の場合金銀で出来てたり装飾してあったりで
今の人がイメージするような使い捨て爪楊枝とは違うわけであります
726:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 20:59:28
>>725
ほうー!!トリビア。
>>644の目を拭う綿入れというのはアイマスク?
727:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 21:07:52
>>722
曹丕の雑詩二首に興味あるので
是非このスレにもうpしてくだされぇ!
728:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 21:13:56
つまようじ話
URLリンク(www.cleardent.co.jp)
こんなサイト見つけた。
爪楊枝を最初に使ったのは10万年前のネアンデルタール人だそうだ。すげー!
古代中国でどのような形状の爪楊枝を使ってたかはわからないけれど、
なんとなく予想で
URLリンク(www.cleardent.co.jp)
こんなのだったんじゃないかな。
729:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 21:15:22
URLリンク(www.cleardent.co.jp)
エゲレス人は頭がおかしい
象牙や鼈甲を楊枝にしとる…
お前ら象さんや亀さんを何だと思ってるんだ!
URLリンク(www.dent-kng.or.jp)
ここに中国古代(周代?)の爪楊枝の写真があった
こりゃパクっちゃったらマズくないか?!
730:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 21:27:23
>>729
なんだこの立派な爪楊枝!!!
そういや曹操は首から小さな袋(ポシェット?)ぶらさげてたんだよね。
その中にこれを入れてたのかも知れない
731:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 21:34:31
>>726
うん。黄色の綿入れで作った目鬘(直訳で目の衣?)
目の部分を切り抜いて顔面の上部を覆う装身具だそうだ
何だソレ
>>728-729
sugeeeeeeeeee
『与平原書』<其二>
一日三たび臺に上る。曹公は石墨數十萬斤を蔵す。
此れを燒き消し復た用う可しと云う。
然れども煙中人知らず。兄頗る之を見しや不や。今二螺を送る。
曹公の遺事を省みて、天下多く長才を意うは、乃ち當に爾るべし。
幣屋を作るや百年に向なんとすれば、今に于て正に平夷なり。
塘は乃ち壞るを得可からず、便ち斧を以て之を斫らん耳。
爾れ定めて以て吏其の職に稱ひ、民其の業に安んずるを知らしむ也。
732:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 21:36:06
『与平原書』<其一>
一日案行し、并せて曹公の器物を視る。牀薦や席具、寒夏の被七枚あり。
介幘は呉幘の如し、平天冠、遠遊冠具に在り。
嚴器は方七八寸、高さ四寸餘、中に鬲無く、呉の小人の嚴具の状の如し。
刷膩の處尚ほ識る可し。蹀批、剔齒[殲]、殲綖皆在り。拭目の黄絮二つ在り。
垢[垢]黒は目涙の沾洿する所なり。手衣、臥籠、挽蒲、棋局、書箱も亦た在り。
奏案大小五枚あり。書車にも又歧案を作り、以て臥して書を視る。
扇は呉扇の如し、要扇も亦た在り。書箱は想ふに兄の識も彦高の書箱を識らん、甚だ之に似たり。
筆も亦た呉の筆の如し、硯も亦た爾り。書刀五枚。琉璃筆一枚あり、希聞するところ、
景初三年七月、劉婕妤之を折ると。此を見れば復た人をして悵然として感ずる處有らしむるを期す。
器物皆素なり。今鄴宮の大尺の間數を送る。前に巳に其の繐帳及び墓田を望む處を白せしも、
是れ清河の時の臺上の諸奇變も方ぶる無し。常に曹公に問わんと欲す。
賊をして臺に上るを得しめ、而も公は但だ變譎を以て、因りて之を旋避せしも
若し台を焚かるれば當に云何すべし。此れ公も亦た止むる能はざるに似たりと。
文昌殿の北に閣道有り。殿を去ること丈。
内中は東に在り。殿東便ち陳留王に屬す、内は見るを得可からざるなり。
733:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 21:51:19
>>692 >>732 訂正
☐批剔齒[殲]纖綖皆在
☐は同じ意味の漢字を当てた。[]は本により異同あり
纖綖は黒の縦糸、白の横糸で織った冠上を覆う布
蹀批は髪を止めるかんざしみたいな櫛
734:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 22:03:15
既にこのスレ、文学スレってより三国時代の文化史スレと化してるな…
735:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 22:09:42
文学から、書簡や令といった「当時にまつわる文章」に広がってきているからな
大変に面白いから大変に結構だ
736:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 22:11:11
>>734
勉強になって凄く有り難い。
文学と文化は切って離せないものだし、学術的な話なら何でも包括していいんじゃないかな
737:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 22:12:51
曹操の側室達の、眉毛つながり化粧が気になってしょうがないんだが
なんかその辺の文章って残ってないのかな?
もし知ってる人がいたら教えてケロ
738:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 22:30:38
また楊枝ネタですまんのだが、呉の高栄という人物の墓から金の爪楊枝が出土したそうだ
爪楊枝は副葬品として一般的になるほど生活に溶け込んでたんだな
739:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 22:42:47
しかしそれをパクる陸雲スゴスw
いいのかよww
740:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 23:05:16
だから処刑されたんじゃね?
741:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 23:12:35
>>714
>誰がなんといおうとマンガをかいた昭和のマンガ家さん
マンガなんて、つい最近まで(アメリカじゃ今も)子供の見る遊びだったもんね。
742:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 23:22:01
どーでもいいが、>>714、研究者以外で大漢和さんが家にいらっしゃる人は少ないとオモw
743:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 23:28:23
俺は>>673の曹丕が、
広角打法なのかスイッチヒッターなのか知りたい!!
多村と金城じゃ偉い違いだぜ
744:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 23:33:21
董卓の例もあるしスイッチでしょう
745:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 23:34:27
>>742
ただの公務員だが大漢和ならあるよ
パイレーツ版だが
746:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 23:36:31
>>743
っ【セギノール】
>>744
董卓の例ってなんじゃらほい?教えてホシス!
747:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 23:56:23
>>742
漢語大詞典さんや大字典さんはさすがに研究者だけと思うが
大漢和さんなら少ないけどわりといらっしゃいますですよ
748:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 23:58:33
ただの税理士だが大字典が版違いで2冊あるな
うちのオヤジとジジイが趣味で1冊づつ買ってた
俺も知らないで買おうとしたらオヤジが「俺の貸してやる」って言うんで借りて使ってる
749:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 00:22:29
陸機も陸雲も兄弟揃ってネ申オタなのかねえ・・・w
750:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 00:52:09
>>731-733
乙乙!
書き下し付きだと分かりやすいね~。
UPしてくれる示申によって訓や訳に個性があるのも楽しみですよ。
751:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 01:29:58
そんなに身の回りのものを持って帰ってくる陸機や陸雲は、
十分にネ申によって感化されていると言える。
752:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 01:37:49
>>749
兄貴に付き合わされてるだけだったら気の毒だなww
見てきたことをちゃんと報告しないと兄貴キレるとか。
でもいちいち火事の心配までしてて小一時間ネ申を問いつめたくなってるし、
兄弟そろってネ申オタなんだろうな。
753:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 08:37:02
きっとアイドルの追っかけのようなミーハーっぷりを見せたんだろうな。
微笑ましい兄弟だw
754:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 11:37:30
いくらなんでも聖王である曹操の遺品を一般公開し過ぎじゃないか?
しかもパクれるってことは手に取れる状態での陳列ってこったろう?
晋朝にとっても受命の君である曹操を何だと思ってるんだろうかねぇ
全くもってけしからん話だ、王朝も、ミーハー兄弟も
755:まとめサイト ◆XoQX5vgfQU
07/02/26 11:46:53
URLリンク(www.geocities.jp)
ここまでUP
756:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 11:48:50
そんなことばっかりやってるから悪目立ちして族滅くらうんだよ!
757:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 11:54:52
遷都で引越したときに不要な物を置いていったんじゃね?
758:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 12:21:39
>>746
董卓さんも
「雙帶兩[革建] 、左右馳射」
弓袋を組にして両側に帯びて左右に射を馳せた言われてるし
「左右に撃つ」とは広角射撃でなくスイッチ射撃だと予測されるのです
759:1@がんばれベイ(ry
07/02/26 12:43:54
>>755
まとめさんいつも乙であります彡 ´ー`)
>>743,>>746,>>758
#スイッチ
なるほどー! じゃあバナナつながりで曹丕=金城(´金`)(ry
>>754,>>756-757
#ギョウ城
>>757さんのとおり、黄初年間にギョウから洛陽に遷都したときに、
いらないものを放置していったのではないでせうか?
陸機たんのときは放置されて百年ちかくたっているので、時効でひろった人のものってことで(ry
そのあと唐になって、岑参の「古きギョウ城に登る」のころになると、
もうギョウのお城は廃墟(鬼火つき)になってしまっているのですねー。いまはどんなところなんだろう……
760:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 15:33:18
でもネ申の遺品がいらないものとかどうなん!
あーもったいないもったいない…
761:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 15:58:41
ネ申オタにはお宝グッヅでも、
家族や家臣は曹操の古いアイマスク・使いかけの墨など
引越しにわざわざ持ってかないんじゃまいかw
762:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 16:01:25
雑詩 孔融
遠送新行客 歳暮乃來歸 遠くへ新行の客を送り 歳暮乃ち歸(かえ)り來(きた)る
入門望愛子 妻妾向人悲 門に入り愛子を望むに 妻妾(さいしょう)は人に向き悲しむ
聞子不可見 日已潛光輝 聞くに子に見(まみ)えるべからざる 日は已(すで)に光輝を潛(ひそ)む
孤墳在西北 常念君來遲 孤(ひと)り西北に墳(はか)在り 常に君の來る遲(おそ)きを念(ねん)ず
褰裳上墟丘 但見蒿與薇 褰裳(けんしょう)して墟丘に上り 但(ただ)蒿(こう)と薇(び)を見る
白骨歸黄泉 肌體乘塵飛 白骨は黄泉に歸(き)し 肌體(きたい)は塵に乘じ飛びゆく
生時不識父 死後知我誰 生時に父を識(し)らず 死後に我の誰なるを知らず
孤魂遊窮暮 飄搖安所依 孤(ひと)り魂は窮暮に遊(すさ)び 飄搖(ひょうよう)とし安(いずく)んぞ依る所あるか
人生圖嗣息 爾死我念追 人生は嗣息を圖(はか)るも 爾(なんじ)死して我は念(おも)い追う
俯仰内傷心 不覺涙沾衣 俯仰の内にも傷心し 涙が衣に沾(しお)ることも覺えず
人生自有命 但恨生日稀 人生は自ずから命有り 但生日が稀なることを恨む
763:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 16:02:07
新たに遠く旅立つ人を送り 歳も暮れる頃になってようやく帰宅した
門に入って我が子に会おうとすると 妻妾達が私に向かって悲しそうに何かを言ってきた
怪訝に思って聞くと「子供に見える事は出来ません 日は既に没してしまったのです
子供の墓は西北に寂しくポツンとあり 貴方様のお帰りが遅い事を無念に思っています」
慌てて衣服を捲り上げ*1墓のある丘に登ったが そこにはただ野草が生えた墓*2があるのみであった
骨は黄泉へと帰り 肉は塵となりどこかへ飛び去ってしまった
生きている間に父親を知らない我が子が 死んでからも自分が誰の子であるのか知る事ができようか(いや、できるわけがない)
魂だけがその人生が終わってもなお漂い 風に揺られどこに寄る辺があるのだろうか(我が子の魂は未来永劫彷徨い救われないのだろうか)
人は後継ぎを得ることを願うものだが 私はお前が死んだことを思い出す
ほんの一瞬でも心の傷が疼くと 知らない間に涙が流れ出し衣服を濡らしている
人には天より与えられた命というものがあり(別れるのもまた天の定めた運命であるとは言え)
お前の生きていた日々が余りにも短かった事を私は悔やまずにはいられない
1 恐らく知人の見送りは乗り物(馬車か?)で行ったのだろう
乗馬しない場合、中華民族の衣装は走るのに向いていないので衣服の垂れた部分を捲り上げて慌てて墓まで全力ダッシュしたと思われる
2 蒿里は葬式の音楽を指している
息子の墓にあった「蒿」はそれに掛けているものと思われる
訳も註釈も書き下し文もかなり適当というか俺流なのでツッコミ大歓迎
764:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 16:05:05
註釈の1の部分、乗馬しない場合→乗馬衣装でない場合に変更
765:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 19:08:57
孔融って子供いなかったんだっけ?家途絶えたんだよね。
766:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 20:09:35
ギョウって今の何省?
767:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 20:43:49
>>673 1さんのつづきです
『与平原書』其三十
近日復案行曹公器物。取其剔歯殲一箇、今以送見兄。
于道有古方泉、其銘如此。不審兄頗曾見此書種稷不。
近因魯引以問秘書中。謹啓
近日復た曹公の器物を案行す。其の剔歯殲(てきしせん)を一箇取り、
今送りて以て兄に見(しめ)す。道に古方泉有り、其の銘此の如し。
兄頗る曾(かつ)て此の書の稷を種うを見しや不やを審(つまびらか)にせず。
近頃魯引に因りて以て秘書中に問ふ。謹啓
最近また曹行の器物を巡察して、その爪楊枝を一本貰いました。
これから送ってお見せします。道端に古方泉があります。
四言の銘文はこの通りです。兄上は「禝を種う」二字の書体を見られたかどうか
わかりませんが、近頃魯引を通して秘書省の役所で調べさせています。謹啓
768:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 20:48:24
>>766
河北省。
769:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 21:00:37
『与平原書』其二十四
雲再拝。呉書是大業、既可垂不朽。且非兄述、此一國事、遂亦失。
兄諸列人皆是名士、不知姚公足爲作傳不。可著儒林中耳。
不大識唐子正事、愚謂常待便可連於尚書傳下。書定自難。
雲少作書、至今不能令成。日見其不易。
前數巻爲時有佳語、近來意亦殊巳莫莫。猶當一定之。恐不全。
此七巻無意復望増。欲作文章、六七紙巻十分。
可令皆如今所作輩、爲復差徒爾。文章誠不用多。
苟卷必佳、便謂此爲足。今見巳向四巻。
比五十可得成。但恐胸中成[病]爾。恐兄胸疾必述作人。
故計兄凡着比之自損。胸中無縁不病。作書猶差易。
讚敍亦復無幾。年歳根[限]之。猶當小復。謹啓
770:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 21:01:11
雲再拝す。呉書は是れ大業なり、既に不朽垂る可し。
且つ兄述ぶるに非ざれば、此の一國の事も、遂に亦た失はれん。
兄の諸列の人は皆是れ名士なるも、姚公は爲に傳を作るに足るや不やを知らず。
儒林中に著す可きのみ。大いには唐子正の事識らざるも、
愚謂ふに常待は便ち尚書の傳の下に連ぬ可し。書は定自(さだ)めて難し。
雲少しく書を作るも、今に至るまで成らしむ能わず。日に其の易からざるを見る。
前の數巻は時に佳語有りと爲せしも、近來(ちかごろ)意亦た殊に巳に莫莫たり。
猶ほ當に一たび之を定すべし。恐らくは全からざらん。
此の七巻は復た増を望むに意ふこと無し。文章を作らんと欲すれば、
六七紙の巻にして十分なり。皆今作る所の輩の如くならしむ可くんば、
復た差(やや)徒爾なりと爲す。文章は誠に多を用ひず。
苟しくも卷必す佳ならば、便ち此を謂ひて足れりと爲す。
今見るに巳に四巻に向(なんなん)とす。
五十に比(およ)びて成るを得可し。但だ胸中の[病]を成すを恐るる爾。
恐らくは兄は胸疾むも必ず述作するの人なり。
故に計るに兄凡て此れを着はすを之れ自ら損せよ。
胸中縁(ゆくり)無く病まざらん。書を作るは猶ほ差(やや)易し。
讚敍も亦復た幾も無し。年歳之を[限]る。猶ほ當に小しく復すべし。謹啓
771:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 21:01:48
雲、再拝。呉書の選定は大変な仕事です。これは不朽の著作になるものです。
兄上が作らねば一国の歴史が伝わる事無く失われるでしょう。
兄上の列伝の人々は皆呉の名士ですが、
姚信のために列伝を立てる必要があるでしょうか?
儒林傳の中に加えるだけで十分です。唐固の事はよくは存じませんが
散騎常侍の陸喜の伝は選曹尚書の陸瑁の伝の下に続けるとよいと思います。
書を作るのは本当に難しいです。私も少しばかり書を作っていますが、
未だに仕上がっておりません。日が経つにつれ難しさがわかってきました。
今までの六・七巻の中にも良い言葉があると思いますが、
最近は考えがうまくまとまりません。巻数を一定にしようと思いますが
恐らく不完全なままで終わるでしょう。七巻の書は増やさないつもりです。
著作の場合、一巻の分量は六、七枚の紙を貼り繋ぐ程度で十分です。
今時の輩と同じように作っていては、つまらないものになってしまいます。
文章は長くない方がよいと思います。それなりに見所があればよいのです。
いまやっと四巻目に入るところです。五十巻で呉書は完成です。
ただ心配なのは胸の病気が悪化することです。
兄上は胸の具合が悪くても著作を続ける方です。
根を詰めずにやれば、体調も快方に向かうでしょう。
書を作るのはまだよい方で、讚や敍はまだ出来てはおりません。
人の寿命には限りがございます。少しは健康に留意して回復されますように。
772:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 21:03:23
この手紙の内容は、陸機の『呉書』の添削を陸雲が引き受けてるんだと思う
陸雲は兄が健康を損なうことを心配しているのか
これ以上病気が悪化するのを恐れているのか、どちらか迷った。
具体的に“胸疾”と書いてあるし、重い病だとしたら…
陸機の晩年の不可解な行動も腑に落ちるんだ
なんだか全部通して読んでると泣けてくるんだぜ・゚・(ノД`)・゚・ "ちくしょーー
『太平御覽』巻六百二
『抱朴子』曰、(中略)陸平原作子書未成、吾門下生有在、陸君軍中嘗在左右。
陸君臨云日、窮通時也遭遇命也。古人貴立言以爲不朽。吾所作子書未成。以爲恨耳。
『抱朴子』に言う、陸平原子書を作りて未だ成らず、
吾が門下生に陸君の軍中に在りて常に左右に在りしもの有り。
説く「陸君亡に臨んで日く『窮に遭遇せしは時の命也。古人は言を立つるを貴びて以て不朽と爲す。
吾作る所の子書未だ成らず。此れを以て恨みと爲す耳。』と」
773:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 21:27:02
陸兄弟・゚・(ノД`)・゚・
772の『抱朴子』は陸機の遺言?・゚・(ノД`)・゚・
774:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 22:05:51
>>773
遺言です。『抱朴子』の著者は葛洪(283-343)晉の人です。
陸機をネ申と崇めてたみたい
公式の遺言は『晉書』陸機伝
「華亭鶴唳、豈可復聞乎。」華亭の鶴唳、豈に復た聞く可けんや
「華亭の鶴の鳴き声は、もう聞くことができないのだな。」
いつもいつも思うんだが、何とかならなかったのか…・゚・(ノД`)・゚・
775:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 22:16:26
>>774
遺言でいいのかな?辞世の句?
776:1(ry
07/02/27 01:57:33
>>762-763
#雑詩(孔融)
Thxです!! うひー、「天には酒旗のかがやくを垂れ……」のオッサンと別人みたいですね。
孔融はなんとなく、曹操にすげーうまい文章でヘリクツばっかこねてるへんくつのオッサン! と
いうような印象があったのですが、こういう作ものこしているんですね。・゚・(ノД`)・゚・。
でもやっぱり、すごく動詞があざやかで、情景が場面をおっていきいきとながれるようで、
すごく(当時として)新しいというかオサレというか、モダンな表現の作ですおね……。
そのせいで、まるで映画のように、ある意味では演出効果的なあざやかさをともなって、
なにがあったのか、孔融がどう思ったのかがドバーンを伝わってくるように思うますた
(同じことが、たとえば「与魏武帝禁酒書」とかにもいえますおね?
「まじめな」内容の文章も演出効果バリバリでかいているので、内容によってはうそくさいというか、
「禁酒法をいさめる手紙」みたいななかみのときは、TVのおおげさなテロップみたいにアホらしく見えますおねw)。
曹丕が「孔融の文は才気の薫り高くてかっこいいけど、たまにことばが上すべりする」といったのは、
こういうことを言いたかったんだろうな……と(自分は)思うですー。
ここで没さずとも、孔融さんちはみんな処刑されてしまうんですおね……(´・ω・`)
777:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 02:06:58
陸機。・゚・(ノД`)・゚・。
八王の乱のくだりを読むといつも何とも言えない虚無感に襲われる
778:1(ry
07/02/27 02:12:54
>>769-772
#陸雲与兄平原書
Thxです!! うああぁーん二陸兄弟。・゚・(ノД`)・゚・。
陸機は平復帖とか、書道がすきだったんですねー。曹操は魏書に「とても草書がうまかった」と
かいてあるので、ヒラヒラと草書をかいていた陸機たんはそのへんもネ申にあこがれてたのかw。
なんか、陸機たんも陸雲たんも、乱世むきじゃない兄弟だなーと思うです。・゚・(ノД`)・゚・。
曹丕も一家言集みたいなのがすきだし乱世むきじゃないよなーと思いつつ、
曹操ゆずりの才能でしっかりと騒乱の三世紀をまとめていますが、陸兄弟は。・゚・(ノД`)・゚・。
孫堅・孫策の子孫で陸遜の孫、陸抗の子なのに、なんかオットリと……。・゚・(ノД`)・゚・。
八王の乱にひょいっとひっかかっちゃうし、陸雲たんもいつも笑顔満開のオッサンで、
きみらすごく乱世にむいてないよ!! うあーんばかー!! と思ってしまうです。・゚・(ノД`)・゚・。
隋唐とかにうまれて、南部でゆっくりキラキラと平和にしごとしてればよかった。・゚・(ノД`)・゚・。
そうしたら岑参といっしょにギョウのお城の廃墟(幽霊つき)にだって登れたのに。・゚・(ノД`)・゚・。
779:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 03:33:37
>幽霊つき
皆幽霊大好きだなw ・゚・(ノД`)・゚・
780:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 03:55:18
ある男が、野ざらしの骨をとむらってやったら、美女の幽霊が戸を叩く。
誰何すれば「ひ(妃)です」という。
そして「お礼に」と一夜を共にしてくれた。
野ざらしの骨はなんと、楊貴妃のものだったのだ。
それを聞いた奴が「俺も俺も!」とそこらの骨を弔ったところ
夜中に「ひです」と、戸を叩く音がした。
「キタ━━(゚∀゚)━━!!!」と戸を開けると、ガチムチの豪傑がいた。
「張飛です。部下に殺され野ざらしになっていたところを
弔ってくれてどうもありがとう!お礼に一夜を共にしてやろう」
とケツを出した
なんて話があるね。幽霊つながり。
781:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 03:58:33
ちょwwwwおまwwwwwww
この流れで張飛の尻をwwwwwwww泣いたり笑ったり忙しいジャマイカwww・゚・(ノД`)・゚・www
782:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 04:11:17
>>780
マジかwww
783:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 04:47:23
>>782
結構有名な中国の小話。
落語みたいな感じなんかね、イヤなこぶとり爺さんとも言えるww
784:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 10:05:49
孔融は偏屈過ぎ
陸兄弟はピュア過ぎかな?
785:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 10:33:37
孔融は凄く素直
素直なのは自分に対してだけだけど
これほど素直な人は三国時代でも珍しい
786:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 10:49:08
>>776
>>784
>>785
曹操にズバズバ物言えるんだもんな。言い方はあるけど凄いよな。
787:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 12:33:53
陸兄弟はチャンバラも弱そう…
788:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 12:43:02
今酒見賢一の「泣き虫弱虫諸葛孔明第二部」読んでんだけど、
孔融の可愛く無さは異常www
曹操が殺したくなる気持ちが物凄くよくわかった。
まあ、実際本では過剰に面白おかしく書かれてるけど、
それを抜きにしても、
ものすごくつまんないことまでいちいち揚げ足とってくる
(その揚げ足の取り方がまた無駄に一流)
超名門で、自分より上のものは無いと思ってる男(帝にも不敬な言吐いてたよね)
側に居たら本気で嫌な奴だろうなとは思う
789:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 12:51:36
>>788
ワカルwww>>529>>530で屈原ファンの俺もヤシに殺意を覚えたw
790:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 13:28:22
あれはひどい!屈原はそんな意図で楚辞を書いたんじゃねえ!
と殺意を覚えていたが、>>762みたいな面もあるんだな。
悲しみの表現も一流だね。
791:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 14:28:46
陸兄弟の可愛さも異常・゚・(ノД`)・゚・
792:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 14:50:10
>>790で屈原先生がでてきたんで國殤読みますた
いい詩なのでうpしようと思うんですが大丈夫でしょうか
793:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 14:55:19
おkおkでしょ。
>>1に土井晩翠でもおkと書いてあるしw
794:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 15:01:26
國殤 屈原
操呉戈兮被犀甲 呉戈を操り犀甲を被る
車錯轂兮短兵接 車の轂(こしき)は錯れ短兵は接す
旌蔽日兮敵若雲 旌(はた)は日を蔽し敵雲の若く
矢交墜兮士爭先 矢は交して墜ち士は先を爭う
凌余陣兮躐余行 余が陣を凌ぎ余が行を躐(ふ)む
左驂殪兮右刃傷 左の驂(そえうま)は殪(たお)れ右は刃傷す
霾兩輪兮縶四馬 兩輪霾(ばい)し 四馬を縶(つな)ぐ
援玉枹兮撃鳴鼓 玉枹(ぎょくほう)を援りて鼓を撃ち鳴らす
天時墜兮威靈怒 天時は墜ちて威靈は怒り
嚴殺盡兮棄原野 嚴しく殺し盡くされ原野に棄てらるる
出不入兮往不反 出でて入らず往きて反らず
平原忽兮路超遠 平原は忽にして路は超遠なり
帶長劍兮挾秦弓 長劍帶びて秦弓挾み
首身離兮心不懲 首が身を離るとも心は懲りず
誠既勇兮又以武 誠既に勇のみならず又以って武なり
終剛強兮不可凌 終に剛強にして凌ぐべからず
身既死兮神以靈 身は既に死して神となり以って靈(くし)ぶ
魂魄毅兮爲鬼雄 魂魄は毅く鬼雄と爲りぬ
795:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 15:02:44
呉戈を手に取り犀皮の鎧を着よう
戦車は車軸をぶつけて戦い歩兵達も戦いを始めた
旗は日が遮られんばかりに立ち敵は雲霞の如く溢れ返る
矢が飛び交い我が軍は先を争って突撃した
しかし我々の陣形は打ち破られた
私の戦車の左の副え馬は倒れ右の馬は斬り傷を負った
両輪は地面にめり込んで動かず四匹の馬の動きを阻害する
ばちを手に取って太鼓を打ち鳴らし味方を奮い立たせたが
天の時を得られず(敗戦し)英霊達は怒る
味方は悉く殺され尽くしその遺骸は原野に晒されたままだ
一度国を出れば二度と戻ることはない
平原は空漠としてその路は遥か彼方
常に長剣を帯びて秦弓を持ち
首が体から切り落とされようとも心が折れることはない
その心は勇ましく猛々しく
死ぬまで強く堅く何人たりとも犯すことはできない
そして死した戦士達は英霊となって我々を加護してくれる
その魂魄は強く護国の鬼となったのだ
796:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 15:09:43
三国時代以前の文学の中では詩経とならんで重要な楚辞の中から國殤を翻訳してみました
曹氏の出身地も戦国楚の領域ですから楚辞を結構歌ってたんじゃないでしょうか
漢帝国末期にはこの詩を心の中で歌ってる知識人もきっと居たことでしょう
兮という字によって音を整えているそうですがこれ見て上留田と合いの手を入れていた曹丕を思い出します
楚人のDNAを色濃く受け継いでいたんでしょうかね
文章は流石名作古典(三国時代の古典)と言われるだけあって勇壮でありながら悲しく涙をさそいます
死んでも国を守らんとする屈原の想いと意気をここに見出す事ができます
そしてこの意気込みが脆くも挫かれ泪羅に身を投げた事実によってこの詩が彼の本当の心だったと証明されるのです
この詩に説得力があり人々の心に深く染み入るのもその死故でしょう
拙い訳と書き下し文、総評ですがこの屈原の想いを理解できる一助となれれば幸いです
しかし、それにしても孔融おじさんはこの人を酒飲む為のダシにしたのかと思うと「このオヤジは…」と曹操が嫌になるのも当然でしょうね
私もそう思います
797:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 15:13:28
乙!>>530 >>789 >>790がマジギレした理由が少し判ったw
798:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 15:16:55
そういや三国志マガジンで連載されてた大西巷一の「曹操孟徳正伝」で
戦中の曹操が國殤を歌うシーンがあったなあ。
なんだかしみじみしてきますた
799:1(ry
07/02/27 15:41:27
屈原先生ときいてとんできますた(ry
>>788-
#屈原先生&孔融
そうなんですお!! 堯王は伝説の人だし、孔子は自分の先祖だから身内だし、
劉邦はとりあえずいいとして(すまんですがw)、屈原先生は血をはくおもいで漁父をかいたんですお!
それを孔融のオッサンは酒のみたいだけでつごうよく引用しおってー、ぬぬぬゆるせん。
と、はじめは本気でむかついていたのですが、なんかこの孔融の
「世界はおれのためにあるんだぜぃ」っつー不遜さは、なんかクセになりますw。
そんなのが横にいたら、天下をねらうどの群雄だってキレるでありませう。
>>762-763さんの雑詩の、はでやかなのに色彩のみえない表現は、
ふだんは堯帝も屈原先生も酒のダシにしちゃうような不遜な孔融が、ほんとうにかなしいと思って
自身のほんとうの感情をそのままにあらわそうと試み、でも演出効果つきのド派手な文しかでてこなくて、
ふつうの人(なにかのすごさを表現したいのに、技術がたりずに言い表せないよ!)とは逆の意味で
(素直なかなしさを表現したいのに、はでな文しか出てこねー)もどかしく詠んだようなふうに(自分は)思えますた。
800:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 15:57:07
孔融さんは恐らく現代日本で言うと一生懸命勉強しなくても東大京大クラスの大学に入れる頭の良い人だったんでしょうね
だから周りがお馬鹿に見えてしょうがないタイプだったに違いないですな
同類には鍾会さんとかがいます
あの人も基本的に人を侮り過ぎるタイプです
801:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 16:06:32
ものっそいイケメンのプレイボーイで
普段は口説きが上手くて女はチョロいぜみたいに生活してる男が、
初めて真実の愛が芽生えた女性に
何を言ったら良いのか分からないみたいなものか。<雑詩
802:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 16:13:01
曹操も大概なんでも出来る人だけど、
コンプレックスのかたまりみたいな人でもあるから
孔融とはまったく正反対だよね
803:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 16:36:41
>>801
それなんてビートルズのイエスタデイ?
804:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 16:46:54
言われてみると>>762はもろイエスタデイだw
805:1(ry
07/02/27 19:08:30
うはwwwwwイエスタデイwwww
もとの詩はまだ著作権がありそうなので、訳だけうpしてみるテスト(ry
『イエスタデイ』 レノン&マッカートニー
「きのう、おれには苦しみなど関係ないとおもえていたのに
今はそれらが目の前にある、ああ、おれはきのうに思いをはせる
いきなり、おれはきのうまでとぜんぜん違う男になってしまった
陰がおれの上にのしかかる、ああ、きのうは突然におとずれたのだ
なぜ彼女が去ったのかわからない、何もいってくれなかったから
おれがいったことは間違いだった、今おれは心からきのうを求める
きのう、愛なんてかんたんなただの遊びごとだった
今はおれはどこかに隠れて顔をそむけてしまいたい
ああ、おれはきのうに思いをはせる
うう、おれはきのうに思いをはせる」
806:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 19:21:20
また凄い流れだなwww
762氏が再来したら仰天するぞ
807:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 19:27:53
>>806
残念ながら…
>>762=>>803
808:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 19:30:18
イエスタデイはジョンだっけ、ポールだっけ
809:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 19:39:00
ポール
ジョンレノンは曹植だからなw
810:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 19:39:01
孔融の話しで少し鍾会に触れたので鍾会と蒋斌の手紙をうpします
魏大將軍鍾會至漢城,與斌書曰
「巴蜀賢智文武之士多矣.
至於足下,諸葛思遠,譬諸草木,吾氣類也.
桑梓之敬,古今所敦.
西到,欲奉瞻尊大君公侯墓,當洒掃墳塋,奉祠致敬.
願告其所在!」
斌答書曰
「知惟臭味意眷之隆,雅託通流,未拒來謂也.
亡考昔遭疾,亡フ於縣,卜云其吉,遂安サク之.
知君西邁,乃欲屈駕脩敬墳墓.
視予猶父,顏子之仁也,聞命感愴,以增情思.」
魏の大将軍鍾会漢城に至り、斌に書を与えて曰く
「巴蜀は賢智にして文武の士多し。
足下より至り、諸葛思遠、譬(たと)い諸草木まで、吾の気類也。
桑梓の敬は、古今の教える所なり。
西に到り、尊き大君公侯の墓を奉じ瞻(まば)るを欲し、当っては墳塋を酒掃し、祠に致り敬を奉つる。
其の所在を告ぐることを願う!」
斌答書して曰く
「惟(ただ)臭味の意(こころ)眷の隆(さかん)なるを知り、雅は通流に託し、拒まず來ると謂う也。
亡考は昔疾チンに遭い、フ縣に亡く、卜は其を吉と云い、遂に之を安サクす。
君は西に邁くと知るも、乃ち墳墓に屈駕し脩敬するを欲す。
予(かね)てから視るに猶(さながら)父のごとく、顏子の仁也(なり)て、愴(いた)みを聞きて命感し,以って情思を增す。」
チンはやまいだれに火
フは倍の部首を人偏からさんずい
サクはまだれに昔
811:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 19:51:52
魏の大将軍鍾会は漢城を包囲してから蒋斌に書状を送っていう
「巴蜀は賢人や文武に優れた人が多いですね。
貴方も諸葛思遠も、果ては一般人でさえも私たちと同じように感じ共感できます。
故郷を大事にする事は常に言われている事ですので敵味方に分かれていても気にする事はありません。
西に行くのですが、貴方の尊きお父上のお墓を訪ね、水を撒いて掃除し、祠を拝みたいと思っています。
他人の私がお参りするのが嫌でなければどちらにあるのかお教え下さいますか?」
蒋斌はこれに返書をしたため
「同輩の如く思っていただけるのはありがたい事ですし、現在の時流を考えましても、拒まないものでしょう。
亡き父は昔熱病に遭って、フ県で亡なり、占うとそのままが葬るのが良いと出ましたので、結局そこに遺体を埋葬しました。
貴方は西に行くと仰られているのはご存知ですが、お墓参りをしていただけるのであれば是非お願いします。
昔にも父のように、顔回と孔子のように他人同士でありながら父子の如く付き合ったようにしていただけるという例がございますし、
貴方が示してくれている父への悼みの気持ちをお聞きして感激し、また亡父への思いが増すことになりました。」
蜀滅亡時に漢城を包囲してから降伏勧告の手紙として鍾会が送った物だと思われます
この手紙でのやり取りの解釈はニセクロ氏のサイトで面白く読ませていただきましたのでアドレスを添付いたします
URLリンク(www.geocities.co.jp)
の【蒋斌の雅量】という項目です
私は鍾会が嫌味で言ったのではなく立て篭もる犯人に「お父さんは泣いてるぞ!」的な勧告をしているのだと解釈しました
他人だけにお墓参りをさせず私と一緒に行きましょう、という優しい降伏勧告にも感じられます
蒋斌の答えはNo!
亡き父への思いを強くすると言う事は即ち蜀を大将軍として守りぬいた蒋エンを思い出すという事ですから鍾会の手紙は逆効果だったと言えましょう
城を枕に討ち死にする決意とも読み取れます
この潔さに対して鍾会は、貴方の息子は素晴らしいですね、という意味も込め遠回りしての墓参りをしたのではないでしょうか
812:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 20:18:39
>>762
>>805
( ゚Д゚)
(つД⊂)ゴシゴシ
(;゚Д゚)
(つД⊂)ゴシゴシ
Σ(゚Д゚)!!
813:1(ry
07/02/28 01:30:43
>>780-
#張飛の幽霊
Thxです! うひー、笑府ですおねwwww。
岩波文庫から、こんど新しく重版されるらしいですー。wktk(0゜・∀・)
「妃」と「飛」が同じ声(平声の「微」/fei)なのが、災難のミソですねw。
この場合、張飛におしかけられた男はどうすればよいのでせう……w。
1)丁重におことわり→「おれの礼がうけとれないのか!」→あぼーん
2) 1にガクブルしてありがたくいただく→精神的ダメージMAX→あぼーん
【この話からわかること】
・張飛はたいへんに義理がたい、りっぱな悲運の将です。
・昔は骨がそこらへんに落ちています。気をつけましょう。
>>787
#陸兄弟
チャンバラがつよいだけでは、多勢に寡兵では生き残れないかもですおね。・゚・(ノД`)・゚・。
曹髦たんもチャンバラはつよかったらしい……(´;ω;`)ブワッ
>>811-
Thxであります! 鍾会も鍾ヨウの子だけあって、複雑な手紙をかくんですねー……
814:1(ry
07/02/28 01:38:19
#幽霊ついで
なんか曹植たんも、美女の幽霊(というか仏さま?)と会ったことがあるらしいですw。
友人の坊さんの家にあった、僧侶専門誌(?)をななめよみしたうろおぼえ記憶なので、
自分はよく理解できずにたいへんあやしいのですが……orz。↓以下あやしい記憶でs。
ぜひフォローをおねがいしますorz orz orz
「曹植たんが(たぶん)東阿王のときのことです。曹植たんは東阿で悶々とした日々をおくっていました。
悪い兄がいじめる(orz)うえに、ろくな食べものもなく、ストレスが胃にきてついに何も食えなくなり、
あわれ曹植たんは氏にかけていました。すると、やさしい謎の美女が毎日訪れてくれて、
曹植たんにおいしいごはんを作ってくれました。曹植たんは、謎の美女のおかげで元気になりました!
曹植たんは美女にずっといてくれるように頼みましたが、美女はいつもしらない間に帰ってしまうのです。
すっかり復活した曹植たんは美女におれいをしようと思って、彼女がすんでいるといっていた
近所の魚山という山へいってみました。すると、そこはさびれたお寺しかなく、
誰も住んでいなかったかわりに、美女にそっくりな観音さまの絵(像かも?)がありました。
曹植たんはたいへんに感動しておいのりしました。すると、天からすばらしいお経がきこえてきました。
ありがたく思った曹植たんはそれにヒントを得て、すばらしい文才で詩をよみ、仏さまにささげました。」
曹植たんが魚山で梵音(お経?)をきいたとか、仏教関係はなんか難しくてよくわからないですorz。
815:無名武将@お腹せっぷく
07/02/28 03:03:48
>>813
つ 3)アッー!
816:無名武将@お腹せっぷく
07/02/28 04:33:25
>>813
日本語の音で単に「ひ」だったなら、曹丕が出てきてお礼に美味しい甘いものやらご馳走やら美酒やら…………を曹丕が堪能した際の自慢と蘊蓄と感想を夜が明けるまで一方的に語られ尽くす、なんてオチもありかなとちょっと思った。
817:無名武将@お腹せっぷく
07/02/28 04:40:18
>>814
仏教が浸透した後に作られたプロパ説話ぽいね。
まあ、支那の怪談には、絵に書かれた美女が絵から出てきて
男に色々してくれるというものがあったりするので断言できないが。
818:無名武将@お腹せっぷく
07/02/28 04:47:12
>>816
いいなそれw死後に書いたと思わしき文が残っていることだし、
甘党皇帝の幽霊なら大歓迎だww
819:無名武将@お腹せっぷく
07/02/28 06:44:09
本日、というかもう昨日だが三国志集解と一緒に高僧伝(梁高僧伝)を見つけたので購入
高僧伝は中華書局からでている繁体字本で、巻末に人名索引付
以前、曹植と仏教の関連についての話題がでていたが、
巻末の索引のおかげで該当箇所がすぐに見つかったが
仏教用語だらけでわからん\(^o^)/
とはいえ、いろいろググりつつわかる範囲で解説してみるが
多分間違いがいっぱい\(^o^)/
問題の部分は、高僧伝巻十三経師 にある、
で、この経師というのは「経典を朗誦するのがうまい人」と漢語大詞典にでてくるが
高僧伝の経師に立伝された僧侶の伝をぱらぱら眺めたかぎりでは、
単に経典を読むのではなく、経典中の韻文に節をつけて朗誦するのがうまい人のことらしい
ただ、この韻文がサンスクリットそのままで朗誦するのか
漢訳した韻文にインド風?の節をつけて朗誦するのか、その両方なのかよくわからんかった
まぁ、所謂「声明」にあたるものらしいです
で、曹植はこの高僧伝巻十三経師の伝ではなく、伝の後の「論」に登場。
そして実は、高僧伝をもとに《全梁文》卷73に釋慧皎(高僧伝の著者)の
經師論として収録されているので《全梁文》をもっていれば
そちらでも読めるみたい
820:無名武将@お腹せっぷく
07/02/28 06:45:41
で、肝心の原文だがwebにもあった\(^o^)/
URLリンク(www.buddhist-canon.com)
URLリンク(www.buddhist-canon.com)
とりあえず関連箇所を抜粋すると
自大教東流、乃譯文者衆、而傳聲蓋寡。良由梵音重複、漢語單奇。
若用梵音以詠漢語、則聲繁而偈促。若用漢曲以詠梵文、則韻短而辭長。
是故金言有譯,梵響無授。始有魏陳思王曹植、深愛聲律、屬意經音。
既通般遮之瑞響、又感魚山之神製。於是刪治瑞應本起、以為學者之宗。
傳聲則三千有餘、在契則四十有二。
(かなり略)
原夫梵唄之起、亦兆自陳思。始著太子頌及■頌等。因為之製聲。
吐納抑揚、並法神授。
821:無名武将@お腹せっぷく
07/02/28 06:48:59
よくわからんところが多いが強引に訓読
大教東流して自り、乃ち文を譯する者は衆(おお)く、而して聲を傳えるものは蓋し寡し。
良(まこと)に梵音の重複して、漢語の單奇なるに由るなり。
若し梵音を用いて以って漢語を詠めば、則ち聲は繁にして偈は促たり。
若し漢曲を用いて以って梵文を詠めば、則ち韻は短かくして辭は長し。
是れ故に金言に譯有りて,梵響は授くるもの無し。
ここは中国語(単子音+母音+単子音)とサンスクリット語(英語のように
二重三重に子音が連続可)という音節構造の違いによって互いに節をつけがたい
ということかと思ったがわからん。
最後の一文は、だから有難い教え(=仏典)は漢訳されても、もとのサンスクリット語
での朗誦?を伝える者がいない。という意味だと思う
始めて魏の陳思王曹植有り、深く聲律を愛し、意を經音に屬す。
この聲律・經音が、果たして漢語にインド(には限らんかも試練が)風の
節をつける程度のものなのか、原語(サンスクリット等)のまま節をつけたのか
気になる
既に般遮の瑞響に通じ、又魚山の神製に感ず。
般遮はたぶん般遮于旬(はんしゃうじゅん)という仏教の音楽の神様で
ここは恐らく>>416の最後の行の故事を踏まえた文章。
この故事は宋・劉敬叔の志怪小説『異苑』巻5に載っている。
ただし『異苑』には、この時聞こえたのが梵音であると言う説と、神仙の声である
という説と二説載せていて、仏教側と道教側とでそれぞれ都合よく語られた逸話っぽい
822:無名武将@お腹せっぷく
07/02/28 06:51:16
是に於いて瑞應本起を刪治し、以って學者の宗と為す。
聲を傳うるは則ち三千有餘、契に在りては則ち四十有二。
瑞應本起はどうやら佛説太子瑞應本起經とう経典のことで現存するらしい
URLリンク(web.kanazawa-u.ac.jp)
自分には確認できんが、高僧伝巻十三経師の伝の中に「製瑞應四十二契」や
「瑞應七言偈一契」という言葉が出てくること、また契というのが仏典の韻文を
数える量詞っぽいことから考えると、
瑞應本起経のなかから、韻文42契(音節?数で三千以上)を抜粋して、
声明?の教則本のような物を作って、声明を学ぶ物の手本となったという意味
じゃないかと推測
夫(か)の梵唄の起こるを原(たず)ぬるに、亦た兆すこと陳思自りす。
始め太子頌及び睒頌等を著し、因って之が為に聲を製る。
吐納抑揚、並びに法 神授す。
梵唄(=声明?)の起源が陳思王にあると述べていて、
ググったら中国での仏教音楽の確立の起源を曹植に求めているサイトがあったような
太子頌と睒頌はわからんが、太子は佛説太子瑞應本起經なんかの太子の可能性もあって
必ずしも魏王朝の太子とは関連が無いかも
823:無名武将@お腹せっぷく
07/02/28 06:53:45
手持ちの資料では、唐代に編集された法苑珠林という仏典にも曹植の話しがでてくるが
基本的には高僧伝の延長のような話しだし、もう疲れたので割愛。
ググってみると、ほかにも仏典中に曹植が登場するらしく、
中国のサイトで重いけど
URLリンク(jzf.cixin.org)
とりあえず自分の感想としては、曹植と仏教の関わりを示す資料が仏教徒側に
偏っているのもさることながら、自分が見た史料では曹植の興味が
仏教の韻文の節回し>>>>>>>>>>>>仏典の内容
にしか見えんので、とりあえずこの史料から曹植を仏教徒とまでは
決め付けがたいです
連投および長文失礼
824:無名武将@お腹せっぷく
07/02/28 06:57:29
ごめん>>821のアンカーは
>>814の
>曹植たんが魚山で梵音(お経?)をきいた
のことでしたorz
825:無名武将@お腹せっぷく
07/02/28 11:47:29
GJ!!でもサッパリ\(^o^)/ワカンネ
ちーちゃんが美人の観音様に食事作って貰って
お礼に行ったら節回しのいいお経が聞こえたのか~
いいなあ
826:無名武将@お腹せっぷく
07/02/28 13:11:24
とりあえず異苑の文章を置いときますね
陳思王曹植、字子建。嘗登魚山、臨東阿、忽聞巖岫裏有誦經聲、清通深亮、
遠谷流響、肅然有靈氣、不覺斂衿祗敬、便有終焉之志、即效而則之。
今之梵唱、皆植依擬所造。一云、陳思王遊山、忽聞空裏誦經聲、清遠遒亮、
解音者則而寫之、爲神仙聲。道士效之、作歩虚聲也。
陳思王曹植、字子建。嘗て魚山に登り、東阿に臨みたるに、忽ち聞く巖岫(がんしゅう)の裏(うち)より經を誦するの聲有るを、
清通して深亮、遠谷に流響し、肅然として靈氣有り、
覺らず衿を斂め祗敬し、便ち終焉の志有り、即ち效(なら)いて之に則る。
今の梵唱は、皆植の依りて擬(なぞ)らえて造る所なり。
一に云えらく、陳思王 山に遊び、忽ち聞く空の裏(うち)に經を誦するの聲あるを、
清遠にして遒亮(しゅうりょう)、音を解する者則りて之を寫し、神仙の聲と爲す。
道士 之に效(なら)い,、歩虚の聲を作るなり。
827:無名武将@お腹せっぷく
07/02/28 13:23:50
有難過ぎて\(^o^)/ワカンネ
曹植タンは坊さんにも大人気ということなのだろうか
828:無名武将@お腹せっぷく
07/02/28 13:27:10
そりゃ曹操や曹丕は坊さんには人気無いだろうw
829:無名武将@お腹せっぷく
07/02/28 13:29:33
なんかこう、失恋したっぽい純情っぽいイメージがあるのかな
830:1(ry
07/02/28 14:36:17
>>827さんに\(^o^)/おなじ
>>821-822、>>827
Thxであります! なにが\(^o^)/なにやらあqwせdrftgyふじこlp;
いいだしっぺの責任で訳をこころみてみます。orz orz orz
831:1(ry
07/02/28 14:37:26
↑>>827は>>826のまちがいですorz
>>821-822訳(仏教版?)
「仏教が東(中国)につたわり、(経典の)文章を読めるものはおおいですが、
(インドのふしまわしで)それを発音できるものはあまりいません。
インドのことばに子音がおおく、中国のことばは子音がすくないからです。
もしインド語の発音で漢文を発音すれば、音節がおおくてお経のふしまわしがせわしくなります。
もし中国語のふしまわしでインド語の文章を発音すれば、韻がおおくてフレーズが長くなります。
こういったわけで、ありがたい文章の中国語訳はあるのですが、そのふしまわしは中国にはないのです。
魏の陳思王曹植は、とてもインド語のふしまわしが好きで、インド語のお経にくわしいはじめての人でした。
インドの仏教音楽の神様のすばらしい響きにつうじており、また、魚山でその神様の声をききました。
そして、インド語のお経から抜粋した(ふしまわしの)教則本をつくり、学者のおてほんになりました。
四十と二ほどのお経の三千あまりの音節で、インド語の発音をつたえました。
こういったインド語の仏教音楽の起源をさぐると、どうやら曹植のようです。
(曹植は)「太子頌」と「睒頌」という仏さまをたたえる詩をあらわし、それにふしまわしをつけました。
インド語のいきつぎの方法や抑揚と法を、神さま(仏さま?)が曹植にさずけました。」