07/01/21 17:00:07
>>710
だからその「龐統が能動的に主君を(それ以前の誰か)→周瑜→劉備と変えたのではなく、支配者が変わったのに合わせて役所に勤め続けただけ」の根拠は?
周瑜が南郡を落とし、再編を行わずに役所をそのまま引き継いだという資料でもあったっけ?特に明言されてない部分をあえて
「いや、龐統は呉に仕えていたわけじゃないんだ」と断言できるのは何故?
特に「南郡に出仕し続けること≠呉に仕えること」を分けなければいけない理由と根拠は?
「龐統が荊南で随一ともいえる」としたのは司馬キから受けた度々の高評、
博巽の「半英雄」(文脈上褒め言葉なんだろう)、揚州の名門・大学者である陸績、虞翻らと並んで称され親交を結んでいることからも、
州を越えた付き合いのある名士の証左だろう(他にも諸葛亮など居るので随一は言いすぎだったかも知れないが、トップクラスと言って良いはず)
「荊州人士を従えさせることは不可能なことじゃない」っていうか既に従えてるじゃん。
その「荊州を抑えるには軍事力と権威が必要で」、「周瑜生前時にそれだけのものを呉が持っていたか疑わしい」とするならその根拠は?
そもそも>>687から「荊州南部全域の平定を目指してる」みたいな書き方に思えるが、当時の呉の支配地域は南郡・江夏とその周辺地域。
蛮族が多く住む武陵(武陵蛮・五渓蛮)を中心とした地域は劉備側の領内だし、
そもそも荊州人士に対する影響力と蛮族問題は別物だろうになんで>>687は「越と同様に荊蛮に悩まされるのは明らか」なんて言ってるの?
それとも>>698以後の人物は別人?