07/01/21 12:48:17
>>697
張温伝で「山越の討伐さえ済めば曹丕と正面からことを構えるつもりだ(と諸葛亮に伝えてくれ」という言葉が出てくるし、
諸葛格など後年においても山越討伐は出てくるが、それは「入蜀段階で平定に明け暮れている状態」を意味しないだろ。
前にも述べたが国力をそちらに回さなければならないほど悩まされていたのは呉主伝にも残る200~206年で、
この間は実際黄祖討伐に赴くも国内の山越が蠢動したため撤退を余儀なくされてる。
しかし賀斉らの活躍もあり、国内の不安勢力掃討の意味ではこの時点で一段落ついており、
それが黄祖討伐の成功や赤壁の開戦を可能にした。
これ以後の山越討伐の話題は呉主伝に登場しなくなり、国力を注いだ治安事業から地方官による人員補充的なものになってくる。
その史跡は地方管理を任される部下の伝に「~~人を降伏させ、~~人を兵士として軍に編入した」という形でのみ残されるようになる。
国内を悩ます賊というより開発の余地あるフロンティアとして受け止められるようになっていく。
>>698
そもそも以前に官職に任命されていようと新しい支配者が気に入らないなら著名な名士は去る。他に幾らでも士官先があるのだから。
龐統は周瑜の死後その遺骸を届けに赴き、後に「貴方は以前周瑜の功曹であって~、主君が変われば現在の主君に云々~」
とあり、「呉に仕えていたわけで南郡に仕えていたわけじゃない」なんてどうして言える?単に周瑜死後に鞍替えしただけだろう。
現に劉備軍に行った時は従事兼県令として既に「彼は南郡の功曹として南郡太守に仕えて」居ない。
第一仮に龐統が南郡に仕えてるだけでその支配者に服従しているだけだとしても、呉の占領に対して
荊南で随一とも言える龐統ほどの名士が(全くコネ等に関係なく)黙って職務に励んでくれるなら、どっちにしろ荊州士人に対するコネなんてなくても支配は安定することになるだろ。