07/01/19 18:11:26
>>675
施績について、本人の伝以外の記述(三国志内)
陳留王紀にて「施績は賊国の名臣ではあるが、(孫休死後の混乱から)猜疑心を抱いて主君から嫌悪されている」と評される。
胡質伝にて「施績・ショウ済らと共に長江・ワイ水一帯で名を知られた」と評される。
王昶伝にて、250年に王昶に打ち破られ、諸葛誕の反乱の際に王昶に足止めされたとされる。
孫休伝にて、263年に魏の蜀侵攻に関して軍をどのように動かすか検討するよう求められたされる。
孫皓伝にて、264年に丁奉と左右の大司馬に任じられ、269年の四月に死去したとある。
また弁亡論の中で「施績と范慎は威信の重さで人々に知られる」と評される
孫奐伝にて、孫壱らと共に諸葛融を攻めたとされる。
諸葛融伝では、孫壱・施績らを率いたのは施寛とされる。
孫和伝の註にて、太子派の一人として大都督施績の名が上がる。
鍾離牧伝の註にて、鍾離シュンが宜城・信陵に城を築いて防備を固めるべきと唐盛に進言するも、
施績・留平ら知略を備えた名将たちが、宜城・信陵を通過したのに城を作ろうと言ってないから(鍾離シュンの意見を)取り上げなかったとされる。
参考になれば。