07/09/12 10:31:27 Gf4ev5M10
>>439より引用
そこでの十代おわりから二十代半ばくらいの女性たちは、彼氏と結婚に非現実的なまでの幻想を抱いていた。
(中略)
なぜか彼女らは余裕があり、流行の服やアクセサリーで身をかざっていた。
わたしとちがって京阪神圏の実家から通えたり、父親福祉も使える人が大半のようだった。
お昼時には、資格試験やスキルアップの話はなく、彼氏と結婚の話題でもちきりだった。
彼女らじゃほおをバラ色に染めてお金持ちの彼氏や社会的な地位の高いスマートな男性との結婚について語るのだった。
それは、フリースクールで自立が大切だと育てられたわたしにとっては理解しにくい話だった。
私にとっては彼女らは、あまりにも受身で無責任で依存的だと思えた。それは一種の「罪」のように感じられた。
みなが同じことをしゃべるのも不気味だった。職業や人生を豊かにする経験を自ら選択せずに、どうして実存ができるのか?
十代のころに図書館で読んだボーヴォワールの「人間について(新潮文庫)」を思い起こした。
彼女らの自我のなさには、正直言って吐き気さえ覚えた。彼女らは「企業戦士の銃後の妻」としての
「やまとなでしこ」を作る学校教育を無批判に受け入れているように見えたからだ。
(中略)
彼女たちは男性、彼氏、結婚についてあまりに幻想が大きすぎる。ちょうどそのころ彼氏がいることを伝えると、
「どうしてベンツの送り迎えがないの?」、「なぜブランドものの服や化粧品やバッグを持ってこない?」と質問責めにあって困ったことがある。
そんな風に高望みをするから彼氏ができないんじゃない? と言ってしまえば嫉妬が恐ろしいので、笑ってごまかしておいた。沈黙は金だ。
(中略)
どうやら、彼女らは暗黙の前提として、結婚すればもう働く必要などなく、
いわばシロガネーゼのような優雅な暮らしができると信じているようだった。
だが、気づかないのだろうか? 同じ職場で既婚の女性が安い賃金と細切れの雇用で働いていることを。
男性の上司が本来なら禁煙のルールの場所で喫煙をしていて、
自分もタバコの煙のニオイが嫌いであっても注意できない低い身分を見て聞いて、
それが自分たちの近い将来のありうる姿だと考えたことはないのだろうか?